命の使い道は。
「も……もうっ……走れ――わっ!!」
そう言って王子が転ぶ。
手をつないでいたため引きずられるようにして後ろを振り向けば、王子が地面に転がっていた。
反射的に後ろを確認すれば、縦横無尽に森の中を駆けてきたのがよかったのか、獣人達はついてきていないようだった。
肩で息をする王子に近寄り、怪我の状況を調べる。膝に擦り傷があるだけだとわかると、ユキは少しだけ安心した。
「はあっ……はあっ……貴様……よく、も……引きずったな……」
しかし、もう王子が限界であると悟る。
これ以上、この王子が走ることはできないだろう。そしてそれはユキも同じで、息が上手く吸えない。
「おうっ……じ……あちらに……洞窟がある、ようです……」
同じく肩で息をしながら、王子をグイッと引き上げる。
乱暴な動作に王子がうめくのも気にせず、獣人が追いついてきたらどうしよう……というその考えだけで、ユキは王子を引きずるようにして歩き始めた。
「おいっ! 乱暴すぎるぞ! 俺を誰だと思っている!!」
「緊急時、身分関係ない。乱暴ない。これ、普通。王子、遅い。モタモタしてると殺されます」
「くっそ……お前、異国人か……これだから異国人は嫌なんだ……野蛮な……」
王子は子供であった。実年齢もまだまだ大人とは言えない年齢であったので、今の人種差別としか言いようのない発言がどれほどまずいかに気づくことができなかった。そしてユキ自身も細かいことは気にしない上に、そもそもそんなことを考える余裕がなかったので何も言わなかった。
洞窟の中に入るとひんやりした空気が流れる。
外の気温よりもだいぶ低く、火照った体を冷やすのに丁度良かった。
「冷えるな……暑いから丁度いい」
足元には水が流れており、その水を目で追うと洞窟の外を流れる川につながっているのが見える。
(この洞窟の奥には湧き水があるのかもしれない)
奥へ奥へと行くにつれ、ユキの心が少しずつ落ち着いてきた。それと同時に、少しだけ罪悪感が沸いてくる。
(……私の方が年上、だよね? 王子はたぶん10歳にならないくらい。そして私は今日が仕事始めとはいえ、一応この子を守るのが仕事……さっきは確かに乱暴だったかも……余裕がなかったとは言え、痛かったよね……)
先ほど思いっきり引きずったせいか、つかんでいる王子の手は赤い。
王子は膝が痛むのか顔をしかめており、息はまだ乱れているようだった。
(わ、私が……しっかりしないと……パニックになっている場合じゃない……)
しかし、これはあまりにも理不尽だった。
あまりにも理不尽で、ユキは無力で、この小さな子供はさらに無力である。そう気づいた瞬間、ユキの心になんともいえない怒りがこみ上げた。
だが、命の危機に瀕している今、そんなことで怒っている場合ではないと思いなおし、大きく息を吸うと、ユキは王子に向き直る。
「王子、手、出します」
「なんだと」
「膝もです。私、怪我、診ます。敵はすぐに来ないです。だから、今のうちに診る」
「ふんっ……必要ない」
(……どうしよう、すっかり機嫌をそこねてしまった)
先ほどのことが尾を引いているらしいと気づき、ユキは心の中でため息をついて日本古来の謝罪――土下座をくり出した。
頭を地面に擦り付けると、王子の戸惑った空気が伝わってくる。
「失礼な態度を取ってしまい、大変、申し訳ございませんでした」
「えっ……あ……」
「怪我を診せて頂けますか? 傷がジクジクになったら、王子、もっと痛い。悪い虫、傷、腐らせる。そうしたら、王子、手足を切り落とさないといけません」
「……わっ……わかった」
ユキにプライドはない。
細かく言えば、プライドを捨てるべき場面を理解していた。今がそれだ。王子の機嫌が直るのであれば靴でもなんでも舐めるし、なんだったら蹴られてもいい。
反対に、この世界の者は非常にプライドを大事にする。謝罪はするものの、自分を貶めるような真似は絶対にしない。王族ともなればそれが顕著だ。
そして王子は、謝罪をするのにここまで自分を貶めるような者を見たことがなかった。ユキからすれば貶めているつもりは毛頭ないが、王子にはそうとしか思えなかったのである。
(こ、こいつ正気か……? なぜここまで……)
いささかショックを受けた王子は、ユキが怪我を診ているあいだ、大人しく地面に座っていた。
ジッと観察されている気配を感じ、ユキは王子と目が合わないように怪我に集中する。
(良かった。そんなに酷くない)
持っていた水筒の水で傷を洗うと、少しだけうめき声が聞こえ、王子が小さく震えた。
「……お前はデヴォル国が故郷ではないのであろう? 言葉がおかしい」
「デヴォル国? ああ、今私がいるところ。そうね、違います」
「なぜあの国にいるのだ」
「なぜ……? 拾ってもらったからです」
「は? どういうことだ?」
王子は不思議そうな顔をしながら、ユキの表情を読み取ろうとした。
「命の恩人、います。その人に、恩を返したい。だから、私はその人のためになることをします。彼のためになることなら、何でもしたいます」
「……なんでも?」
声色が変わったのに気づき、ユキは王子の顔を見た。
ようやくからんだ視線。王子の顔には複雑な色が浮かんでいる。
「なんでも、です。自分の命がなくなろうとも、最後までそばにいたい。あの人の悲しむ顔は見たくない。だから、命の使い道、よく考えないと駄目」
「使い道……? まあ、命を投げ出してまで仕えるというのは良くある。だが使い道とはどういう意味だ」
「命は1つ。その1つの使い道、吟味します。じゃないと、もったいない」
「もったいない……? ……お前はよくわからん」
実のところ、ユキもまだはっきりとはしていなかった。
アルージャがなぜ自分を助けてくれたのかわかっていないし、聞こうにもアルージャは牢屋だ。そしてその助けた代わりに牢屋にいるという事実が、いまだにユキの心を痛めていた。
(アルージャさん……どうしてるんだろう……怪我とか病気とかしてないといいんだけど)
そもそもユキは、自分の忠誠心は非常に厚い方だと自負している。一度人間性を気にいってこの人と決めたら、自らの命を使うことすらいとわない。さすがに現代社会で命を使うようなことはなかったものの、中学の時の担任の教師に恩を感じた時は、奴隷のように、かつ本人にはそれが伝わらないように根回しまでして身を粉にして仕えた。
ユキは、これがある種の依存症のようなものだと思っている。実際に“都合のいい女”“貢ぎ”だとか言われるような人間なのだろう。悪い男に引っかかったら、まず間違いなく利用される側になる。
そんなある種かたよった思想のユキだからこそ、今回自分の命を救ってくれたアルージャ、そして守ってくれているであろう仲間達のために自分の命を使おうと思うのは極々自然なことだった。
それが周りからしたら気味の悪い歪んだ忠誠心と受け取られようとも。
「……まあ、お前みたいな部下がたくさんいれば、国はもう少しマシになるのかもしれないな。だがお前は自分の命を軽く見すぎだ。会ったばかりの俺にわかるのだから、お前が助けたいと思っているやつは、余計にそう感じているんじゃないか?」
「え……?」
「悲しませたくないのなら、そこも気をつけることだな」
「…………」
ポツリと言われた言葉が、胸にしみる。
生意気なことをと思いつつも、地味に痛いところをつかれた。ばれないように心の中でため息をつくと、ユキは水筒をカバンの中にしまう。
「そもそも、そんなに大事にされているのであれば、そいつはお前が自分のせいで死んだとなれば悲しむのではないか?」
「誰が死んでも誰かが悲しむ結果になるなら、私は自分が死ぬ方がマシです。好きな相手には生きていて欲しい」
「ふーん……なんだか難しいな。お前は何か強迫観念にでもかられているように見える。そもそも死んで相手を助けるというのが前提にあるのがおかしい。生き残って助ける選択肢はないのか」
「……まあ、生き残る、できるなら……それが一番」
「そうだろう? 死なない選択肢を選べ。その方が誰も傷つかなくていい」
飽きた、といわんばかりにあくびをして、それから王子は大きくため息をついた。
そしてポツリとつぶやく。
「私は……お前のように命をかけてまで誰かを助けられる立場にいない。だから……お前が少しうらやましい気もする」
「ああ、王子だからね」
「……おい、お前、段々タメ口になるのは何故だ。私は王子だぞ? お前はただの騎士だろうが」
「王子、細かい。細かい男、モテない」
「なっ……!」
憤慨する王子を鼻で笑いながらも、ユキはこの小さな王子に救われたような気になっていた。