天幕ホタル
ほたるさんは宙を歩くことができた。
はじめて人前で宙を歩いた時、それは大変な騒ぎになったらしい。
テレビ局はくるし、新聞記者も飛んできた。一緒にいた高校の友達は呆気に取られてこわごわとほたるさんを見ていたという。
それでも、ほたるさんはべつだん変わったふうでもなく、歩道橋でも歩いているみたいに、ふわふわと空を歩いて行った。マンションの三階にあるほたるさんの家のベランダまでたどり着くと、なにもなかったみたいに「ただいま」と言って中へ入っていったのだと、大分後になってから、聞き及んだ。
騒ぎは大きくなる一方で、超能力じゃないかとか、悟りをひらいたんじゃなかろうかとか、勝手な憶測があちらこちらで飛びかい、ある時などは、どこぞの宗教団体の人が押し寄せてきて、お金のつまった大きな鞄を見せて教祖様の養女になってくれとまで言い出した。
でも、ほたるさんはみんな笑って終わりにしてしまったのだという。
嘘みたいな話だ。
ここまでくると、どこまでが嘘なのかも判じがたい。
それでもそんな噂のせいで、ほたるさんは学校では注目の的になってしまった一方、ねたみひがみの的にもなっていった、とも聞いた。
男の子たちは不思議な力をもったほたるさんに夢中になったし、ほたるさんは不幸なことに美人でもあった。とはいえ、男の子たちにはほたるさんがなんの気にもかけずに、スカートをはためかせて宙を歩いていくことの方が関心事のようであったらしいから、むしろ有害ななかでは、彼らが一番無害だったのかもしれない。
まあそれはそれで、難儀もんだね、とクラスメイトの噂話を聞き流したのも、ほたるさんがうちの高校へ転校してきた時に、ミーハーな男友達が鼻息を荒くしているのを聞いただけだ。
どこまでが事実でどこまでが尾ひれか、そんなのはぼくにとって正直どうでもよろしく、噂は噂でしかなかった。
ぼくはいつものように、その熱く語る友人の熱弁になんとなく相づちを打ちながら、放課後の図書当番のことについてぼんやりと思考の逃避を図った。
ぼくがほたるさんに出会ったのは、ほたるさんが何度か繰り返していたらしい転校で、同じ学年のふたつ隣のクラスにやってきた初夏のことである。
彼女は夏休みが始まる直前の、忙しない時期に転校してきた。朝礼で男の子達がどよめいていたのがもう半月ほどまえになるから、おそらく七月の頭くらいだったのか。
ほたるさんは隠し事を嫌うタイプの人のようで、休み時間などに校庭のヒマラヤ杉の高い枝にとまって、缶ジュースを飲んでいる姿をよく見かけた。
でも、ほたるさんのことはさんざんにニュースやテレビの特番で取り上げられ尽くして、メディアも少しくたびれたくらいの頃合いになっていたからか、うちの学校の生徒はとりたてて騒ぎ立てる生徒はいなかった。
元がお気楽な頭の校風であったからかもしれない。
そんなことよりも、演劇部の何とか先輩がかっこいいいだとか、水泳部の何ちゃん先輩が綺麗らしいとか、そういった事柄に生徒の気持ちは向いていたようだ。
学校に例えば元芸能人が転校してきたとしても、とっくに流行りは終わってしまっていたり、賞味期限切れの芸能人であったら騒ぎ立てようにも騒ぐ気が起きないのと、似たようなものか。
過ごしているうちに馴染んだらしい数名の女の子たちと一緒にいる姿を、いつしか見かけるようになった。下校時には風に乗ってふわふわとどこかへ帰って行く以外は、ほたるさんはいたって普通の女の子に見えるようになっていった。
ほたるさんが転校してきたのは、高校2年の夏である。
進学組には大切な落とすことのできない試験前だし、野球部のなに君センパイはとうとう左肩に『黄金の 』がついて誉めそやされつつも、今年が甲子園へのラストチャンスだったりと、学校内も静かに揺れ動いていた季節のただなかであった。
本来ならば夏休みが明けてからの転校が普通だろうのに、一学期の期末テスト直前、ほたるさんはぽんと現れた。
そのまま期末テストに突入したから、ほたるさんのことに気を取られる暇がないままに、ほたるさんに馴染んでしまったというのが実際のところだったのかもしれない。
わざわざ忙しい時期に入ってきたのは、意識的なものもあったのか、そこまではぼくには分からない。ただ、テスト後の打ち上げには堂々と参加したとのちにほたるさんファンの友人からまたもや流し聞いたことがあるから、適応力は高いほたるさんであったのかもしれない。
そのころ、ぼくはほたるさんとは全く関わりを持っていなかったから、それらの本当のところは、実際はほとんどよく知らない。
学年は同じだったけれどクラスはふたつ離れていたし、ほたるさんは活発な女の子で、昼休みなど男子たちに混じって校庭でサッカーに興じているくらいだったのだから。
いっぽうで、ぼくはどちらかといえば反対の性質を持った生徒だった。
図書委員会に所属していて、休み時間は何かにつけて図書室に入り浸っていたし、女の子はいまひとつ苦手だった。
教室の男の子にはだいたい三パターンの種類がある。
ひとつは体育会系でちょっと髪を染めたり、どこか威圧的な雰囲気を醸し出している元気なグループ。
どちらかというと文科系な、積極的に意見したり体育に取り組んだりできない、大人しいグループ。
もうひとつは、特に特定の友達をつくらずに一人で行動することが多い、一匹狼タイプの人たち。
ぼくは言わずもがなふたつ目の文科系なタイプだった。
他人の机を占領して、大きな声でしゃべる男の子たちのことは正直得意じゃなかったから、ぼくは図書室という逃げ場所をつくっていたのかもしれない。
そんなだから、ほたるさんとぼくの接点は、一見してどこにもないように思われた。ぼく自身ほたるさんのことは知ってはいたがそれほど関心があった訳でもなかったし、人気者の女の子というだけでも遠巻きにしてしまうぼくであった。ほたるさんとの関わり合いが、むしろあったほうがおかしい。
ぼくがほたるさんを見かけることがあったのは、休み時間に図書室の窓のすぐ外の木の枝にとまった、ほたるさんの後ろ姿を、本の貸し出しカウンターから見上げることがあったくらいだ。
だから、ぼくとほたるさんとは何の接点もないまま、季節は夏休みになっていった。
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夏休みになっても、図書室には開館日が何日かある。
主には三年生の受験を控えた生徒がたむろして、勉強をしながら友達としゃべったり、夏の旅行合宿の予定を組んだりしているのが大半で、ぼくはまだ二年生だからという、特に根拠のない余裕をもって、夏の間に届いた本の確認と称して誰よりも早く出たばかりの本を読みふけっていた。
図書室は冷房がきいているし、図書室のある二階には自動販売機も設置されている。図書室の中は飲食厳禁だが、貸し出しカウンターの裏にある司書教員室はその範疇ではない。
そこも冷房がきいているのはもちろんのこと、司書教員室には冷蔵庫もある。真面目な図書委員だと評価されているぼくは、特別に出入りが許されているので冷蔵庫で飲み物をこっそりと冷やしている。
結果、ここはぼくにとってある意味家よりも居心地のいい場所でもあるのだった。
夏休みの午後ともなると、集っていた三年生も講習やプールへと連れ立って行ってしまうので、午前中とは打って変わってしんとする。
遠くの音楽室から和太鼓部の音がたまに聞こえてくる以外には、ぼくがページをめくる音しかしない。
とても静かで、ぼくはこの時間が大好きだ。
司書の先生も掛け持っている美術部の活動の方に顔を出しに行っているから、邪魔も入らない。
至福とは、こういうものをいうのかもしれない。と、ぼくは一人満足していた。
ほたるさんとの直接的な出会いは、そんな頃にやって来たのだった。
図書室の引き戸が、勢いよく開いたのだ。
ぼくはてっきり、司書の先生が戻ってお昼を食べに来たのだと思って、本からは顔を上げなかった。足音がそのまま真っ直ぐにぼくのいるカウンターに向かってきてことりと本を置かれたので、はじめて生徒が本を返しに来たのだと気づき、仕方なくぼくはのろのろと本から顔を上げたのだった。
「これを、返したいんですけど」
そう言ってそこに立っていたのは、ほたるさんだった。
ほたるさんがカウンターに置いたのは、大きくて重い、豪華装丁版の『ロビンソン・クルーソー漂流記』だった。図書室の一番はしの方の棚にある、世界名作シリーズの一冊だ。
ずいぶんかさばるものを借りる人だなと思ったが、顔には出さず、分かりましたと本を受け取って、ぼくは本の裏の貸出カードに返却の日付印を押した。カウンターの下にある、大雑把に五十音順別になった返却カゴにそれを押し込むと、ぼくはまた本に目を戻した。
ほたるさんは、まだそこにいた。
ぺらり、とぼくが一ページ読み進めても、身じろぎせずカウンターの前にじっと立っていた。不審に思って、ぼくが顔を上げると、ほたるさんは目をそらすところだった。目をそらして、それでいて、まだそこからは立ち去らなかった。
「返却は、終わりましたよ」ぼくは念のため言った。
まだ何かしら手続きがあると思っているのだと思ったのだ。だが、そうではなかったらしい。
「え、うん」と言って、ほたるさんはまた黙った。
ぼくは首をひねった。
「どうしたの。何か借りたい本があるんですか」
「ううん。そういうことではないんだけど」
ほたるさんはため息をついた。
ぼくは眉間にしわを寄せた。ほたるさんという人は、噂とはすいぶん感じの違う人である。要領を得ない。
こんなにはっきりとしないタイプの人であったのか。
とはいえ、ぼくの側からほたるさんを見かけたことはあるのだから特に違和感はないが、ほたるさんの方には案外、人見知りの気があるのかもしれない。
そういえば、今朝方に落し物が届いていたのをぼくはとっさに思い出した。
赤いナイロンの、女性もののポーチ。
落とし主の情報がありそうな場合は一応確認はするものなのだが、あれに関しては一切触っていない。
ああいったものは、なるべく触らないにこしたことはないものなので(君子危うきに近寄らずだ)、拾って届けてくれた女生徒から受け取ったあと、そのまま司書教員室の落し物棚に入れてしまったのだった。
あれを探しているのかもしれないな、とぼくは思った。
「落し物ですか?」とぼくが聞くと、 「あ、うん。そうなの」と黙りこくっていたほたるさんははじめてぼくの方を向いた。とたんに表情がぱあっと明るくなったような気がしたから、当たりかな、とぼくは思った。
赤い色のポーチをね、探しているんだけどね、届いてないかなあ。
ちょっとね、あたし、あれが必要でね。
あたふたと説明するほたるさんを横目に、ぼくはよっこらせと重たい腰を上げた。
ちょっと待ってね、とポケットから預かっている鍵をとりだして貸し出しカウンターの後ろの扉を開け、司書教員室の落としもの棚を気だるい腕で引く。
ああ、やっぱりあった。これのことか。
朝方にかけわすれた棚の鍵をかけてぴったりと閉め、ぼくはポーチを持ってのそのそと出てきた。ぼくが手に持ったポーチを見て、ほたるさんはぼくが後ろ手に扉を閉める前にそれそれ、と甲高い声をあげてぴょんぴょんと跳ねた。おどおどしたりやかましくなったり、忙しい人だとぼくはぼんやり思った。
「一応、名前が書いてあるとか、中身の特徴だとか、分かる範囲で聞いとかなくちゃいけないんだ。いい?」
ぽんとカウンターの上にポーチを置いて、ぼくは落し物の管理帳を引き出しから引っ張り出し、ボールペンを指でくるくると回しながら業務口調で尋ねる。
「うん。いいよ。」ほたるさんは朗らかに言った。
「名前はね、どこにも書いてないんだ。中身が中身だから」
「うん」
と、それはぼくが聞き流すと、
「あれ、いいの? 名前書いてなくても」
とほたるさんは少し慌てた。
「女子のポーチの落し物に名前が書いてない時点で、だいたいの見当はついちゃうよ」
ぼくはため息まじりに言った。
それを聞くとほたるさんはにやりとした目つきになった。
「ふうん。男の子だね」
「そういうんじゃないよ。妹がいるから」
「へえ。お兄ちゃんなんだ」
「そうだけど、それはいいから。中身とかシールが貼ってあるとか、なんかしら特徴でいいから言ってよ。適当に書いとけば現れた落とし主に渡しちゃっていいんだからさ。こんなもの」
こんこんとボールペンの先で管理帳を叩いた。
「こんなものって、ひどいなあ」
ほたるさんは少しふくれて見せた。線の細いほたるさんの頬が膨らむと、ぷくりと丸みがとってつけたように現れて、なんだか面白い顔になるのだった。
「いいよ、じゃあ、中身は女の子の日用品」
「そうだろうね。素直で大変よろしい」
ぼくはさらさらと帳簿にペンを走らせる。生理用品入れ、と。
落とし主に渡した時刻、午後二時十七分。落とし主の名前。ああ、これ知らないや。
「ええっと、落とし主の名前、聞いていい?」
「うーん。それは、ダメ」
ほたるさんは即答した。
「え。それじゃあ渡せないんだけど」
ぼくは呆れ顔になった。落し物を探しにきておいて、受け取りたくないのか。
このヒト、やっぱり変なやつ。
ぼくの考えを察してかそうでないのか、ほたるさんは大きなため息をついてみせた。ついで、人差し指を立て、ちっちっとぼくの目の前で振る。
「ノンノン、なってないよ。図書委員くん」
「はあ?」
「君は仮にも女の子の名前を尋ねたいんだろう。だったらもっと、聞き方ってもんがあるんじゃあないかい?」
「あんたはこれを受け取りたいのか受け取りたくないのか、どっちなんだよ」
「ちがう、またしてもちがあう!」
ほたるさんは大仰な身振りで頭を抱える。なんのつもりなのだ。ぼくとしては訳がわからなくて頭が痛いくらいだ。
「図書委員くん」
「その呼び方やめろ」
「女の子って生き物はね」
「おい人の話聞いてんのか」
「名前を聞かれるなんてシチュエーションには、少なからずときめきを求めてしまうものなんだよ!!」
「…………は?」
ほたるさんは両手を祈るように組んで、うっとりと目を伏せて語り出した。頬にはささやかに朱がさし、続く言葉のために大きく息を吸い込んだ。いけない、スイッチ入った。
ぼくは直感した。アブナイ感じの人だ。こいつ。
「だってそうじゃない。考えてもごらんよ図書委員くん。男の子が女の子に、名前を聞くその瞬間のこと。そこにどれだけの勇気が込められていると思う? 人知れず目で追っていたであろうその女の子への、水面下で燃えたぎる恋の炎を!君は!感じないのかい!」
「感じません」
「考えてもごらんよ図書委員くん。名前を聞かれた時の、女の子の爆発する胸のうちを。名前も知らないんだから、きっとその子のことを知らない。じゃあいつから見ていたの? どうして私なの? 他にも学年の半分は女の子なのに、この人は何を想って、たった一人私を選んだのっていう甘く香るときめきの疑問を! 君は! くすぐったいと思わないのかい!」
「思いません」
前言撤回。相当はっきりしてるし完全にアブナイ感じの人だ。
ほたるさんはこれ見よがしに落胆している。
はああ、図書委員くん、君というやつは。失望した、あたしゃあ失望したよお。と、さんざんにクダを巻いている。酒でも入っているのか、こいつ。
「あたしはねえ、図書委員くん」
「だからやめろって。その呼び方」
「結構な期待を込めてここに来たのだよ。本当のところ」
「…………は?」
「だってそうじゃないかっ!」
ばしんとほたるさんはカウンターを叩いて、ずいとぼくの方に身を乗り出してきた。先ほどから目だけは嫌に真剣なのが、妙に怖い。
「女の子の日に、女の子の日用品を落としてしまったあたし。困ってしまって辺りの人に聞いて回ったら、図書室に届けてくれたっていう後輩を見つけた。そういえば図書室で借りていた本もあったしちょうどいいなあと思って、本を引っ張り出したら、いつも必ず図書室にいる物静かな男の子がいるのをふと思い出した」
「おい。何故に物語り口調」
「男の子はどこか影がある感じの子で、おそらくこんな夏休みでも暇を持て余して来ているに違いない。そこへ現れるあたし。暑い夏の午後。二人しかいない部屋。ふと告げる探し物。その中身のこと。純朴な少年の戸惑い。はにかむあたし。とってくるしかない少年の背中。持ってくる少年の手の中で、掴み方を悩んだに違いない傾いたポーチ。ふと途切れる会話。取り出す帳簿。そして聞かれるの。君の……君の名前は……」
「誰が純朴な少年だって」
ほたるさんは繰り広げる妄想に浸って恍惚とした表情になっていたが、その一方でぼくは完全に哀れみをこめた目で呆れ返っていた(ちなみに、これは案外難しかったりする)。
ほたるさんは薄目を開けてこちらをちらりと見ると、がばっと向き直ってぼくの手をとって握りしめた。
「分かるかい分かったかい分かっただろおおう」
「いいや。さっぱりだ」
「んなっ。それはならん。いかんぞ図書委員くん。乙女心がそんなにも分からないのは男の子として駄目だよ。というかあたしがそれだけここに来るにあたって、あらぬ方向へ思いを馳せていたっていうのに、君というやつは期待にまるで答えてくれないというのかい」
「あらぬ方向って自分で言っちゃうのかよ」
意見というか言葉というか、音と音が完全にすれ違って行く。
ああ、ダメだこいつ。言葉のキャッチボールをする気がそもそもない。ぼくはなんだか苛立ちを通り越して疲弊してしまった。
もうなんでもいいから言う通りにして、さっさと渡して帰ってもらおう。本がさっきから一ミリも読めていない。このままではせっかくの至福の時間も、全部持っていかれる。
「おほん。話がだいぶ逸れたな。このポーチを渡してほしくば、大人しく名前を記載しろ、またはさせろ。そうすれば返してやるからさっさと言ってさっさと帰れ」
「おや。純朴かと思っていた少年は実はずいぶんワルなタマでしたの巻かい。いいねえ。そそるねえ。そのギャップ」
「やめろ。そういう訳じゃない。乗らなくていい」
ぼくは慌てて制したが、ほたるさんは構うことなくぎらりとした目を輝かせて、ぺろりと唇を舐めた。
「ああっ。お代官様。そのようなご無体な。わたくしめは訳あって名を名乗れぬ身。どうか、どうかその小袋をお返しくださいまし。しかしお代官様がもしも、お代官様としてではなく一人の殿方として、わたくしめの名前をご所望なさるのであらば、仕方がありませぬ。お求めください。さすればわたくしめも一人の女として、この名を差し上げ奉りまする」
「乗るなってのに、よくもまあそんなに戯言がするする出てくるもんだよ。ほんとに。ていうか、どうしてもその路線で行きたいのかよ」
「あたしもポーチの落とし主である以前に、一人の女の子ってことだよ、図書委員くん」
「さいですか」
はあ、と聞こえよがしに何度目かのため息をついてみる。
仕方がないから、もう少しだけ乗ってやって早く帰ってもらおう。そうだ、このままでは本当にらちがあかないのは目に見えてる。
ぼくはモヤモヤする気持ちを無理やりに押し殺して、すうっと息を吸い込んだ。ちょっとだけだ。最初にこいつが言っていた感じで、ほんのちょっと乗ってやるだけだ。
「分かったよ。悪かったよ。その」
「ん?」
「ぼくが、悪かったって思う、ごめん」
「う?」
「だから、もう君の名前を教えてくれないかな、頼むよ」
目的を達成する最短コース実現のため、ぼくはありったけの演技力を傾け、極めて棒読みで斜に構えた高飛車、でも片手で服の裾をじつはこっそりとこれ見よがしにつまんで見せた。
でも、これでいいんだろうと思って、伏せ目がちだった目をあげてほたるさんを見上げると、カウンターの前に立ちつくしたほたるさんは口をぱかりと開けて、こちらをあんぐりと見つめていた。
な、ん、だよ……。
もしかして、ものすごく変だったのか……!?
ぼくはとっさに顔が赤くなるのを感じた。
「いいよ」
ふいに、ほたるさんが言った。
「図書委員くん、それなんだよ、それ!」
ほたるさんは完全に目の色を変えて、ばしりと再びぼくの手をとって思いきり握りしめた。
「いいよいいよいいよ! なんだい。やればできるんじゃないか! 純朴な少年は実はずいぶんワルなタマでしたの巻からの、唐突にしおらしくなってしゅんとした男の子に急激に純朴と純粋を感じてしまって、あたしの胸はキュンキュンの巻だね!?」
「どんな巻からのどんな巻だよ」
「荒削りというかむしろ全然なってない演技が、いっそのこと非現実感のなかに現実味を醸し出して、さっきまでのぶっきらぼうな君が突然乗ってくれたことと、中途半端にあたしの期待が叶っちゃったことで、よりキュンキュンに拍車をかけてトキメキがキュンキュンのドキドキなんだね!!」
「意味が分かんないけど、とりあえずバカにされてるのが分かる」
ぎりぎりと万力のようにぼくの手を締め上げるほたるさんは、堰を切ったように妄想が爆発するしている模様だった。ぼくとしてはよく頭の回転がここまで早いもんだな、とか、舌を噛まずにここまで滑舌良くしゃべれるのも、ある意味凄いなとぼんやり考えていた。どっちみち使い方を間違えてる気が物凄いするんだけど。
「気に入ったよ。図書委員くん」
ばしんと肩を叩かれて、ぼくははっと我にかえった。
一通りまくしたて終えたらしいほたるさんは、満面のニコニコを浮かべてぼくの肩に置いた手に力を入れた。
「君には特別にあたしの名前を教えてあげてもいいかも知れない」
「そうかい。そりゃあ嬉しいよ」
願ってもないことだが、できればもっと速やかに教えて頂けたら幸いだったんだけどな。
「あたくしの名前はね、みどりかわ、ほたるって言いますのよ」
ほたるさんは口元に手の甲を持っていって、おほほ、と笑った。ぼくは、はいはいと適当にあしらって管理帳簿にカタカナで走り書きした。ミドリカワ、ホタル、っと。
「ああーっ、ちがう、違うってば図書委員くんてば!」
書き終えたと思ってペンを置くと、ほたるさんは急に絶叫してペンと帳簿を引ったくった。引ったくられたことにもびっくりしたが、それよりもいきなり奇声をあげられたことに驚いた。いちいち声のトーンが高いのだ。このヒトは。
「なんだ漢字が分からないなら言ってくれればいいんだよ。まったく。図書委員くんたら。いいかい、こうだよ。緑の、川に住む、ほら、昆虫の蛍、って書くんだよ。分かった?蛍なんて漢字は普段使わないもんね。はい、お勉強になりましたねっ」
あっはっはとほたるさんはけらけらと笑う。ちくいち癇に障る女だな、とぼくは内心イラリとした。が、ぐっと堪えてぼくは満面の営業スマイルをひねり出した。
「よ、よーし。これで手続きは完了です。落し物はお渡ししますね。はい、確かにお渡ししました。ではまた。もう二度と来ないでくださいね」
ぼくはポーチを強引にほたるさんに押しつけると、どかりと椅子に座り込んで本の文字をぎんぎんと凝視した。
ほたるさんはええ、なんでよ、とぶうぶう言っていたが、そのうちに思い出したようにポーチを開けて中身を確認した。
「そうだ、そういえばあたし今日女の子の日だから、ポーチ探してたんだったよ。いやあ、もうすっかり忘れてたよ。図書委員くん、あたしちょっくらトイレ行ってくるから、ちょっと待っといて」
「待ちません。お前が出てった瞬間に鍵を閉めるから、カバン等荷物はどうぞお忘れなく」
「おっ、お前!? 図書委員くん……あたしたちの距離って、こんなに近くなってたのかい? お、おまえなんて。そんな。これはやっぱり、暑い夏の午後、二人しかいない部屋、途切れる会話、そして縮まった二人の心の距離なのかい!?」
「そういう寝言は寝てから言え。あんたとかあなたとか、他人行儀な三人称が面倒くさくなっただけだ」
「え……それって……トクン……」
「効果音を口に出すな。妄想っ子」
「だって、他人行儀な三人称が面倒くさくなったって言うから。それってそれって、俺とお前の仲だろ! 風味の遠回しなフォーリン・愛のラプソディじゃないの?」
「カタカナでしゃべるな。和製英語をつくるな。それと妄想するのをやめろ」
「もう、図書委員くんのいけず」
ちぇえ、とほたるさんはふてくされたようにカウンターにべたりと突っ伏した。
なんだよお、図書委員くんめえ、と腕だけをうごめかせているので、見ていて気持ちが悪い。この滑舌と性格があるなら演劇部にでも売り込めばいいのに。ぼくは苛立ちを通り越して、もう一周して、なんだか感心してしまった。
ゆらゆらとうごめいていたほたるさんの手が、不意になにかに当たってちゃりんと音を立てた。
んん、とほたるさんが頭を持ち上げて手のひらにとったものを覗き込むと、ほたるさんの表情はにまあっとゆるんだ。
「図書委員くん。これは何だと思うかね」
ほたるさんは手に持ったものを目の前でちゃらちゃらと振った。うっとおしくてぼくが睨むと、西日になった日差しに照らされたそれは銀色に光った。
それは先ほど使った、司書の先生から預かった図書室の鍵だった。
「なにって、鍵だろ。ここの」
「あったりい」
ほたるさんはがっと鍵を握りこむと、ポーチを引っつかんで出入り口の引き戸へ駆け出した。
「ちょっと、おい! 返せよ、それ!」
「へっへーん。そうは問屋がおろしぽん酢」
ほたるさんは引き戸をがらがらと開けると、読みかけの本を放り出すのにためらってしまい、しおりをのろのろと挟んでいるぼくを嬉しそうに見て、鍵のキーリングに指を通してくるくると回した。
「それじゃあ図書委員くん、女の子を追いかける純朴な男の子の巻はとっても魅力的なんだけど、あたしちょろっと男の子には踏み込みにくい用事があったりなかったりだから、まあ待ってておくんなましよ。あたしもあたしで、図書室で待ち焦がれる図書委員くんを想ってちゃんと早く帰ってくるからさ」
「待たないし待ち焦がれない。男のぼくの方が走ったら早いぞ。さっさと鍵を返して消えろよ」
ぼくはカウンターから出て、いつでも走れるように身構えた。さっきからこいつにはウンザリしてたんだ。なにが妄想女だ。なにが転校生だ。なにが人気者だ。皮を剥いだらただの変人じゃないか。もう我慢ならない。閉め出してやる。
「怖い顔だなあ、図書委員くん。女の子にもてないぞ。」
ほたるさんは朗らかにウインクしてみせる。くるくると回す鍵が、ちらちらと光ってぼくの神経を逆撫でする。
「そんな図書委員くんには罰ゲームだ。多分そんなにかからないだろうし図書当番終わったら屋上にくることだね。さもないと鍵は帰ってこないぞっ。もしくは、今のうちにあたしを捕まえる? ま、あたし今日は女の子の日だからそんなに走れなわけだからさ。追いかけてくるなら、紳士的に、優しくかつ激しく、後ろからの包容力を期待してるね」
あはは、とほたるさんはちゃりんと鍵を握り、ひらりと手を振った。
「それにさ、ちゃんと来てくれたら、歩き方教えてあげるよ」
とん、とその場で跳ねたほたるさんは、オルゴールの中のバレリーナみたいな格好で、しゃんと空中に静止してみせた。
「そんなにむつかしいことじゃないの。コツと、大切なのは先入観がないことなのね」
くるくるん、と華麗にスカートをはためかせて、またふわりとほたるさんは床に降り立ち、鍵をちゃりんともう一振りして微笑んだ。
今日は、流星群が見られるよ。
そう言って笑った横顔に、ぼくは引きつりを覚えた。
しゃりん、と何かが溶けて割れたような違和感。
現実味皆無の感覚。
「いくわけないだろ、さっさと返せよ」
あはは、笑い声を残して、ほたるさんは引き戸の向こうへ消えた。
「やだもんね、来てくれなきゃ」
ぼくは馬鹿にされたような、煙に巻かれたような感覚を覚えつつ、深く息を吐いた。
なんなのだ。あいつは。
困惑と腹立ちをカクテルにしたみたいな、カタカナでしゃべくる女。言われっぱなしは癪だが、生理の女子を追いかけ回したところで、得られるのは周りからの痛い視線だけだ。
ぼくはムシャクシャを飲み込み、がたりと椅子に沈み込んだ。本を引き寄せ、しおりを挟んだページを開いて文字を追ってみたが、読めども読めども内容が頭の中に入ってこなかった。一ページめくってはまた戻り、まためくっては戻した。そのうちに腹が立って読むのをやめた。
腕時計を見ると、時間はまだ三分も経っていない。
ぼくは諦めて立ち上がり、よろよろと司書教員室の扉を開けた。なんだかひどく疲れた。ひとまず遅い昼食をとって、ソファで少し眠ろう。どうせ夏休みの午後ももう遅い。誰も来ないだろう。あいつ以外は。それにあいつが戻ってきても、ここは教職員以外は基本的に立ち入り禁止だ。入っては来ないはずだ。
ぼくは冷蔵庫に入っていたペットボトルのジュースを取り出し、ソファに倒れこんだ。ここでも冷房は効いているのに、体の中がかりんと乾いた音をたてる。フタをねじ開けてジュースを口に含むと、気の抜けた淡い炭酸が舌に優しかった。
しゅわしゅわと泡立つ透明なサイダーを一息に飲み込むと、甘ったるい粘り気が口の中にのこった。飲み物を飲んだのに、これじゃ余計に喉が乾く。
ぼくはフタをしめてペットボトルをソファの脇の低い机に置くと、ずるずると体を横たえてソファに寝転んだ。口の中にまとわりつくぬるい甘みが、あいつの声の絡んで離してくれないさまと似ているような気がして、舌打ちして寝返りをうった。
ことこちと置き時計の針が間延びしたペースで響いている。司書の先生はまだ美術部の方で油を売っているのか。
ぼくはソファの背もたれの根元に顔をうずめるようにして、丸くなって荒く息をした。ぼくはやっぱり苦手だ、と一人で思った。女の子も、人気者も、声の大きいやつも。
あいつはここに来るのに、結構な期待をしていたと言った。ぼくのようなやつがいるからと。
「何だよ、先入観って」
歩き方って、なんなんだろ。
解明できたら大儲けできるんじゃないのか。
いや、でもぼくはすごく癪だ。
ごろんとまた寝返りを打つ。
蝉がすぐ窓の下に来たのか、けたたましい声で鳴き始める。
遠くで和太鼓部が防音室でしていたらしい練習が途切れるのが、振動がなくなってはじめて分かった。
「……まだ、日が高いよなあ」
腕時計を見ようにも、だるさと苛立ちと眠気で見る気になれない。
重たくなって行くまぶたの向こうに、少しだけ西に傾いた日差しが明るい。
「なんだって……流星群の下なんかを……歩きたいなんて……?」
もしかして、デートのお誘いだったのかな……?
あ、そう思ったらそうっぽい……な。
「なんで……また……ぼくとなんか……んとに……も」
……いつの間にだか本当に眠ってしまっていた。
ぼくの夢枕に、そのあと小さな声で、ほたるさんの声が聞こえたような気がしたけれど、夢だったのかも知れない。
ほんとうのところは、ぼくには決してわからない。
ぼくは屋上へは、行かなかったから。
それは地上二階の校庭側の窓枠の方から聞こえたから、多分、本当に夢だったんじゃないだろうか。
「……ほんとう、分かってないよ。君っていうやつは」
そんなふうに聞こえた。
「君なんかを呼び出すくらいなんだから、君なんかと星空を見たいに決まってるじゃない……君なんかなんて言うなよ、この」
ん……?
額が、くすぐったいような気がする。
「っとに、なんで気づいてくれないのかなあ。馬鹿っていうか、バカっていうか、ばかっていうか」
さらり、と髪が頬にかかる。ボタンの空いた首もとを、すべすべしたなにかがさらっていく。
おかしいな、髪、最近切ったのにな。
んん……。
暑い。
暖房……入れたんだっけ?
「気づいてくれたって、よさそうなもんなのにね」
暖かい風が首に這う。
なんだろう……懐かしい香りがする。
「っん」
ん……っ?
苦しい……。
異物感と熱に堰き止められて、息が、止まる……。
「っはあ」
ぼす、と耳元のソファが沈み込んだような違和感。
「あたしさあ、待ってみてたんだよ? ここから見える枝で。テレビにも出たし、廊下でだって、君には微笑んだじゃない。君には」
う、ん。悪夢なのか……?
「早く思い出してよ、ほたる……くん」
え……?
まどろみの意識が、ほんの少し浮く。
引き戻されない程度に、現実が混ざる。
「あたしたち、つがいじゃない」
暑い。熱い。
熱が舌のように伝って、身体の中が汗だくになるみたいだ。
熱い。暑いよ、頬が、溶ける。
「早く思い出して」
なんだ……なン……。
「また一緒に飛ぼ? それで、一緒に帰ろ」
頬が熱い。焼けた鉄が流れてるみたいだ。
ぼくの頬に。
降り注ぐみたいだ。
でも、何処から……?
「みんな、待ってるよ。ね、きっと来てね、屋上」
熱い。
熱くて柔らかい何かに、すっと撫でられたような、終始悲しいような、変な夢だなと思った。
「行こうね、また手繋いで飛んで、帰ろ」
え。
待って。
いく、行くから。
だから行かないで、行きたくない。
「星空の下で、待ってる」
待って、待って。
「だからほたるくん」
まって……。
「きっと来てくださいね」
待って……
「また天幕で暮らそ、ね?」
待って……!
「私たちははぐれちゃった天幕蛍だけど、ねえ、帰れるの。今日はお年寄り達が席を空けてくれたから、ねえ、帰れるのよ」
ガラララ。
扉が閉まる音がする。
待って、待ってってば。
まだぼく、君を……
「これが多分最後の流星群なの。ねえ」
思い出せてない、ないから……
「きっと来てね。貴方を置いて行きたくない」
待って……
「待って……!!」
ガバ、とぼくが飛び起きたのは、まだ明るい日の当たる、司書教員室のソファの上だった。
おや、とは思ったが、夢であったのかと、少し残念に思った。
脇の机をみると、申し訳程度に鍵がそっと置かれていた。
一瞬、ぎょっとしたけれど、でも直前まで怒っていたことを考えれば、もしかしたら単に、気を使ってくれたのかもしれなかった。
ほんとうに現実味のあるようなないような、おかしな夢をみていたような気がする。
けれど、なんだろう。
もう、うまく思い出せなくなってしまっていた。
ぼくは、屋上へは行かなかった。
夏休みになっても、図書館には開館日が何日かある。
主には三年生の受験を控えた生徒がたむろして、勉強をしながら友達としゃべったり、夏の旅行合宿の予定を組んだりしているのが大半で、ぼくはまだ二年生だからという、特に根拠のない余裕をもって、夏の間に届いた本の確認と称して誰よりも早く出たばかりの本を、相も変わらず読みふけっていた。
丁度そんな頃に、ほたるさんがまた、転校して行ったという噂を耳にした。
ぼくがほたるさんに出会ったのは、ほたるさんが夏休みの前に転校してきてからだったから、また随分と急だな、と思った。
ほたるさんは隠し事を嫌うタイプの人だったから、ほたるさんのクラスの人たちとで開かれたお別れ会の日も、最後だからと気兼ねしたりすることもなく、帰る間際にはやっぱり校庭のヒマラヤ杉の高い枝にとまって、缶ジュースを飲んでいったらしい。
あからさまに人目に付くほたるさんという存在に対し、ぼくから最後だからといって関わり合いになることも、同じようになかった。
空を歩く美人なほたるさんの、その不思議さに当てられたぼくのおかしな夢は、しかし嫌に現実味があって、一人でほほうと思っていたりしてはいたが、その夢のなかの細部のあたりから、だんだんに忘れていっているようなのでもあった。
その日の夜、かつてない流れ星が夜空を渡り、天候も流星群にふさわしい澄み切った天気だった。
あまりの美しさに見とれて、我を一瞬失う。
そんなおりに、自室のベランダから空を見上げていたぼくの唇に、ふと、なにやら違和感があって手を添えると、光る大きな虫が止まって、吸っているのであった。
ぼくは怖気と鳥肌と共にぎゃっと叫んで払い落とし、急いで自室に入って窓を閉めた。
シャッとカーテンをしめる間際に、また飛んでゆく蛍が、一度だけ振り向いたような気がした。
が、ぼくは首をひねって完全にカーテンを締め切ると、ブルブルッと身震いして口をすすぎに階下の洗面所へ足を向ける。
部屋を出る間際、勉強机の上に目をやる。
今日の帰り際にクラスメイトの女の子から渡された、「岸辺ほたるさま」宛のハートマークのついた手紙がそこにはあった。
しっとりと甘い気持ちになりつつ、唇を服のそででこする。
後ろ暗いような心地がするが、よくわからない。
虫だもの、ふつうの反応だ、と誰にともなく弁明してしまいたい衝動に、ほんの少しだけ駆られる。
ぼくは首をひねり、パタリとドアを閉じる。
どうにも腑に落ちない違和感を胸に。
週末に誘われた花火大会のことを、ぼくはのんびりと、考え始める。
天幕の方へ飛んでいった蛍は、もう、数多の光のなかに混じってしまって、見分けがつかなくなってしまっただろうか、となんとはなしに思う。
思ってからまた、階段を一段ずつ、とんとんと降りた。