男の約束
「こうやってユウトの試合を見に来るのも久しぶりだな」
「あなたが見に行くっていうからてっきり雨でも降ると思ってました」
久しく見に来ていなかったのは俺だけで妻の方はいつも書かさずユウトの試合を見に行っていた。だからだろう皮肉の中生えた刺が仕事ばかりでかまってやれなかった俺を責めているように聞こえた。
「晴れてよかったよ」
俺は妻の悪態ともとれる言葉に笑顔で返すと河川敷のグラウンドで走り回る愛息子に視線を送る。
今年四年生になったユウトに初めて与えたおもちゃがサッカーボールだった。妻はあきれていたが俺自身学生時代はサッカーをしていてユウトがまだ幼稚園くらいの時は休日に仲間たちと遊び程度にボールを蹴っていた。しかし時間が経ちその仲間が一人一人それぞれの事情で集まれなくなると、俺自身も仕事が忙しくなりいつしか子供の試合にもいけなくなってしまった。
「あいつ、上手くなったな」
「そりゃそうよ。あなたが見に来てた頃からだいぶ経ってるんですもの」
幼稚園の頃から近所のサッカー教室に通わせていたがそのころは周りの子供たちより下手くそで、いつも試合に出れなかった。
大人の体力が衰えるのに比例して子供は恐ろしい速度で成長しているようだ。
「それでも最初から出れたのは今日が初めてよ」
「らしいな」
「知ってたの?」
驚いた妻の声に俺は小さく「うん」と頷いて、続ける。
「先週の土曜かな。ほら君が友達とランチしにいくって家を空けたことあったでしょ。あの日に、ユウトが真剣な顔で欲しいものがあるって言うんだよ」
「欲しいもの?」
「なんだ。君も知らないのか?」
「俺もまだ知らないんだけど、最近まったく構ってやれなかっただろ。だからこう言ったんだ。次の試合を見に行くからそこで点をとったら何でも買ってやるって。俺はてっきりまだ補欠だと思ってたんだけど、どうやら今日が初先発だったようだな」
「それで珍しく見にきたわけね」
「男の約束だからな。破るわけにはいかないだろ」
「ただ単に仕事が片付いただけじゃないの?」
「それもある。だけど・・・」
「だけど・・・」
一瞬、脳裏に五年前に死んだ親父の顔がよぎった。
「俺もユウトと同い年くらいの時、親父に似たようなこと言ったんだよ」
「血は争えないわね」
辟易としながらぼやいているものの、父親の変なところを受け継いだ息子に向けた表情が心なしか笑って見えた。
「それで、そのときはどんな『男の約束』をしたの?」
「サッカーのスパイクが欲しいって言ったんだ。そしたら百点の答案を十枚持ってこいって言われた。うちはお世辞にも裕福じゃなかったし、親父は気難しいやつだったからそれまでお願いしたことなんてなかったんだけど、親父も俺がどうしてもほしいってこと分かってくれたみたいだったから普段は相手にもしないだろうに、約束してくれたんだ」
「それで、十枚集まったの?」
「必死で勉強してね。なんせ成績は下から数えた方が早いくらいだったから、そりゃもうサッカーよりも頑張ったよ」
そのスパイクは一年経たずに履き潰してしまったが、しばらくは大切に持っていたことを覚えている。
「ユウトが欲しいものってなんなのかしらね?」
言われて初めて俺は考える。安易に子供の欲しいものといえばゲームやサッカーの道具を思い浮かべる。
「DSの新しいのも、サッカー用品も、お小遣い貯めたりして欲しいものは買ってるはずなのよね。かといって十万も二十万もするものをねだるとは思えない」
「もしかして金で買えないものか?」
昔見たアニメでトレーニングばかりしてる父親と戦って顔に一撃でも当てたら遊園地に連れてってやると言われたときの喜んだ子供の顔が浮かんだ。
もしや、そうゆうことなのだろうか・・・
皆目見当のつかない俺を見て妻はどこか冷ややかな表情をしていた。
「私は何となくわかるけどね」
含みを込めた言い方だった。まるで答えの知ってる問題を敢えて親に聞くような悪辣とした表情に見えなくもない。
「教えろよ」
「さあ、男の約束なんでしょ? ユウトは今必死になってるんだから見届けてからちゃんと聞いてあげれば?」
どこかぞんざいに言ったあと、妻の表情が見る見る固まって真剣な面持ちになっていった。
「ねぇ、この際だから話しておきたいことがあるの」
「んっ、試合の後じゃダメなのか。もう残すところ五分もない。どうやら点を取るのは無理みたいだな」
俺が妻から視線をグラウンドの方に向けると、ユウトが絶好の位置でボールを受けた。
「おっ」
思わず腰が浮いて声が出る。ここが大歓声に包まれたスタジアムとかなら間違いなく「うて~」とか叫んでしまっただろう。俺が冷静に腰を下ろしたそのタイミングでユウトが放ったシュートはネットを揺らしユウトを子供たちが祝福している。
「おお~」
拍手しながら感嘆の声を上げる俺にゆユウトは拳を高々と突き上げ、「どうだ」と言わんばかりに満足気な表情をしている。それに対して俺も拳を握り締めてユウトの頑張りに応える。
「で、なんだっけ、話って?」
俺たちのそんなやりとりを見てか妻の表情は微笑ましげ、というよりも少し寂しげに笑っていた。
「いいの。もう、いいのよ」
試合再開のホイッスルと同時に妻はさらに何か言ったようだが耳に届くには小さすぎたその声に俺はユウトの姿を追うことの方に集中した。次はいつ見れるかわからない。今回の休みの後はいつまたこうして見れるかわからない。休みの日となれば会社の上司や得意先の専務たちとのゴルフが待っている。たまたま今日はその先約がなかっただけで、歳を重ねていけば行くほど自由な時間と、あれほど大切にしようと思った家族の団欒を奪われていく。
自分でも分かっていた。俺がダメな父親だということを。小学生の頃、一度も試合を見に来てくれず、ずっと毛嫌いしていた自分の親と全く一緒だということを。
忙しさと残業と言い訳にも似た逃げる口実だけが上手くなる毎日の中、ふとコーヒーでも飲んで一息つくと、子供の頃、こうなりたくなかった自分がこうなってしまった自分を責めるように詰問を繰り返す。
「本当にこれでいいのか?」
幸せな家庭を築くこと、それが一番の目的だったはずなのに、押し寄せる社会の波に呑まれるばかりで子供の相手もろくにできなかった。それどころか妻と話し合う時間もろくにとれず、ここ最近ではずっと避けられているような気もした。
「なぁ、今度からはできるだけ休みの日は家にいるようにするよ」
「どうしたの急に?」
「いや、なんとなく。変かな」
しかしそれに対しても妻の表情は曇ったままだった。
長い、長いホイッスルが鳴って試合はユウトのチームがあの一点が決勝点になり勝利を収めた。
「もう少し早く、そう思ってもらえたらよかったのに・・・」
「ん? なんだって?」
試合後のミーティングが終わると小さなサッカー選手は俺たちの方へ息を切らしながらまっすぐ走ってきた。ユニフォームの至るところが砂にまみれ、膝にすりむいた痕がある。
「見てくれた?」
「おう。かっこよかったぞ」
俺はいつの間にか大きくなったユウトの頭を撫で、「よくやった」とさらに賛辞の言葉を送った。ユウトも「へへっ」と誇らしげに照れながら笑っていた。
「さあ、男の約束だ。欲しいものがあるんだったな。行ってごらん」
ユウトは一瞬下唇を噛んで俺から目をそらしたが、決意したように口を開いた。
「お母さん」
言うと妻はバックから一枚の紙を取り出した。そこには彼女の名前や住所、本籍などが書かれていて、判も押してあり半分が空白になっていた。
「欲しいものって、まさか・・・」
ユウトがまっすぐに俺を見つめて強い口調で訴えるように言った。
「お父さんの名前とハンコが欲しいんです」
言葉を失った俺は全身から力が抜けて、頭の中で自分の言った言葉だけが反芻していた。
「男の約束だ。絶対に守ってやる」
三ヶ月後、俺は一人になった。