いただきます
## 第1章 同じ条件
高瀬理人が「いただきます」という言葉について真面目に考えたことは、それまで一度もなかった。東央大学工学部4年になった春、学生食堂で鶏の唐揚げ定食を前に両手を合わせたときも、幼いころからの習慣として口にしただけだった。
理人には発達障害の診断があった。自閉スペクトラム症の特性から、曖昧な指示や暗黙の了解、口頭で一度に大量の情報を渡されることには苦労したが、数学やプログラミングは得意で、3年生までの単位もほとんど落とさず取っていた。
大学には診断書を提出していたため、必要なら合理的配慮を申請できた。しかし理人は最低限しか利用していなかったし、それを密かに誇りにもしていた。
1年生のころ、一度だけ試験で座席位置の配慮を受けたことがある。その試験で高得点を取ったあと、後ろの席の学生から冗談めかして「配慮してもらえるなら楽でいいよな」と言われた。
言った本人は、その日のうちに忘れただろう。しかし理人は4年経っても覚えていた。
障害者だから卒業できたのではない。
高瀬理人だから卒業できたのだ。
そう証明したかった。
「いただきます」
向かいに座った森川真帆も同じように手を合わせた。文学部の学生で、学生新聞の記者をしている真帆とは、前年の学内討論会で知り合って以来、ときどき一緒に昼食を取るようになっていた。
真帆は唐揚げに箸を伸ばしながら尋ねた。
「見た? 女子特別選抜」
「見たよ」
理人の声には、すでに不機嫌さが混じっていた。
その日の午前、東央大学は翌年度から工学部の定員240人のうち24人について、女性だけが出願できる「女子特別選抜」を設けると発表していた。大学によれば、工学分野の著しい男女比の偏りを是正し、多様な学生が学ぶ環境を作るための措置だという。
真帆はスマートフォンに大学の発表文を表示した。
> 本制度は、本学工学部における著しい男女比の不均衡を改善し、多様な学生が学ぶ教育環境を実現することを目的とした積極的是正措置です。
>
> したがって、本制度は性別に基づく不当な差別には当たらないものと考えております。
理人は画面を見て眉をひそめた。
「こういう言い方が一番嫌いなんだよ。必要かどうかと、差別かどうかは別問題だから」
「どういうこと?」
「女子枠が必要だっていうなら、その必要性を説明すればいい。でも女だけ使える入口を作るなら、それは差別だろ」
真帆は少し考えてから聞いた。
「差別だったら?」
「ダメに決まってるじゃん」
理人にとって、それ以上考える必要はないように思えた。人種で分けてはいけない、性別で分けてはいけない、障害の有無だけで人間の価値を変えてはいけないという原則は、1足す1が2であるのと同じくらい明白だった。
真帆はしばらく黙って食べたあと、唐突に尋ねた。
「じゃあ、善い差別って存在しない?」
理人は笑った。
「ないよ。『善い差別』なんて言葉そのものが矛盾してる」
真帆は反論しなかった。食事を終えてトレーを持ち上げると、返却口へ向かう前に一度だけ振り返った。
「じゃあ高瀬君。誰も損をしない制度が存在しなかったら、どうするの?」
「損をしないように作ればいいじゃん」
理人は当然のように答えた。
そのときは、それで十分に答えになっていると思っていた。
## 第2章 差別であるとは言えません
理人は女子枠撤回を求める署名運動を始めた。女性が工学分野で直面している障壁を改善することには賛成するが、その手段として男性だけ出願できない枠を作ることには反対する、という立場だった。
女子学生が大学へ通いにくいのなら、まず大学そのものを変えればいい。学内の購買に堂々と並んでいる成人向け漫画や露骨なグラビア雑誌を撤去する、女子トイレが不足している棟なら増設する、研究室で性的な冗談が常態化しているならやめさせる。
女性研究者や女子学生を高校生向け説明会へ積極的に出すこともできる。理人には、入試で男子を不利にする前にできることが大量にあるように思えた。
「女子が入りづらいなら、女子が入りづらい大学を直せばいい。それをしないで『じゃあ男の席を減らします』になるのは、おかしいだろ」
その主張には予想以上の支持が集まった。参加者の中には露骨に女性を馬鹿にする学生もいたが、多くは「女子学生が増えること自体には反対しない。ただ入試では同じ条件にしてほしい」という立場だった。
理人はそのたびに安心した。
自分たちは女性を憎んでいるのではない。
公平を求めているだけなのだ。
夏のオープンキャンパスでも、理人たちは大学の許可を取った場所でチラシを配っていた。そこへ、制服姿の女子高校生が立ち止まった。
「これ、女子枠に反対してるんですか?」
「そうです」
理人が答えると、女子高校生はチラシを読んだ。
「女子が工学部に来ることに反対してるわけじゃないですよ。むしろ来やすくするなら、大学の環境そのものを変えるべきだと思ってます」
女子高校生は少し困ったような顔をした。
「でも私、女子枠ができるって聞いたから、この大学を見に来たんです」
理人は一瞬、返事に詰まった。
「……それと、入試で性別を分けることは別の問題です」
「高瀬さんには別なんでしょうけど」
名札をつけた彼女は、篠宮葵といった。
「私には、そんなに別じゃないです」
葵はそれだけ言い、チラシを畳んで去っていった。
理人は少し引っかかったが、すぐに署名活動へ戻った。1人の高校生の感想より、入試の公平性のほうが大きな問題だと思ったからだった。
翌年の春、女子特別選抜は予定通り実施された。
そして、佐伯悠真が落ちた。
悠真は東央大学工学部を第一志望にしていた18歳の受験生で、模試でも十分な判定が出ていた。自己採点も悪くなかったが、一般枠は女子特別選抜の分だけ前年より減っていた。
公開された合格最低点を前年のデータと比較すると、前年と同じ人数を一般選抜で取っていれば、自分より低い点数まで合格者が出ていた可能性が高かった。もちろん、女子枠がなければ必ず自分が合格したとは証明できない。
それでも、女性なら挑戦できた24席に、自分は男性だから最初から挑戦できなかった。
その事実だけは残った。
悠真は大学へ問い合わせた。大学からは、工学分野の男女比、ロールモデル不足、進路選択段階での固定観念について丁寧な説明が届いた。
悠真はそれを読んだうえで、もう一度メールを送った。
> 女子特別選抜が必要だという大学の説明は理解しました。
>
> しかし、そのために一般選抜の募集人数が減ったことも事実です。女性であれば受験できる枠を、男性である私は受験できませんでした。
>
> では、性別を理由に不利益を受けた私はどうなるのでしょうか。私は性別による差別を受けたということにはならないのでしょうか。
数日後、大学から返答が届いた。
> 本学の女子特別選抜は、従来存在してきた教育機会上の不均衡を改善するための積極的是正措置です。
>
> 一般選抜については性別を問わず同一の基準で選抜を行っておりますので、本制度によって男子受験生が差別を受けたものとは考えておりません。
悠真は再度メールを送った。
> 女子枠の必要性そのものを否定しているわけではありません。
>
> 必要な措置なら、私は差別を受けていないことになるのでしょうか。
>
> 私が男性であるため応募できない枠が存在したことについてだけ、お答えいただけないでしょうか。
今度の返答は短かった。
> ご指摘の事情のみをもって、差別であるとは言えません。
悠真はその一文を何度も読み返した。最初に湧いた怒りは、時間が経つにつれて冷たい空虚さに変わっていった。
「そっか。僕、何もされてなかったんだ」
自室でそう呟き、自分の言葉でさらに傷ついた。
大学へ落ちたことより、自分が見たものを自分の言葉で呼ぶ資格まで奪われたことのほうが、妙に長く胸に残った。
悠真は理人の女子枠反対運動の記事を見つけ、連絡を取った。2人が初めて会ったのは大学近くのファミリーレストランで、悠真は大学とのメールをすべて理人に見せた。
「僕、女子枠が女性に必要だって話を全部否定したいわけじゃないんです。でも、僕が損したことまでなかったことにする必要ってあります?」
「ないよ。そこは別の話だと思う」
理人が即答すると、悠真の肩からわずかに力が抜けた。
その場には、取材のため真帆も同席していた。
真帆は悠真に、どんな記事にしてほしいかとは聞かなかった。記者は当事者の代弁者ではなく、事実を公平に書くものだと考えていたからだった。
数日後、学生新聞に真帆の記事が載った。
見出しは、
「女子特別選抜をめぐり受験生から疑問の声」
だった。
記事では、悠真が「一般枠への影響について疑問を呈した」と書き、大学側の積極的是正措置についての説明も同じ分量で掲載した。「性別によって不利益を受けた」「差別ではないか」という悠真の言葉は、対立を煽るとして編集段階で柔らかく言い換えた。
真帆自身、それが中立的な記事だと思っていた。
その夜、悠真から短いメッセージが届いた。
> 森川さんの記事、大学の回答と同じですね。
真帆は意味が分からず、電話をかけた。
「どういうこと?」
悠真はしばらく黙ってから答えた。
「僕が何をされたと思ってるのか、どこにも書いてないです」
「でも、大学側の説明も載せないと公平じゃないから」
「大学側を載せるななんて言ってません」
悠真の声は怒っているというより、疲れていた。
「僕が『差別だと思う』って言ったことまで消さなくてもよかったんじゃないですか」
真帆は返事ができなかった。
悠真は最後に言った。
「中立って、僕の言葉を薄めることなんですか?」
電話が切れたあと、真帆は自分の記事を最初から読み直した。
誤報はなかった。
大学側にも受験生側にも同じくらいの行数を与えている。
だから公平なはずだった。
それなのに、自分の記事の中には悠真がいなかった。
## 第3章 持ち帰らなかった申請書
理人自身の卒業研究も、同じ春に始まっていた。所属した倉田研究室では画像認識モデルの軽量化をテーマに選び、実験環境の構築も先行研究の再現も、周囲よりかなり早く進んだ。
「高瀬はコードを書かせると速いな。研究の勘も悪くない」
倉田准教授にそう言われるたび、理人は嬉しかった。障害があるから大目に見られているのではなく、自分の能力そのものが評価されていると思えたからだった。
4月の終わり、障害学生支援室から面談を勧められた。卒業研究では座学より教員との曖昧な調整が増えるため、改めて合理的配慮を申請できるという。
担当職員は、重要な指示を口頭だけでなく文書にも残してもらうこと、面談の議題を可能な範囲で事前共有すること、予定変更をメールやチャットでも知らせること、卒業研究の評価項目を可能な限り明示することなどを説明した。
どれも、理人が苦手としていることに直接対応する内容だった。
それでも理人は首を横に振った。
「そこまでしなくて大丈夫です。僕だけ違う条件にしたら、ほかの学生に不公平じゃないですか」
職員は少し考えてから答えた。
「同じ条件にすることと、公平にすることは、必ずしも同じではありませんよ」
理人は苦笑した。
「それ、女子枠の理屈と同じですね」
職員は女子枠論争のことを知っていたらしく、それ以上強く勧めなかった。
机の上には申請書が置かれていた。
理人はそれを持ち帰らなかった。
研究室へ戻る途中、少し誇らしい気持ちさえあった。
自分は特別扱いを受けない。
全員と同じ条件で卒業する。
それでも成果を出せることを証明する。
そうすれば、1年生のときに聞いた「楽でいいよな」という言葉を、ようやく過去にできる気がした。
## 第4章 普通なら分かる
研究そのものは順調だった。
問題は、その周囲だった。
6月のある水曜日、理人は翌朝の研究会で発表を担当することになっていた。前日の夜までスライドを修正し、朝8時には大学へ着いて、会議室のプロジェクターまで確認した。
研究会は10時開始だった。
9時55分になっても誰も来なかった。
10時を過ぎても来ない。
理人はメール、研究室のチャット、大学のポータルを何度も確認した。どこにも中止や変更の連絡はなかった。
10時17分、先輩へメッセージを送った。
> 今日の研究会、会議室はこちらで合っていますか?
返事はすぐ来た。
> 今日13時からだよ
理人は画面を見つめた。
> 変更の連絡を見落としていたでしょうか。
> 昨日みんないたときに話したよ
>
> 高瀬いなかったっけ?
いなかった。
昨日の夕方、理人は実験用GPUの利用時間が空いたため、別棟の計算機室にいた。
午後には別の実験を入れていた。13時から研究会になれば、その実験は延期しなければならない。
理人は予定表を書き換え、計算機室の予約を取り直そうとした。空きは翌週までなかった。
13時。
研究会が始まった。
理人は朝から待ち続けた会議室の同じ席に座っていたが、頭の中では失った計算機利用時間のことがぐるぐる回っていた。
発表が始まり、倉田から質問が飛んだ。
「この推論速度、前回より落ちてるのは何で?」
理人は一瞬、答えをまとめられなかった。
「……測定条件を変更していて、その」
「高瀬、今日集中できてないぞ」
「すみません」
発表後、倉田に呼び止められた。
「予定変更くらい柔軟に対応してくれよ。研究なんだから、全部予定通りにはいかないぞ」
理人は唇を噛んだ。
「変更されたことを、僕は知らされていませんでした」
「昨日研究室にいた奴はみんな知ってたけどな」
「僕は別棟にいました」
倉田は少し困ったように頭をかいた。
「じゃあ次から周りに聞くようにしてくれ。研究室って、学校の授業みたいに全部連絡が来るわけじゃないから」
理人は「分かりました」と答えた。
何を次から聞けばいいのかは、分からなかった。
変更されたことを知らない人間は、何について「変更されていませんか」と質問すればよいのだろう。
別の日、理人は倉田から実験結果をまとめるよう指示された。口頭で言われた内容をその場でノートに取り、必要な指標も確認した。
翌週、資料を提出すると、倉田は数ページめくって眉をひそめた。
「これ、比較対象が別々のグラフじゃ意味ないだろ」
「同じグラフにするという指示はありませんでした」
「いや、普通分かるだろ。比較するんだから」
理人はノートを開いた。
「先生から言われた項目は全部入れています」
「高瀬」
倉田の声が少し強くなった。
「研究は指示されたことだけやる仕事じゃないぞ」
理人は黙った。
その言葉自体は正しいと思った。
だから余計に苦しかった。
自分で仮説を立てることはできる。
コードを組み、論文を読み、結果から次の実験を考えることもできる。
しかし、「言われてはいないが普通なら当然分かること」と、「自分で自由に考えてよいこと」の境界だけが、理人には見えなかった。
夏が終わるころには、研究室へ行く前に必ずチャットを遡る癖がついた。昨日自分がいないところで何か決まっていないか、誰かの雑談に重要事項が紛れていないか、何十分もかけて確認した。
それでも、すべては拾えなかった。
倉田は悪意のある教員ではなかった。研究相談には乗ったし、理人のコードも評価していた。
だからこそ、理人は誰を責めればよいのか分からなかった。
秋の中間報告のあと、倉田は理人に言った。
「高瀬は研究以前に、研究室の一員として動くところが弱いな」
研究以前。
その言葉が一番刺さった。
自分が大学で学びに来たものの前に、問題文の存在しない別の試験が置かれているようだった。
それでも支援室には戻らなかった。
同じ条件で競争するべきだと、自分は女子枠に反対してきた。
ならば自分だけ違うやり方を要求するのも、同じように間違っているはずだった。
## 第5章 卒業しない春
12月、卒業論文の中間提出で倉田から大幅な修正を要求された。研究内容そのものより、報告の頻度、研究室内での相談の仕方、発表準備の進め方などを含めて、「卒業研究として十分とは言えない」という評価だった。
理人はそこで初めて、障害学生支援室へ戻った。
春に面談した職員はまだいた。
「今からでも、可能な範囲で調整をお願いしてみましょう」
「お願いします」
頭を下げながら、その一言を口にするまでにずいぶん時間がかかった。助けを求めること以上に、自分だけ違う条件を必要としていると認めることが苦しかった。
倉田との面談では、重要な指示を文書にも残してほしいこと、評価項目を明確にしてほしいこと、予定変更を口頭だけで済ませないでほしいことを頼んだ。
倉田はしばらく黙って聞いていた。
「もっと早く言ってくれればな」
「すみません」
「でも、もう卒業判定まで時間がない。ここから高瀬だけ評価のやり方を変えるのは、ほかの学生に公平じゃないだろ」
理人は顔を上げた。
その言葉だけが、周囲の音から切り離されたようにはっきり聞こえた。
ほかの学生に公平じゃない。
聞いたことがあるどころではなかった。
女子枠反対の討論会で。
署名文で。
学生新聞への寄稿で。
自分自身が何度も使った。
同じ受験生なのだから、同じ条件で評価するべきだ。
女性だけ条件を変えるのは不公平だ。
理人は何も言えなくなった。
自分を切っている刃物に、自分の名前が彫ってあるようだった。
卒業判定の日、理人の卒業研究には不可がついた。
翌年に再履修する道は制度上残っていた。しかし研究室との関係は壊れ、心身も限界に近く、さらに1年分の学費を家族に頼むことも難しかった。
理人は退学を選んだ。
3月の卒業式の日、キャンパスにはスーツや袴姿の学生が溢れていた。3年生までの単位は取ったし、卒業研究のプログラムも動き、論文も途中まで書いた。
それでも、理人の手には卒業証書がなかった。
道路の反対側から、同級生たちが校門前で写真を撮っているのを見た。
本当なら自分もあそこにいた。
「卒業おめでとう」と言われていた。
誰にも声をかけられず、そのまま帰った。
その夜、自室の机に学生証を置いた。本棚には付箋だらけの専門書と、4年間書き溜めたノートが並んでいた。
「研究、できてたのに」
声に出した瞬間、涙が溢れた。
「書いてくれれば、分かったのに」
しばらく泣いたあと、理人の口から、自分でも信じられない言葉が漏れた。
> 「障害者枠があれば……僕も大学を卒業できたかもしれないのに」
その言葉を自分の耳で聞いた瞬間、理人はさらに泣いた。
枠。
あれほど嫌っていた言葉だった。
全員を同じ条件で競わせればいい。
特別扱いなんてしなくていい。
そう言い続けてきた自分が、今は枠を欲しがっている。
「僕、何言ってんだよ」
泣きながら、笑いそうになった。
「善い差別なんて、ないんじゃなかったのかよ」
机の上の学生証は何も答えなかった。
ただ、理人が信じてきた世界には、大きな亀裂が入っていた。
## 第6章 何も死んでいません
数週間後、真帆が理人を外へ連れ出した。
大学の近くはまだ辛いだろうと、少し離れた駅にある寿司屋を選んだ。店の奥には小さな生簀があり、鯵や鯛が水槽の中を回っていた。
「今日は私が出すから」
真帆はそう言って、鯵の活け造りを注文した。
板前は網を持って生簀へ向かった。
1匹の鯵を追い、すくい上げる。
水から出された魚は激しく身を捩った。まな板へ置かれてからも尾が跳ね、理人は、ほんの数秒前まで目の前を泳いでいた命が、自分たちの注文によって食材へ変わっていく過程を見ていた。
やがて皿が運ばれてきた。
薄く切られた身の後ろには元の姿を残した魚体が置かれ、口元と鰓がまだわずかに動いているように見えた。
理人はすぐには箸を取れなかった。
真帆が聞いた。
「こういうの苦手だった?」
「いや。そういうわけじゃない」
理人はそう答えたが、視線は皿から離れなかった。
自分たちが「活け造りをください」と言ったから、この魚は生簀から取り出された。
殺されて、今ここにいる。
食べること自体が悪だとは思わなかった。自分はこれまでも肉や魚を数え切れないほど食べてきたし、それをやめるつもりもなかった。
理人は両手を合わせた。
「いただきます」
その6文字が、その日は妙に重かった。
もし、魚が泳いでいたことも、殺されたことも、自分がその死から利益を受け取ることも全部忘れて、刺身だけを食べたらどうなるのだろう。
魚は1度目には、自分たちが食べるために殺された。
そして2度目には、
「そもそも何も犠牲になっていない」
ということにされる。
理人は箸を止めた。
「真帆」
「何?」
「これさ……2回殺すことになるのかもしれない」
真帆は意味が分からず、理人を見た。
理人は皿の上の鯵を指した。
「1回目は、僕らが食うために殺すだろ。それは食うならしょうがないって考えることもできる」
自分で話しながら、言葉の続きを探した。
「でも、自分の利益のために殺したくせに、その事実を見るのが嫌だから、『いや、別に何も死んでませんけど』みたいな顔して食ったら……それ、ズルくない?」
真帆は黙って聞いていた。
「こいつが死んだことまで否定したら、もう1回殺してるみたいじゃん。身体を1回殺して、死んだという事実をもう1回殺す」
だから「いただきます」と言うのかもしれない。
殺生を帳消しにする呪文ではない。
言ったところで魚は生き返らないし、責任が消えるわけでもない。
むしろ逆だった。
あなたが犠牲になったことを、私は知っています。
そのうえで、私はあなたから受け取ります。
そういう言葉なのではないか。
「食うなら、せめて『いただきます』って言う。それは魚のためだけじゃなくて……食う側がズルくならないためなのかもしれない」
真帆が小さく息を吐いた。
「高瀬君、それ、女子枠の話してる?」
理人は反射的に否定しようとして、やめた。
脳裏に悠真から見せられた大学のメールが浮かんだ。
> 差別であるとは言えません。
悠真は女子枠によって不利益を受けた可能性がある。
それが1回目なら、
「必要な制度だから、君は差別されていない」
とまで言われたことは、2回目なのではないか。
理人は同時に、自分自身の卒業研究を思い出した。
「全員同じ条件だから公平だ」
そう言われ、自分が実際にその条件からこぼれた事実まで、制度上の公平の中へ吸収された。
違う扱いをされて傷ついた悠真。
同じ扱いをされて傷ついた理人。
正反対に見える2人が、最後には同じ壁にぶつかっていた。
あなたの痛みは、制度上は存在しません。
理人は活け造りを一切れ口へ運んだ。
「……美味しい」
美味しいからこそ、余計に逃げてはいけない気がした。
自分はこの味のために、この魚の命を受け取っている。
その後、理人は女子枠について最初から調べ直した。
そこで、オープンキャンパスで会った葵と再会した。
女子特別選抜第1期で、東央大学工学部に入学していた。
「あのときの人ですよね」
葵のほうが先に気づいた。
「女子枠反対のチラシ配ってた」
「覚えてたんだ」
「覚えますよ。私にとっては結構大事な日だったから」
葵は中学生のころから電子工作が好きで、高校ではロボット競技にも参加していた。しかし進路面談では何度も「工学部って男子ばっかりだけど大丈夫?」と聞かれ、親戚からは「女の子なら薬学とかのほうがいいんじゃない?」と言われてきた。
理系クラスでも女子は少なく、工学へ進もうとする女子は、その中でもさらに少数だった。
「女子枠がなかったら、東央大は受けなかった?」
理人が尋ねると、葵は考えてから答えた。
「たぶん受けなかったと思います。学力の問題だけじゃなくて、募集要項を見て初めて、『女の自分が行っていい場所なんだ』って思えたので」
かつての理人なら、「そんな気持ちの問題で入試を変えるのか」と返したかもしれない。
今は、自分が研究室で何度「自分はここにいていいのか」と思ったかを知っていた。
葵は女子枠によって救われたのかもしれない。
その事実を認めることは、以前ほど難しくなかった。
難しいのは、その次だった。
葵が救われた。
だから悠真は傷ついていない。
そんな計算にはならない。
理人の頭には、生簀の鯵が何度も浮かんだ。
## 第7章 どちらにもいない
理人が女子枠への賛成を表明したとき、最初に怒ったのはかつて一緒に撤廃運動をした学生たちだった。
「結局、自分が障害者だから特別扱いしてほしくなっただけだろ」
そう言われ、理人は完全には否定できなかった。
もし自分が何事もなく大学を卒業できていたら、同じ結論へたどり着いただろうか。
分からない。
だから、分かったふりもしなかった。
> 女子枠で救われる人が本当にいるなら、僕はもう「差別だから」だけで反対できません。
その発言を境に、以前の仲間からは裏切り者と呼ばれるようになった。
さらに、悠真からも連絡が来た。
2人は駅前の喫茶店で会った。
悠真は席につくなり尋ねた。
「高瀬さん、女子枠に賛成するんですか」
「うん」
悠真は目を逸らした。
「……じゃあ、僕に言ってくれたことって何だったんですか」
「何って?」
「『君が損したことまで否定する必要はない』って」
「今もそう思ってる」
悠真は理人を見た。
「意味分かんないですよ」
声は大きくなかった。
それでも、理人には怒鳴られるより痛かった。
「僕が男だから不利益を受けたって認める。でも、その制度は続けろって言うんですよね」
「そうなる」
「大学より残酷じゃないですか」
理人はすぐには答えられなかった。
大学は悠真の被害を否定することで、少なくとも自分たちは彼を傷つけていないという立場を取った。
理人は違う。
悠真が傷ついたと認めたうえで、それでも制度を続けるべきだと言おうとしている。
それは本当に、大学より誠実なのだろうか。
ただ残酷さを自覚した、残酷な人間になっただけではないのか。
「……うん」
それでも今の理人には、それ以上の答えがなかった。
悠真はしばらく理人を見ていた。
「僕を女子枠賛成論の材料にしないでください」
その言葉だけ残して、悠真は先に店を出た。
理人は追わなかった。
追える言葉を持っていなかった。
一方、女子枠推進側も理人を歓迎しなかった。理人は女子枠に賛成すると言いながら、「女子枠は男子への差別でもある」という表現を撤回しなかったからだった。
藤崎教授との公開対談で、教授は指摘した。
「積極的是正措置を『男子差別』と表現することには、女性が置かれてきた歴史的・社会的な不均衡を無視する危険があります」
「その危険は分かります。でも、片方の不利益が大きければ、もう片方の不利益が0になるわけじゃないと思います」
「女子枠による取扱いと、女性が長年受けてきた排除を同列にするのですか?」
「同列にはしてません。同じ大きさだとも言ってません」
理人は一度言葉を切った。
「100と1なら、100のほうを先に何とかするべき場合だってある。でも100が存在するからって、1を0と呼ぶのは違うと思います」
その部分だけを切り抜いた動画がSNSで拡散された。
反対派からは「女子優遇側へ寝返った」。
賛成派からは「女子枠を男子差別と呼ぶ人間」。
理人は、どちらにもいない人間になった。
真帆も別のところで似た問題にぶつかっていた。
彼女は学生新聞の次期編集長候補になっていた。取材量も多く、文章も速く、現編集長からも以前から「来年は森川に任せたい」と言われていた。
だからこそ、理人の立場変更を扱った記事を提出したとき、編集長に呼び出されたことは真帆にとって重かった。
「森川、この『男子差別』って言葉、見出しから落とそう」
「高瀬本人がそう言ってます」
「本人が言ってるのは分かる。でも新聞としてその言葉を大きく出したら、うちが女子枠を差別認定したみたいに見えるだろ」
「じゃあ引用符をつければ」
「それでも煽りになる」
真帆は原稿を見つめた。
かつて悠真の記事で、自分は「中立」のために悠真の言葉を薄めた。
今度も同じことをしようとしている。
「じゃあ、本人がその言葉を使った事実はどう書けばいいんですか」
編集長は少し苛立った。
「もっと中立的な言葉にできるだろ。『男子側への不利益も認める』とか」
それは間違ってはいない。
しかし真帆には、また誰かを記事の中から消しているように感じられた。
「中立って、発言を丸くすることなんですか」
編集長が顔を上げた。
真帆は自分でも驚いた。
以前、悠真から同じことを言われたからだった。
編集長は椅子にもたれた。
「森川さ。記者として優秀だと思ってるよ。だから次の編集長にも推そうと思ってた」
真帆の胸が少し詰まった。
「でも、自分の問題意識を記事に乗せるようになったら話は別だ。編集長は、自分の正義より新聞全体を守らなきゃいけない」
真帆はすぐには返せなかった。
編集長にはなりたかった。
自分が企画を決め、後輩を育て、もっと大きな記事を作りたいと思っていた。
ここで折れれば、その道は残る。
「男子差別」を「男子側への不利益」に変えるだけでいい。
嘘ではない。
それでも、悠真の声が頭に浮かんだ。
> 中立って、僕の言葉を薄めることなんですか。
「じゃあ」
真帆はゆっくり言った。
「私は編集長には向いてないのかもしれません」
「森川」
「でも、本人が『差別された』って言ってるのに、私が勝手に『疑問を呈した』に変える記者には戻りたくないです」
編集長は何も言わなかった。
真帆も、それ以上は言わなかった。
その夜、真帆は理人に電話した。
「女子枠は差別じゃないって言えば、少なくとも賛成派には受け入れてもらいやすいんじゃない?」
理人は少し黙ってから答えた。
「それは言えない」
「なんで?」
「佐伯君が実際に何かを失った可能性があるから」
「でも女子枠には賛成なんでしょ?」
「賛成だよ」
真帆は苦笑した。
「それ、どっちからも嫌われるよ」
「もう嫌われてる」
理人も笑ったが、その声には力がなかった。
大学は悠真に、「差別であるとは言えません」と告げた。
研究室は理人に、「全員同じ条件だから公平だ」と告げた。
真帆は悠真の発言を、「公平な記事にするため」に丸めた。
表面上は違っていた。
それでも3人には、同じ逃げ道があるように思えた。
制度や記事の正しさを守るために、そこからこぼれた人間の痛みを説明の外へ追い出す。
理人は、それだけはしたくなかった。
では、必要だと思う制度によって誰かを傷つけざるを得ないとき、どうすればよいのだろう。
寿司屋で見た鯵と、「いただきます」という言葉が頭に浮かんだ。
まだ、人前で話せるほど綺麗な答えにはなっていなかった。
## 第8章 議論の始まり
女子枠導入から1年を迎え、東央大学は大規模な公開討論会を開くことになった。
女子枠設計に関わった藤崎教授、女子学生代表として葵、反対派学生、そして理人が登壇する。客席には学生だけでなく、受験生、保護者、報道関係者も入る予定だった。
討論会の2日前、理人は大学広報室へ呼ばれた。
藤崎教授と広報担当者が待っていた。
広報担当者は穏やかな口調で言った。
「高瀬さんが女子特別選抜の必要性を認める立場へ変わられたことは、非常に意味があると思っています」
理人は嫌な予感がした。
「ありがとうございます」
「そこでお願いなのですが、当日は『男子差別』という表現だけは、可能であれば控えていただけませんか」
やはり、と思った。
「なぜですか」
「大学として、積極的是正措置を差別と認定しているわけではありません。高瀬さん個人の意見であっても、壇上で繰り返されると誤解を招きます」
藤崎も口を開いた。
「女子枠の必要性について語ってくれること自体は、私はありがたいと思っています。ただ、『差別』という言葉はあまりにも強い」
理人は机の上の資料を見た。
大学が作成した進行案には、
「元女子枠反対派が語る、積極的是正措置の必要性」
と書かれていた。
それは理人にとって、久しぶりに用意された居場所だった。
反対派から追い出された。
賛成派からも警戒された。
悠真にも怒られた。
ここで「男子差別」という言葉さえ捨てれば、少なくとも大学側には受け入れてもらえる。
「分かりました」
そう言えばよかった。
しかし理人の頭には、喫茶店で悠真から言われた言葉が残っていた。
> 大学より残酷じゃないですか。
理人は、自分の考えが優しいとは思っていなかった。
「あなたは傷ついていません」と言うより、「あなたは傷ついています。それでもこの制度を続けます」と言うほうが、本当に善いのか。
今でも分からなかった。
ただ、自分を善良に見せるためだけに、悠真の傷を消すことはしたくなかった。
理人は結局、答えを保留したまま広報室を出た。
廊下には真帆が待っていた。
「何の話だった?」
「差別って言葉を使わないでくれって」
真帆は少し笑った。
「こっちも同じ」
「何が?」
「編集長から、『男子差別』を見出しに出すなって言われた」
2人はしばらく黙っていた。
「どうしたの?」
「次期編集長、たぶん無理になった」
理人が驚いて真帆を見ると、彼女は肩をすくめた。
「私、前は事実を等距離に並べれば中立になるって思ってた」
「今は?」
「分かんない」
真帆は少し考えた。
「ただ、誰かの言葉を消して中立になるのは違うと思ってる」
討論会当日。
会場は開始前から異様な熱気に包まれていた。
議論は予想通り荒れた。
反対派学生が理人へ尋ねた。
「高瀬さんは今、女子枠に賛成なんですよね」
「はい」
「女子だけ受けられる枠を作って、その分一般枠を減らすことにも?」
「一定の条件では賛成です」
「じゃあ、それって男子差別じゃないんですか?」
理人はマイクを握った。
手のひらに汗が滲んでいた。
視界の端に藤崎がいた。
大学広報の担当者もいた。
ここで、
「差別ではなく積極的是正措置です」
と言えば、すべて綺麗に収まる。
元反対派が考えを改めた。
大学の制度は正しかった。
理人にも新しい居場所ができる。
客席の後方に、悠真がいることに気づいた。
悠真は理人を見ていなかった。
理人は息を吸った。
> 「そうだ。僕は差別に賛成するんだ」
会場の音が一瞬消えた。
藤崎の表情が硬くなるのが見えた。
理人はもう後戻りできないと思った。
> 「昔の僕は、差別だと証明できれば、それだけで議論は終わると思っていました。でも違った」
>
> 「差別かどうかは、議論の終わりじゃない。始まりだったんです」
会場に大きなどよめきが走った。
理人はマイクを握る手に力を入れた。
> 「世の中には『善い差別』がある。これを否定すると被害者が2回殺される」
>
> 「1回目は、制度によって実際に不利益を受けることです。そして2回目は、その制度を正当化するために、『あなたは差別されていません』『あなたは何も失っていません』と言われることです」
>
> 「1回目の傷まで消してしまう。それが2回目の殺しです」
反対派学生が即座に割り込んだ。
「だったら女子枠をやめればいいじゃないですか。被害者が出ると分かってるんでしょう?」
「出ます」
「じゃあ男子を犠牲にしていいって言うんですか?」
理人は一度だけ目を閉じた。
喫茶店の悠真が浮かんだ。
> 大学より残酷じゃないですか。
理人はマイクを持ち直した。
> 「僕がこういう考えを話したとき、佐伯君から『大学より残酷じゃないですか』と言われました」
>
> 「僕も、そうかもしれないと思っています」
>
> 「『あなたは傷ついていません』と言うより、『あなたは傷つきます。それでもこの制度をやります』と言うほうが、本当に優しいのか。今でも分かりません」
会場のざわめきが小さくなった。
> 「ただ、だからって、自分を善良に見せるために傷つけた事実まで消すことだけはしたくない」
理人の頭に、生簀を泳いでいた鯵が浮かんだ。
網ですくわれ、まな板へ置かれ、皿に載った魚。
そして答えた。
> 「だから答えは、はいです」
>
> 「女子枠で入る女子学生は、その枠がなければ入れたかもしれない男子学生を食って大学に入る。僕はそう思います」
会場から怒声が上がった。
「女性を人食い扱いするのか」
「命と受験を一緒にするな」
「女子学生個人が落としたわけじゃないだろ」
葵も明らかに不快そうな顔をしていた。
理人は喉が乾いているのを感じた。
声も少し震えていた。
それでも続けた。
> 「そうです。食っています。でも僕は、それを悪いと言ってるんじゃない」
>
> 「僕はこの前、活け造りを食べました。生簀を泳いでいた魚が、自分たちが食べるために目の前で殺されて、皿に乗るのを見ました」
>
> 「僕たちは必要だから生き物を食べる。必要だから殺す。でも、だからって『何も死んでません』とは言わないでしょう」
悠真がようやく顔を上げた。
> 「魚を1回殺しておいて、自分が殺した事実を見るのが嫌だから、その魚の死まで否定する。それはあまりにもズルい」
>
> 「僕には、魚を2回殺しているように見える」
>
> 「だから、せめて『いただきます』と言うんだと思います。あなたが犠牲になったことを知っています。そのうえで、僕はあなたから受け取りますって」
会場は静まり返っていた。
> 「女子枠が必要なら、やればいい。僕は賛成です」
>
> 「でも、そのために落ちる男子がいるなら、『あなたは何も奪われていません』なんて言うな」
>
> 「せめて、『いただきます』と言ってほしい」
理人はそこで一度、言葉を止めた。
寿司屋で食事を終えたとき、板前へ何気なく言った言葉も思い出した。
食事には始まりだけでなく、終わりもある。
> 「そして、いつか男女の不均衡がなくなったときには、必ず『ごちそうさまでした』と言ってほしい」
>
> 「『善い差別』を始めるときには、いただきますと言う責任がある。終わらせるときには、ごちそうさまでしたと言う責任がある」
>
> 「どちらも言えないなら、他人を差別してまでその制度をやる資格なんてない」
拍手は起こらなかった。
代わりに、会場のあちこちから声が上がった。
「命と受験を同一視するな」
「女子に罪悪感を押しつけるな」
「男子の損失を過大評価している」
理人の背中に汗が流れた。
それでも、壇上から逃げることだけはしなかった。
「比喩が完全に同じだとは思っていません」
理人は答えた。
「女子学生個人が誰かを落とした、と言いたいわけでもありません。ただ、利益の裏で負担した人間がいるなら、その人を存在しなかったことにしないための比喩として使っています」
そのとき、司会者が悠真を指名した。
悠真は立ち上がった。
マイクを受け取っても、しばらく何も言わなかった。
やがて口を開いた。
「最初に言っておきますけど、僕、高瀬さんの考えには今でもかなり腹が立ってます」
理人は黙って聞いた。
「僕が不利益を受けたって認めたうえで、それでも女子枠を続けろって言うんです。大学より残酷かもしれない」
会場がざわついた。
悠真は続けた。
「大学は、僕を傷つけてないことにしました。高瀬さんは、『傷ついてる。それでも制度を続ける』って言いました」
少し笑った。
「どっちが嬉しいかって言われたら、どっちも嬉しくないです」
会場から小さな笑いが漏れた。
悠真は笑わなかった。
「でも、僕が一番辛かったのは、女子枠が必要だって言われたことじゃありません」
スマートフォンを取り出した。
保存してあった大学からのメールを読み上げる。
> 「差別であるとは言えません」
短い一文が、広い会場に響いた。
「僕は女子枠をなくしてくれって質問したんじゃありませんでした。必要なのは分かったから、それでも僕は性別で違う扱いを受けたんじゃないですかって聞いただけでした」
悠真はマイクを握り直した。
「でも、それすら認めてもらえなかった」
声が少し震えた。
「僕が欲しかったのは、たぶん合格通知だけじゃなかったんです」
理人を一度見た。
「『君が払ったものはあったよ』って、誰かに言ってほしかったんだと思います」
壇上の葵が俯いた。
彼女は理人の「食っている」という表現が嫌だった。
自分が誰かを捕食してこの大学に入ったように言われるのは嫌だったし、自分が受験勉強をして合格した努力まで軽く扱われているようにも感じた。
自分が悠真を落としたわけではない。
それは今でもそう思う。
しかし目の前にいる悠真が、「自分が払ったものを認めてほしかった」と言っている。
それを否定するために、
「あなたは何も払っていません」
と言うのは、もっと嫌だった。
葵はマイクを取った。
「私、高瀬さんの『食ってる』って言い方、今でも嫌です」
理人は頷いた。
「うん」
「私が佐伯さんを落としたわけじゃないし、『あなたの席を奪いました』って言われたら、それは違うって今でも思います」
「それも分かる」
葵は悠真を見た。
「でも……だからって、佐伯さんが何も失ってないことにするのは、もっと嫌です」
悠真が顔を上げた。
葵はゆっくり言葉を探した。
「私、女子枠がなくなってほしいとは思いません。あれがあったから、自分も工学部を受けていいんだって思えたし、今ここで勉強できています」
少し間を置いた。
「だから、この席を返しますとも言えません。でも、自分の席を守るために、佐伯さんが何も失ってないことにするのは……たぶんズルいんだと思います」
理人の比喩を受け入れるのは、まだ嫌だった。
それでも、その比喩が指している責任まで拒否する必要はないのかもしれない。
自分は努力してここへ来た。
女子枠にも救われた。
その制度によって別の誰かが負担した可能性もある。
3つとも本当であっていい。
葵はもう一度口を開いた。
「『食った』って言われるのは嫌です。本当に嫌です」
それから小さく笑った。
「でも、『いただきます』って、食ったことを自慢する言葉じゃないんですよね」
理人は何も答えなかった。
葵自身に決めさせたかった。
「自分が受け取ったものがあるって、忘れないための言葉なら」
葵は椅子から立ち上がった。
悠真のほうを向いた。
謝罪ではなかった。
女子枠を手放す宣言でもなかった。
悠真に制度を許してほしいと求める言葉でもなかった。
ただ、自分が今ここにいる制度の向こう側に、悠真のような人がいたことを忘れないために、両手を合わせた。
> 「……いただきます」
悠真は何も答えなかった。
ただ唇を強く噛み、俯いた。
しばらくして、別の女子学生が立った。
「私も『食べる』って比喩は好きじゃないです。でも、男子側に何の負担もないとは思いません」
彼女も両手を合わせた。
「いただきます」
さらに一人が続いた。
全員ではなかった。
「私は最後までこの比喩には賛成できません」と明言する女子学生もいた。
座ったままの者もいた。
それでよかった。
全員が同じ結論になる必要はなかった。
客席の隅で、真帆はノートパソコンを開いていた。
記事の仮見出しには、編集長から提案された、
「女子枠めぐり賛否 公開討論会開催」
と書かれていた。
真帆はそれを全部消した。
そして新しく打った。
「『差別であるとは言えません』――誰の痛みを、制度の外へ置くのか」
編集長に通らないかもしれない。
次期編集長にもなれないかもしれない。
それでもよかった、とまでは思えなかった。
惜しかった。
怖かった。
それでも、もう一度悠真の言葉を薄めるよりは、その怖さを引き受けたかった。
一方の味方になるためではない。
悠真の言葉を、もう二度と勝手に消さないためだった。
## 第9章 知っています
討論会が終わったあと、理人は東央大学の正門へ向かって歩いた。
広報担当者とは目が合わなかった。
藤崎教授も、すぐには声をかけてこなかった。
大学側に用意されかけていた居場所は、おそらく自分で壊した。
それでも不思議と、後悔はなかった。
後ろから声がした。
「高瀬さん」
悠真だった。
目は赤かったが、初めて会ったファミリーレストランのときより表情は穏やかだった。
2人はしばらく並んで歩いた。
悠真が先に口を開いた。
「僕、今でも女子枠なんてない方がいいと思ってます」
「うん」
「今日、女子の人たちに『いただきます』って言ってもらったから、じゃあどうぞ、とは思えないです」
「それでいいと思う」
悠真は少し苛立ったように笑った。
「高瀬さん、そこすぐ肯定しますよね」
「だって反対してるんでしょ」
「してますよ」
「じゃあ、それでいいじゃん」
2人とも少し笑った。
しかし悠真の表情はすぐ真面目に戻った。
「僕、まだ高瀬さんにも腹立ってます」
「うん」
「僕が差別されたって認めて、それでも女子枠を続けろって言うから」
「うん」
「残酷ですよ」
「そうだと思う」
悠真は立ち止まった。
理人も足を止めた。
しばらく沈黙してから、悠真は言った。
> 「でも、僕が受けた理不尽を、差別だったって認めてくれてありがとうございました」
理人はすぐには答えられなかった。
悠真が最初に大学へ送ったメールを思い出した。
自分は性別を理由に不利益を受けたのではないか。
そして大学から返された言葉。
> 「差別であるとは言えません」
悠真が求めていたものは、入学許可だけではなかった。
女子枠廃止という政治的勝利だけでもなかった。
自分がそこにいたこと。
自分が確かに何かを負担したこと。
その事実を見てくれる誰かだった。
理人は言った。
「ごめん。僕はそれでも女子枠に賛成する」
悠真は少しだけ眉をひそめた。
「今それ言います?」
「言っとかないと、僕がごまかしたみたいになるから」
悠真は呆れたように息を吐いた。
それから少し笑った。
「知ってます」
2人の意見は最後まで一致しなかった。
これからも一致しないのかもしれない。
それでも、相手の痛みまで間違いだと言う必要はなかった。
正門の近くまで来たところで、後ろからもう一度名前を呼ばれた。
今度は藤崎教授だった。
「高瀬君」
理人は少し身構えた。
「先ほどの発言についてなら」
「それもあります」
藤崎は苦い顔をした。
「私は今でも、女子枠を『男子差別』と呼ぶことには賛成できません。あなたの比喩にも賛同できない」
「はい」
「大学広報としても、今日の発言はかなり困るでしょうね」
理人は苦笑した。
「だと思います」
藤崎もほんの少しだけ笑った。
しかしすぐ真面目な顔に戻った。
「ただ、佐伯さんへの大学の回答は間違っていたと思います」
悠真が振り返った。
藤崎は彼に向き直った。
「制度を守るために、あなたが受けた不利益まで否定する必要はなかった」
悠真は何も言わなかった。
藤崎は続けた。
「女子枠が必要だと考えることと、その制度によって不利益を受ける人がいると認めることは、両立するのかもしれません。少なくとも、私は今日そう思いました」
「女子枠はやめないんですよね」
悠真が聞いた。
「私は、今の段階では必要だと思っています」
悠真は少しだけ笑った。
「高瀬さんと同じですね」
「同じにされると困ります」
藤崎が即答し、理人は思わず笑った。
誰も完全には同じ場所に立っていなかった。
それでも、以前より少しだけ、互いの姿が見えていた。
## 最終章 食べる側
その後も、東央大学の女子特別選抜は存続した。
ただし大学は制度評価の方法を変更し、一般枠への影響、女子枠による効果、入学後の教育環境などを毎年公開することにした。必要性が十分に低下した場合には縮小や廃止を検討することも、文書に明記された。
大学の説明文から、
「男子受験生には不利益が生じていない」
という趣旨の表現も消えた。
代わりに、一般枠の減少によって一部受験生に相対的な不利益が生じ得ること、その負担を踏まえてもなお制度を実施する理由が記載された。
変更にあたっては藤崎も学内委員会で意見を出したらしい。
理人は、それで問題が解決したとは思わなかった。
悠真も女子枠には反対したままだった。
ただ、「誰も何も失っていない」という嘘だけは一つ減った。
理人自身には、もっと現実的な問題が待っていた。
大学中退。
学士号なし。
研究で作ったプログラムを見せても、応募条件に「大卒以上」と書かれていれば、書類を出すことすらできない会社は多かった。
就職活動は難航した。
そんな中、あるIT企業の障害者採用が目に留まった。
応募画面を開き、理人はしばらくマウスを動かせなかった。
障害者採用。
以前の自分なら避けていただろう。
「障害者だから入れた」と思われるくらいなら、一般採用で落ちたほうがましだとすら考えたかもしれない。
理人は応募ボタンを押した。
面接では、自分の得意なことだけでなく苦手なことも話した。曖昧な口頭指示は苦手であること、文書にも要点を残してもらえれば能力を発揮しやすいこと、予定変更は可能な範囲で明確に伝えてほしいことを説明した。
以前なら、それを口にするだけで自分の価値が下がるように感じただろう。
面接官はメモを取りながら聞いた。
「その程度なら十分調整できます。仕事そのものができるなら、そこは仕組みで補いましょう」
数週間後、採用通知が届いた。
理人は画面を長い間見つめた。
かつて自室で泣きながら口にした言葉を思い出した。
> 「障害者枠があれば……僕も大学を卒業できたかもしれないのに」
今度は、枠があった。
自分のために用意された、ほかの人とは少し違う入口だった。
入社までの間に、悠真からメッセージが届いた。
浪人の末、別の大学の工学部に合格したという。
> 第一志望じゃなかったですけど、意外と楽しいです。
>
> 女子枠には今でも反対ですけどね。
理人は画面を見て笑った。
> それでいいと思う。
少し経って返事が来た。
> そこは本当に変わらないですね、高瀬さん。
葵は東央大学でロボット系のサークルに入り、翌年のオープンキャンパスでは高校生案内のスタッフをしていた。
真帆から送られてきた写真には、葵が女子高校生と話している姿が写っていた。
後から真帆に聞いたところ、その高校生は葵へ、
「工学部って女子でも大丈夫ですか」
と聞いたらしい。
葵は、
「大丈夫だよ」
と答えたという。
女子枠について説明したかどうかまでは、理人は聞かなかった。
真帆は結局、学生新聞の編集長にはならなかった。
現編集長との一件だけが理由だったのかは分からないし、真帆自身も確かめようとはしなかった。
それでも記事を書くことはやめなかった。
以前ほど簡単に「中立」という言葉を使わなくなった。
誰かの主張をそのまま正しいと認めることと、誰かがそう主張しているという事実を消さないことは違う。
彼女もまた、その区別を覚えたらしかった。
初出勤の日。
上司は仕事内容を口頭で説明したあと、同じ内容の要点をチャットにも書いて送ってくれた。
「口頭だけだと抜けることがあるって聞いてるから。これで大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
席も、人の出入りが比較的少ない場所に用意されていた。
上司が説明を文章にする時間。
人事が配慮を調整する時間。
自分のために設けられた採用経路。
会社も社会も、理人のために何かを差し出している。
それを全部、
「これは特別扱いではありません」
と言って綺麗に消すこともできるのかもしれない。
理人は、そうしなかった。
葵だけが食べる側なのではなかった。
悠真だけが食べられる側でもなかった。
真帆も、自分が書く言葉によって誰かを傷つける可能性から逃げられなかった。
藤崎も、制度を運営する以上、誰かに負担を求める責任からは逃げられなかった。
そして理人自身もまた、別の場所では誰かが差し出した時間や制度や労力を受け取って生きている。
ある場所では食べられる。
別の場所では食べる。
人間はおそらく、その両方を何度も繰り返しながら生きていく。
昼休み、理人は社員食堂へ向かった。
焼き魚の定食を受け取り、窓際の席に座った。
学生時代、寿司屋の生簀を泳いでいた鯵を思い出す。
あのころの自分は、誰にも何も負担させず、自分も誰の負担にもならず、自分の力だけで立つことが尊厳なのだと思っていた。
今は違う。
理人は目の前の食事を見た。
それから、スマートフォンに残された分かりやすい業務指示を見た。
静かな自分の席を見た。
自分が今日ここに座るまでに、受け取ってきたものを思った。
必要なものだからといって、誰も何も負担していないことにはしない。
「善い差別」という名前をつけたからといって、自分だけは無罪になるわけでもない。
もしかすると、傷つけていると認めながら何かを選ぶことは、思っていたほど立派でも優しくもないのかもしれない。
それでも、自分が受け取ったものを、受け取っていないことにだけはしたくなかった。
いつか、この配慮が必要なくなる日が来るのかもしれない。
あるいは、一生必要なのかもしれない。
それはまだ分からなかった。
だから、まだ「ごちそうさまでした」と言うときではない。
理人がこの場所で働く人生は、今日始まったばかりだった。
理人は両手を合わせた。
生簀の鯵に言った言葉。
女子枠で救われた葵が、悠真へ言った言葉。
そして今度は、自分が社会から受け取るものに対して言う言葉。
もう、その6文字を何も考えずに口にすることはできなかった。
> 「いただきます」
この小説を書いた理由の一つに、女子枠をめぐる議論への素朴な疑問があります。
女子枠に反対する人は、
「性別によって違う扱いをするなら、それは差別ではないか」
と言います。
一方、賛成する人は、
「これは不平等を是正するために必要な措置であって、差別ではない」
と答えることがあります。
私は、この2つの立場が噛み合わない理由の一つは、「差別なら悪でなければならない」という前提を、実は双方が共有しているからではないかと考えました。
もし、
「そうです。差別ではあります。
でも、それでも今は必要だと思うので、あなたに不利益を負担してもらいます」
という言い方ができたら、議論は少し変わるのではないでしょうか。
もちろん、それで反対する人が賛成に変わるとは限りません。佐伯悠真も、最後まで女子枠には反対しています。
それでも、
「あなたは何も失っていません」
と言われるのと、
「あなたが負担したものは認めています。それでも、この制度を選びます」
と言われるのとでは、ずいぶん違うのではないか。
食事の前に言う「いただきます」は、食べることを謝罪する言葉でも、食べることを正当化する言葉でもありません。
自分が何かを受け取っていることを、なかったことにしないための言葉でもあるのだと思います。
だからこの小説では、
善いことだけれど、差別でもある。
差別させてもらう。いただきます。
という、一見すると矛盾した態度を書いてみました。
この考え方が正しいかどうかは、読者の皆さんに委ねたいと思います。




