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掌編小説集

月の街

掲載日:2026/02/02

 

 月の裏側に街があるという噂を聞いた。

 人はそこに行けない。けれど夜、夢の底で歩くと、時々その街の石畳を踏む音がする。


 街の名はわからない。灯りもなく、風もない。

 建物はすべて灰色で、扉がどれも外側についていない。

 窓の奥に、人の影が一瞬だけ揺れては消える。

 その影の輪郭は、どう見ても私自身のものだった。


 月の裏側の街では、死んだ者と、生きている者の境界が溶けているのだと誰かが言った。

 そこでは声が形を持ち、思い出が水になる。

 水は石畳を流れ、やがてそれを踏んだ足の裏から、眠る者の胸へと沁み込んでくる。


 私は歩きながら、自分の足跡がないことに気づいた。

 どんなに進んでも、振り返ると最初の角に立っている。

 夢の構造は円環のようで、どこまでも行けるのに、出られない。


 そのとき、ある扉がひとりでに開いた。

 中には、あなたがいた。

 背中を向けて椅子に座り、何かを見ていた。

 私は声を出そうとしたけれど、口からは音が出ず、代わりに冷たい水の粒がこぼれた。

 それが床に落ちて、静かに濡れた。


 あなたはゆっくりとこちらを振り向いた。

 その顔は、私が最後に見た夜のままだった。

 目の奥が白く濁っていて、その奥に私の姿は映っていなかった。


 私は歩み寄った。

 あなたの肩に触れると、指先がすぐに透け、冷たい霧に溶けた。

 そのとき、月の街全体が、息を吸うように震えた。


 あなたの口が、ゆっくりと動いた。

 音はどこにも宿らず、唇の動きだけが湿った沈黙のなかでゆっくりほどけていった。


 私はその形を読み取ろうとした。

 けれど、どの言葉も夢の膜を通るうちに崩れていった。


 やがてあなたは立ち上がり、扉のない壁のほうへ歩き出した。

 灰色の壁に近づくたび、あなたの輪郭が少しずつ薄れていく。

 私は手を伸ばした。そのとき、壁が波紋を描いた。

 誰もいないはずの空間に、見えない手が触れたようだった。


 私はただその跡を見ていた。

 壁の表面には、私の影が映っていた。

 けれど、それは動かない。

 その影の口が、あなたと同じようにゆっくりと開いた。


「帰っておいで」


 声は、私のものだった。

 けれど、それは私の胸の奥からではなく、影のほうから響いていた。


 石畳は水に沈んでいた。

 光のない空の果てで、私はその水を両手ですくった。

 掌の上で、水はかすかに震え、

 揺らめきながら、深いほうへ沈んでいく。


 その底に、あなたがいた。

 私を見つめている。

 声も動きもなく、

 ただ、泡のように静かに揺れていた。


 私たちは互いの夢の底で、同じ場所を見ていたのだろうか。

 あなたが死んだ夜、私は泣きながら眠った。

 そのときに踏んだ月の石畳の音を、今も耳の奥で聞いている。


 もし、夢がつながるのだとしたら、

 あなたの見ている街も、私の歩く街も、きっと同じ月の裏側にある。


 そしていつか、私が完全に眠る夜、

 あなたが座っていた椅子の向かいに、もう一つ椅子が置かれて、

 もうひとつの影が静かに腰を下ろすのだろうか。

 光の裏側の街で。

 

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