月の街
月の裏側に街があるという噂を聞いた。
人はそこに行けない。けれど夜、夢の底で歩くと、時々その街の石畳を踏む音がする。
街の名はわからない。灯りもなく、風もない。
建物はすべて灰色で、扉がどれも外側についていない。
窓の奥に、人の影が一瞬だけ揺れては消える。
その影の輪郭は、どう見ても私自身のものだった。
月の裏側の街では、死んだ者と、生きている者の境界が溶けているのだと誰かが言った。
そこでは声が形を持ち、思い出が水になる。
水は石畳を流れ、やがてそれを踏んだ足の裏から、眠る者の胸へと沁み込んでくる。
私は歩きながら、自分の足跡がないことに気づいた。
どんなに進んでも、振り返ると最初の角に立っている。
夢の構造は円環のようで、どこまでも行けるのに、出られない。
そのとき、ある扉がひとりでに開いた。
中には、あなたがいた。
背中を向けて椅子に座り、何かを見ていた。
私は声を出そうとしたけれど、口からは音が出ず、代わりに冷たい水の粒がこぼれた。
それが床に落ちて、静かに濡れた。
あなたはゆっくりとこちらを振り向いた。
その顔は、私が最後に見た夜のままだった。
目の奥が白く濁っていて、その奥に私の姿は映っていなかった。
私は歩み寄った。
あなたの肩に触れると、指先がすぐに透け、冷たい霧に溶けた。
そのとき、月の街全体が、息を吸うように震えた。
あなたの口が、ゆっくりと動いた。
音はどこにも宿らず、唇の動きだけが湿った沈黙のなかでゆっくりほどけていった。
私はその形を読み取ろうとした。
けれど、どの言葉も夢の膜を通るうちに崩れていった。
やがてあなたは立ち上がり、扉のない壁のほうへ歩き出した。
灰色の壁に近づくたび、あなたの輪郭が少しずつ薄れていく。
私は手を伸ばした。そのとき、壁が波紋を描いた。
誰もいないはずの空間に、見えない手が触れたようだった。
私はただその跡を見ていた。
壁の表面には、私の影が映っていた。
けれど、それは動かない。
その影の口が、あなたと同じようにゆっくりと開いた。
「帰っておいで」
声は、私のものだった。
けれど、それは私の胸の奥からではなく、影のほうから響いていた。
石畳は水に沈んでいた。
光のない空の果てで、私はその水を両手ですくった。
掌の上で、水はかすかに震え、
揺らめきながら、深いほうへ沈んでいく。
その底に、あなたがいた。
私を見つめている。
声も動きもなく、
ただ、泡のように静かに揺れていた。
私たちは互いの夢の底で、同じ場所を見ていたのだろうか。
あなたが死んだ夜、私は泣きながら眠った。
そのときに踏んだ月の石畳の音を、今も耳の奥で聞いている。
もし、夢がつながるのだとしたら、
あなたの見ている街も、私の歩く街も、きっと同じ月の裏側にある。
そしていつか、私が完全に眠る夜、
あなたが座っていた椅子の向かいに、もう一つ椅子が置かれて、
もうひとつの影が静かに腰を下ろすのだろうか。
光の裏側の街で。




