第八話「護衛とカオス」
おはよう。俺はコモリ。この世界の『作者』だ。
今日、俺は部屋に引きこもることに決めた。
空から降ってきた幼女の歌声。まるで耳元で囁くように「屋敷を買え」と迫ってくる幻聴を聞かされた後なら、これが最も理にかなった行動だ。
なにせ、一生ここにいれば何も起きないのだから。
唯一の難点は、この状態だと食料も水も、生きるのに必要な物資が一切手に入らないことだ。ユミヅキは俺に物を運ぶのを拒否した。
彼女は怒っていた。当然だ。
それでも、今回ばかりは誰の声も聞きたくなかった。
俺は深くため息をついた。
いや、引きこもるのは一日だけにしよう。
次はちゃんと立ち上がる。誓っていい。
前世と同じ過ちは繰り返さない。
そうして、俺は一日の大半をそこで過ごした。
◇
夜になり、俺の腹が鳴った。
重い体を引きずり、必要以上にため息をつきながら、ゆっくりと扉を開ける。
そこには、フユネとユミヅキが待っていた。
相変わらず、最初に口を開いたのは剣士の方だった。
「コモリ」
すかさず、フユネが前に出る。
「コモリさん」
それ以上何も言わなかったが、彼女たちの顔には『リーダー』の情けない姿への失望がはっきりと浮かんでいた。
特にフユネだ。以前とは違う目で俺を見つめている。
失望、心配、それとも怒りか?
おそらく、その全部だろう。
「……悪かった。もう二度としない。ただ……少しだけ考えさせてくれ」
ユミヅキが俺の前に立った。
腕を組み、冷ややかな視線を向ける。
「コモリ。組む気も、特訓する気も、前に進む気もないなら……なんでパーティーなんて募集したわけ?」
「特訓したくないとか、チームがいらないなんて言ってないだろ。ただ、昨夜起きた出来事をうまく説明できなくて、頭を整理してただけだ」
「なら、その全部を話しなさいよ」
俺は生唾を飲み込んだ。
「わかった、ユミ……そう呼んでもいいか? その方が落ち着くんだ」
彼女は小さく頷き、フユネの隣にある椅子に腰を下ろした。
魔法使いは無言だったが、間違いなく二人のうちで最も注意深く俺を観察していた。
「よし……風呂場で起きたことよりさらに信じがたい話だが……本当に起きたんだ! 星座が文字の形になって、幼女の声が歌いながら『あの屋敷を買え』って迫ってきたんだよ。俺は……狂い始めてるのかもしれない。何かの前兆か……?」
「深呼吸。コモリ、それじゃどこにも進まないわよ」
「そうだな、ユミ。大体、場所も教えてもらってないのに屋敷なんて買えるわけがない。お前たち、知ってるか?」
二人は首を横に振った。
やっぱりな。
その売人だか何だか知らないが、あの声の主はアホなのだ。例の屋敷がどこにあるのか、住所も目印も残さずに売りつけようとしているのだから。
「それだけ?」
「ユミ、そんな顔で見るなよ……誓って本当だ。嘘なら俺の妄想だが、確かに見たんだ」
彼女は眉をひそめ、考え込んだ。
「んー……わかった、信じる。空で何かが歌ったとしましょう。でもね、コモリ……あんた何者? そんなの歴史上聞いたこともないわ。空が歌うとか、風呂場にメッセージが残るとか、前代未聞よ」
俺は何者か……?
話すべきか?
いや、ダメだ。
それはあまりに狂気じみている。
それに『選ばれし勇者』という言い訳で十分すぎるほどだ。
余計な事柄に関わる意味はない。
俺が口を開く前に、フユネが立ち上がった。
「コモリさん……大事なのは、私たちが心配してるってこと。またあんな風に落ち込むの? 私……そういう時の助け方はわからないけど、話してほしいな」
「約束はできないが、やってみる。君のために。お前たちのために」
「やった! それを聞きたかったの! あ、それと報告なんだけど……」
彼女はテーブルに歩み寄り、一枚の紙を取った。
渡されたそれを、俺は読み始める。
ランク:フリー
タイプ:誕生パーティーでの護衛
クライアント:ミラー夫妻
目標:E404のグランドパレスで行われる、エルザ・ミラーの十八歳の誕生日パーティーを護衛すること
報酬:ライ麦パン二個
ライ麦パン?
聞いたこともない。
これも通貨の一種か?
疑問に思った俺は、この世界の事情に最も詳しい人物に頼った。
「ユミ、ライ麦パンって何だ? いや、通貨としてって意味だけど」
「特別なパンね。価値は変わらないけど、重くて日持ちがするの」
「ふーん……なるほどな」
こうして俺たちはクエストを受注し、準備を始めた。
◇
あれから一週間が経った。
ミラー家は一年で一番重要な誕生日を雪の日に祝いたくなかったらしく、待つことにしたようだ……結果、彼らは運が良かった。
今は春だ。
「コモリさん……コモリさん……」
「呼ぶのはこれで十回目だぞ、フユネ。どうした?」
何が起きたか説明しよう。
要するに、俺たちはスーツを着る羽目になった。
いや、マジだ。警備員が着るような礼服に、『通信』と呼ばれる魔石を使った音声装置まで付けさせられている。
「なんでこんな格好しなきゃいけないの!? 空気抵抗がひどい!」
「任務だから仕方ないだろ、断れないんだ……」
彼女は頬を膨らませながら、俺のネクタイを直してくれた。
「……よし、これで完璧」
「ありがとう、コモリさん。でもド下手ね」
フユネは自分のネクタイを直し、次にもう一度俺のネクタイを直した。
「普通のことだ……男はこういうの気にしないからな。勇者ならなおさらだ……」
俺は小声で呟いた。
まあ、嘘ではない。
一方、ユミヅキは……。
彼女はこういう服を着るタイプには見えなかったが、以前にも着たことがあると言っていた。
引き締まった体に高めの身長、合うスーツを見つけるのは大変だったはずだ。
それでも、ミラー家は万全の準備を整えていたらしい。驚くほど彼女に似合っていた。
「準備はいい?」
彼女が問う。
「ああ!」「うん!」
俺たちは同時に答えた。
◇
初めて見た時と変わらず、宮殿は威圧感を放っていた。
周囲の小屋には奇妙な装飾が施されている。リボン、花、色とりどりの布が、明らかな熱意をもって吊るされていた。
ミラー家がここを所有していて、住民たちが感謝の印に誕生日の主役を祝って飾り付けた……そんな風に見えた。
「十八歳の誕生日は、この地域ではすごく重要なの」
「待て……宮殿はそのために作られたのか……?」
「基本的には……そうね。でもエルザのためだけじゃないわ。ミラー家は所有者じゃなくて、借りてるだけ」
「宮殿を借りた……?」
「重要な祝賀会に使われる宮殿よ。安くはないわ。それに、音楽の音でモンスターが寄ってくるの」
彼女は顎で空をしゃくった。
「クラサン蝙蝠。オオカミほどの大きさで、音を通して『見る』ことができるの」
俺は生唾を飲み込んだ。
最高だ。十五歳ならぬ十八歳のパーティー……空襲の危険付きとは。
だからこその護衛か。
「寄ってくる『かも』って言ったの。期待しないで」
「期待なんかしてない……」
これぞ俺の知るユミヅキだ。
彼女は間違いなく、コウモリに来てほしがっている。
俺が何か言う前に、三階の窓から高らかなトランペットの音が鳴り響いた。
「き・り・つ! エルザ・ミラー様の御到着だ!」
側面にはめ込まれたクリスタルから自ら光を放つ、見事な馬車が現れた。
引いているのは普通の馬ではない。儀式用の外套を纏った白い獣たちだ。
扉が開く。
エルザ・ミラーが降り立った。
「すごく綺麗……」
仲間のひとりが呟いた。
嘘ではない。
白い髪に、吸い込まれそうな青い瞳。
全身白の、無駄に豪華なドレス。前腕まで覆う同色のグローブを身につけていた。
エルザが赤い絨毯の上を進むと、群衆から拍手が湧き起こる。
ずいぶんと『奥ゆかしい』な。俺は内心で皮肉った。
だが、注意深く観察すると、何かが噛み合っていないことに気づいた。
彼女はまったく快適そうではなかったのだ。
微笑み、手を振り、立場のある人間に求められる完璧な所作で応えているが、その顔は別のことを語っていた。嫌悪ではない。それは……居心地の悪さだ。
まるで、台本通りに演じているけれど、自分が選んだ役ではないとでも言うように。
なぜそんなことに気づけたのか?
わからない。
異世界に来てからというもの、俺自身が愛想笑いばかり浮かべていたからか。
あるいは、この世界で初めて――「本来いるべき場所にいたくない」と願う人間を見たからかもしれない。
「ねえ、あなた」
彼女が俺の目の前で立ち止まった。
今日の俺はメイン護衛。常に彼女の隣に付き従う役目だ。
「なんでしょう」
「『お誕生日おめでとうございます』とか、『ルフェンティを導く偉大な指導者になれますように』とか、そういうお祝いの言葉はないの?」
「え……? いや、そういう定型文を押し付ける趣味はないんで。それに、あんたの事情なんて知らないし……」
彼女はきょとんとして、二度瞬きをした。
「……変わった人ね」
「ここじゃよく言われる」
彼女は口元に手を当てて、くすりと笑った。
「いいわ、変わった護衛さん。それじゃあ付き合って」
踵を返し、再び赤い絨毯の上を歩き出すエルザ。
俺は一歩下がって後に続き、護衛としての役割を果たす。
「コモリさん、頑張ってー!」
料理を口いっぱいに頬張りながら、フユネが叫んでいた。
◇
ちょうど一時間が経過した。
俺はミラー家のメインテーブルを挟む柱のそばに立っていた。
冷静さを保たなければならない。外にはユミヅキとフユネがいる。何も入っては来られないはずだ。
だが、問題はモンスターへの恐怖ではなかった。
別のものだ。
エルザの両親は、隠しきれない軽蔑の目を俺に向けていた。
「それで、エルザ……」
ミラー氏は一口料理を口に運び、ナプキンで口元を拭った。
「ヴェンタリスへ留学する件は考えたか? お前の魔法は大したことがない。すでに無駄な時間を使いすぎた……」
俺は凍りついた。
こいつら、一番大事な誕生日の日に……娘の将来の話をしてるのか?
そこで理解した。
あの悲しみの理由はこれか。
「お言葉ですが、閣下……」
クソッ。
考えずに口が動いた。
ローゼンフル・ミラー氏は、ゆっくりとカトラリーを皿の上に置いた。
俺を真っ直ぐに見据える。
「あ、いや……」
生唾を飲み込む。
ダメだ。冷静になれ。
「もし彼女に魔法の才能を開花させたいなら……光は彼女自身から生み出されるべきです。あなた方からではなく。そうは思いませんか?」
男は眉をひそめた。
「何だね? 君が子育ての何を知っているというのか。名家を背負うことの何を知っている?」
俺は深く息を吸った。
「再び無礼をお許しください。ですが、彼女を見てください。幸せそうですか? ご心配はわかります。本当に。良き未来を保証したいのでしょう……ですが、その未来で彼女が幸せになれないのなら、何の意味があるのですか?」
男は一瞬たりとも視線を外さなかった。
「君は私の娘の何も分かっていない。あの子は幸せだ。一度も嫌だと言ったことはない」
胃が締め付けられるような感覚に襲われた。
そりゃ嫌だとは言わないだろうさ。それが問題なんだ。
どうしたんだ、俺は?
なぜこの議論に勝とうとする勇気が湧いてくるんだ?
「ミラー様……」
俺は慎重に言葉を選んだ。
「嫌だと言わないことは、同意したことにはなりません。ただ、『嫌だ』と言っても無駄だと学習しただけかもしれませんよ」
それ以上は言わなかった。
言う必要がなかった。
エルザを見る。
彼女はまだ微笑んでいた。
いや、そうあろうとしていた。
そして、仮面が崩れ落ちた。
許可なく涙が溢れ出す。
それを隠すように、彼女は咄嗟にうつむいた。
だが、震える肩と、ドレスの裾を握りしめるその拳が、すべてを物語っていた。
クソッ。
泣かせたかったわけじゃない。
違う。俺はただ彼女を助けたかっただけで……
「護衛として雇ってやったというのに、貴様は台無しにしたな……! 今すぐ出ていけ……!」
「お父様……やめて。お願い……」
エルザが椅子から立ち上がる。
「最初から台無しにしていたのは、お父様の方よ」
父親へそう言い放つと、エルザは返事も待たずに俺の手を引いて歩き出した。
俺はただ従うしかなかった。
なにせ俺は彼女の個人的な護衛であり……まあ、個人的に首を突っ込みすぎたのは確かだからな。
◇
宮殿の庭園に出るなり、エルザは完全に我を忘れていた。
「こんなグローブ! こんな靴も!」
虚空に向かって叫びながら、苛立ちに任せて身につけていたものを次々と投げ捨てていく。
やがて何事もなかったかのように木にもたれかかり、夜空を見上げた。
「私ってバカみたい……。見ず知らずの人に問題を解決してもらうなんて。もう十八歳で、二年前から大人なんだから、自分の身くらい自分で守れるはずなのに! でも……」
「勇気が出なかったんだろ」
エルザが俺を見る。
その顔から、平静の仮面は完全に剥がれ落ちていた。
「どうしてあなたが話すと、何でもお見通しって感じに聞こえるの?」
「全部を知ってるわけじゃない。ただ……君の状況がわかったのは、俺自身が似たような経験をしたからだ。だから無意識に、どうすべきかわかっただけさ」
俺自身の過ちを正す時が来たのだ。
俺がこの世界を壊した張本人なら、俺自身の手で直せるかもしれない。
背後からは、フユネとユミヅキがモンスターと戦う騒々しい音が聞こえていた。
「おおっ! 飛んでる虫! 私の最強魔法、プロメテウスの矢を食らいなさい!」
俺はため息をつき、エルザに向き直る。
「変な人……面白いけど……」
「けど?」
頼む、逆接であってくれ。
「でも、気に入ったわ。お父様にあんな風に……涼しい顔で立ち向かった人なんて、あなたが初めてよ」
「いや、それは……」
俺が口ごもった瞬間、遠くで起きた爆発音が思考を遮った。
「信じてくれ。死ぬほど怖かったんだ。首が飛ぶかと思ったよ」
「正直なのね……ふふ。でもだからって、私たち付き合うことになるとか思わないでね?」
「はあ!? お、俺は別に落とそうとしてやったわけじゃ……」
「うふふ、よかった……あれ、それって私がブスってこと?」
木の陰で笑う彼女の姿が見えた。
彼女は自分が何をしているか分かっている。これが、彼女を自由にさせた代償だ。
「冗談きついな」
「おばあちゃんにもよく言われたわ。小さい頃から冗談好きだったって」
「へえ?」
「才能かもね」
エルザは首の後ろで手を組み、再び三匹のコウモリと戦うフユネの姿を眺めた。
驚かないのか?
まあ、十八歳だ。この狂った世界に慣れる時間は十分にあっただろう。
「エルザ、聞いてなかったな……君は何になりたいんだ? 魔法が弱いってどういうことだ? ルフェンティにはあのカードがあるだろ……」
「クンブレのカードね。あれ、私の家が作ってるの……」
「ええっ!? マジか? すげえな」
「うん、でも私はあんなことしたくない……私は、作家になりたいの」
............
彼女が書きたいと願うその世界が、俺が焦って作った『草稿』から生まれたものだなんて、どうやって言えばいい?
いや。
だからこそ俺はダメだったんだ。
俺の周りには、応援してくれる人間なんていなかった。
……いや、人がいなかったわけじゃない。俺がビビりすぎていただけだ。自分の書いたものを見せるのが、死ぬほど恥ずかしかったからだ。
文章を見せることは、自分自身を晒すこと。
そんな価値が自分にあるとは、どうしても思えなかった。
「だったら、とびきり面白いものを書いてくれよ。もちろん無料の献本で! 頼むよ、君はお金持ちなんだから……」
彼女はまた笑った。
「本当に? つまらなくても笑わないでよ」
「信じてくれ。俺に笑う資格なんてないよ」
彼女は、今まで見せたことのない笑顔を浮かべた。
その瞳には確かな光が宿っている。
これだけで彼女の家族を救えるわけじゃないのは分かっている。
だが、種は蒔いた。
今はそれだけで十分だ。
「いやっほおおおおお!」
フユネだった。
空から滑り降りてくる……巨大なコウモリをスケートボード代わりにして。
俺たちの横を通り過ぎ、数センチのところでピタリと止まった。
「ごめんねー! この子シャイで、逃げようとしたから!」
一方、ユミヅキはすでにスーツが破れていた。モンスターにやられたのではない。彼女の肉体のせいだ。
「敵、全滅!」
ああ、そうだな。
間違いなく、この世界は俺に長くシリアスな時間を過ごさせてはくれないらしい。
可哀想なコウモリ。
すまん、埋め合わせはする!
真のモンスターは、どう考えてもあの二人だ。




