第七話「星空の下の語らい」
風呂場から飛び出した俺は、まだ髪も濡れたままで、服すらまともに着ていなかった。
フユネとユミヅキが、そんな俺をジッと見ていた。
「コモリ……!」
俺は家に戻るなり、自分の部屋に閉じこもった。
どうすればいい?
何かに追われている。
一瞬、地獄の釜の底に叩き落とされたような気分になった。
今の状況を受け入れるしかなかった。
『クソ屋敷を買え!』
その言葉が頭から離れない。
なぜあそこまでして、俺にあの屋敷を買わせようとする?
もし買わなかったら、どうなる?
妻子ある男が、あんな売り方をするだろうか?
「落ち着け、コモリ……」
自分が誰なのかさえ、もう分からなくなっていた。
冷静になれるわけがない。
無理だ。
俺は部屋を出ることにした。
ドア枠のところに、フユネとユミヅキが立っていた。
二人の声が重なる。
「コモリ」
「ああ、分かってる。説明させてくれ……」
そうして、俺は身に起きたことをすべて話した。
細部まで余すことなく。
最初に口を開いたのはフユネだった。
「つまり……風呂場に『何か』が現れて、『クソ屋敷を買え! 今回はパン一個だ!』って言ったわけ?」
「ああ、そうだ。その……実際に起きたことなんだ。信じてくれとは言わないけど」
ユミヅキが小さな魔術師の前に進み出た。
「どうするの? 買う? パンなら一つ持ってるでしょ。悪くない話よ」
「そんなことするわけないだろ」
なぜ二人とも、そんなに俺に買わせたがる?
屋敷が欲しくないわけじゃない。
だが、あんなものは目立ちすぎる。
それに……もし大魔導士の仕掛けた罠だったら?
あらゆる可能性を考慮すべきだ。
二人は俺の顔を見て、ようやく口を開いた。
「了解」
「私もそれでいいと思うわ」
納得してくれたようだが、二人の顔にはどこか残念そうな色が浮かんでいた。無理もない。
屋敷を手に入れるチャンスは逃した。だが代わりに『平穏』という、もっと大事なものを守れたのだから。
「ふぅ……よかった。さて、どこまで話したっけ? ああそうだ、ユミヅキ、俺を鍛えてくれ!」
内心はまだトラウマを引きずっていたが、平静を装って言った。
「いいわよ。今すぐ庭へ。フユネを捕まえてみなさい」
小さな魔術師は、まるで跳ねるように窓から飛び出していった。
生意気な魔術師め。
それでも、俺は少し笑みをこぼした。
彼女を置いていくわけにはいかない。俺も後を追った。
◇
また一週間が過ぎた。
今は冬だ。
冬、秋、そしてまた冬。
ユミヅキの話によれば、このサイクルが数ヶ月、時には数年も続くことがあり、ある夜に突然暑さが戻ってくるらしい。
どうやら過去に熱病が流行った時期があり、この地域の高位魔術師たちが総力を挙げて無理やり酷暑の夜を作り出し、寒さを終わらせたという歴史があるようだ。
どうやら、この世界には一万年以上の歴史があるらしい……。
俺がこの世界を創ったのは、たった三年前だというのに。
あの一件以来、何も起きていない。
つまり、予想通り俺の気のせいだったのかもしれない。
統合失調症かとも疑ったが、その可能性は低くない。
あるいはもっとポジティブに考えるなら、どこかの魔術師のタチの悪い悪戯だったとか。
俺はそう解釈することにしたし、変えるつもりもない。
もし変えてしまえば、不安がもっと早く押し寄せてくるからだ。
「捕まえられるもんなら捕まえてみなさいよ!」
フユネは笑いながら攻撃を躱した。
「捕まえた!」
俺は彼女を捕らえ、押さえ込んだ。
カウントを始める。
「一……二……三……」
「ひゃっ! この変態!」
今回はその手には乗らない。
以前にも使われた手だからだ。
ユミヅキは彼女に、回避のために魔法を使っていいと言っていた。
だが、一度捕まったら終わりだ。
それなのに、彼女はウナギのように体をくねらせた。
あんな動きは今まで見たことがない。俺の腕の中をすり抜けていく感触は……刺激が強すぎた。
仕方ないだろ、男の健全な反応ってやつだ!
「そんなに長く押さえつけていられなかったわね! 変態!」
フユネめ……。
自分が何をしているのか分かっているくせに。
何か言い返そうとしたが、音に遮られた。
「はい、そこまで。休憩よ、二人とも」
ユミヅキが見えない笛を吹く真似をしていた。
以前、剣を握った時は絶望的な距離を感じていた。
だが日を重ねるごとに、俺でも何とかなるんじゃないかという気がしてきている。
もっとも、ユミヅキには「初心者未満ね」と一蹴されたが。
◇
夜が来た。
料理はユミヅキの担当だ。
彼女は料理が上手い。
そこが奇妙なのだ。
熟練の女剣士がエプロンを身につけ、寸分の狂いもなく肉や野菜を切り刻む姿は……。
まるで、兄のために完璧な目玉焼きを作ろうと奮闘する忍者のようだった。
「ユミヅキ、そこまで……」
「完璧にやる必要はない? いいえ、完璧にこなすわ」
結局、予定より一時間も多くかかってしまった。
だが、待つだけの価値はあった。
「ヤミー、これ……」
俺はシチューの味を噛み締めた。
「マジで美味い……」
彼女は驚いたように俺を見た。
「私の名前はユミヅキよ……ヤミーじゃないわ」
あ。
その瞬間、思い出した。
十四歳の頃、彼女を創った時に付けたあだ名だ。
特に独創的な理由じゃない。『闇』から取った響きと、すでにユミヅキという名前があったから、単純に適応させただけだ。
当時は、変な名前のキャラクターの方がウケがいいし、ミームになるかもしれないと思っていたのだ。
まあ、それはさておき……。
響きとしては悪くない。
夕食は完璧だった。俺は少し外に出ることにした。
ため息をつき、切り株に腰を下ろした。
涼しい風が心地よい……。
振り返ると、その風を起こしていたのはフユネだった。
「コモリさん! 一人で何してるの?」
「考え事だ」
「勇者様は一体何を考えてるの?」
「頼むからコモリって呼んでくれ。俺にそんな大層な肩書きは似合わない」
「コモリは何を考えてるの?」
ため息が出た。
彼女をあしらうのは不可能だ。
一度こうと思い込んだら、テコでも動かない。
彼女は俺の隣に座り、風を起こすのをやめた。
静寂の中、二人の呼吸音だけが響く。
「考えてたんだ……妹や、母親のことを。元気にしてるかなって。俺は家族を捨てた。最悪なことに、まるで寄生虫みたいにな。誰一人救えなかったんだ、分かるか?」
フユネは膝を抱えた。
「私だって家族を置いてきたわ……すごく後悔してるし、うん……時々、もう一度会いたいって思う。誇りに思ってくれてるかな? 優しい両親ではなかったけれど、酷い扱いはされなかった。いつも愛してくれて……」
一瞬、彼女の瞳に涙が浮かんだのが見えた。
出会ってから初めて見る、彼女の脆い姿だった。
「……今は、私のこと憎んでるかもね」
「フユネ、俺……思い出させて悪かった。お前は何も悪くない。夢を追っただけだろ?」
「そうね……。両親は、私に有名な魔術師になってほしかったみたいだから」
「じゃあ……フユネは何が怖いの?」
「死ぬこと。その夢が叶わなくなること」
俺は少しの間、夜空を見上げた。
流れ星が一つ流れていく。
「分かった。それなら……」
俺は立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。
「俺が支えになってやるよ。その杖の代わりにな」
彼女は小さく笑った。
「コモリさんじゃ、私の強力な杖の足元にも及ばないわよ」
「俺への挑戦状か?」
「杖なしの私すら捕まえられないくせに」
事実だ。
杖がなければ、彼女の魔法制御力は落ちるというのに。
「一ヶ月くれ。必ず捕まえてやる」
彼女は笑い……。
俺の手を取って立ち上がった。
だが……。
これは全部、俺のせいだ。
俺がシタガキに、フユネは夢を叶えるために家出すると書き込んだ。それが何を意味するのか、深く考えもせずに。
彼女は生まれ、育ち、人生を送ってきた。
何もないところから突然湧いて出た存在ではないのだ。
その事実が……どうにも俺の心をざわつかせた。
「上を見て……」
幼い少女の小さな声が聞こえた。
顔を上げる。
星々の間に、文字が……。
そして、あの声が……。
『屋敷……屋敷……買わなきゃダメ……
パンを壁に。先に進みたければ……
買わなければ、何かがおかしくなる……
買わなければ、始まらない……』
星座が再構築され、言葉を形作っていく。
「うっ……」
喉が詰まり、目が見開かれる。
ありえない……。
フユネの声で、俺は我に返った。
空の文字はすでに消えていた。
「どうしたの、コモリ?」
「いや……何でもない……」
何でもないわけがない。
なぜこの世界は、ここまで執拗なんだ?
なぜそこまでして、俺にあの屋敷を買わせようとする?
最悪なのは、このまま無視し続ければ、
世界がそれを許さないだろうという予感がすることだった。




