第四話「カード」
胸にのしかかる重みで目が覚めた。
まぶたを開け、自分がまだこの異世界にいることを確かめる。
元の世界では、妹が事あるごとに「カラオケ行こう」とうるさかったっけ。
あいつに言わせれば、俺はいい声をしているらしい。だが俺の持論では、声質が良いことと歌が上手いことは**別問題**だ。
……ま、今となっては、間違いなく付き合ってやるだろうけどな。
「んぅ……あついぃ……」
ふと視線を落とす。
そこには、猫のように丸まったフユネがいた。
俺の上で、すやすやと寝息を立てている。
手には杖が握られたままで、今にもベッドから滑り落ちそうだ。
「百三十四……百三十五」
「え?」
横を見ると、ユミヅキが涼しい顔で腕立て伏せをしていた。
早朝だというのに、すでに鎧を纏い、腰には愛用の三本刀。
上半身はノースリーブ一枚。引き締まった腹筋と筋肉のラインが露わになっている。
見せつけやがって。
「おはようございます、コモリさん」
「……いつから起きてたんだ?」
「二時間前からですね」
激しい運動の後だというのに、呼吸ひとつ乱れていない。
「夜明けの鍛錬は日課ですので」
「なるほど……鎧着たままかよ。いや、もうツッコむのはやめよう。それより、フユネはどうした?」
「一時間ほど前に潜り込んできました……『寒い』と言い訳してましたが、おそらく森の音に怯えたんでしょう」
「森の音? 鳥の声とかか?」
「いいえ、風切り音です」
「風の魔術師が、風を怖がるのか?」
「彼女の部族の古い言い伝えだとか。まあ、コモリさんと一緒なら安心なんでしょう」
俺は胸元のフユネを見た。
寝息を立てながら、「かぜぇ……」と訳のわからない寝言を漏らしている。
「確かに。俺も文句を言うつもりはないが」
ユミヅキは腕立て伏せをやめ、その場に座り込んでタオルで汗を拭った。
「そのうち慣れますよ。前は私の所に来てましたが、今は貴方を選んだようですし」
俺を選んだのか、単にユミヅキが起きていたからなのか。
まあ、どちらにせよ抱き心地が良いのは事実だ。
――あ、やばい。
トイレに行きたい……。
なんとか抜け出そうと身をよじるが、フユネは杖を手放し、さらにぎゅっと俺にしがみついてきた。
「あと五分ぅ……」
「フユネ、俺が窒息する……」
「あったかいぃ……」
窮地に陥った俺は、ある名案を思いついた。
「フユネ、家に熊が出たぞ!」
「ふあぁっ!? ど、どこぉおおお!?」
弾かれたように飛び起きるフユネ。
あまりの勢いに、こっちが驚くほどだ。彼女は即座に風魔法で杖を引き寄せ、眼前に突きつける。
「おおっ! 覚悟しろぉ、熊野郎……!」
俺はすかさず、その杖を取り上げた。
「う、嘘だ。熊なんていない」
「コモリぃ、そういう嘘はダメだってば……!」
分かってる。
普通なら安堵するところだろうが……。
「最高の朝になるところだったのにぃ……!」
やはり、この戦闘狂にとっては違うらしい。
◇
朝食後、少し出かけることにした。
熊の一件でまだ不貞腐れているフユネを、子供だましのような手で宥める。
「この遺跡こそ、『暴風』には最適だ!」
フユネが杖を振り上げる。だが、またしても俺はそれを取り上げた。
「もちろんダメだ」
「えぇ? なんでぇ?」
「某・爆裂魔法使いも似たようなことをして、ろくな結末にならなかったからな」
「某・魔法使い?」
「関係ない。とにかく『NO』だ」
フユネはぷくっと頬を膨らませる。
「じゃあ、どこならいいのよ! アタシは特訓がしたいの!」
「すまんが塔を壊されるのは困る」
「だったら……森?」
「却下。生き物がいる。俺の運だと、絶滅危惧種に当てちまいそうだ……」
「じゃあ、どこで特訓しろって言うのよ!?」
しばし思案する。
開けた場所が必要だ。国際問題も、地域紛争も、いかなるトラブルも引き起こさない場所。
「……海なんてどうだ?」
「……うみ?」
言った瞬間、後悔した。
まさか海も怖いとか言わないよな?
「コモリ、それだよ……!」
彼女の瞳がキラリと輝いた。
「行こう!」
「待て、近くにあるのか? 適当に言っただけなんだが……」
「もちろん!」
そこでユミヅキが補足する。
「歩いて十五分といったところですね」
「了解」
「馬車ならもっと早いです」
「了解」
「何より、酒を飲むには最高の場所かと」
「はぁっ!?」
◇
海は本当に、歩いて十五分の距離にあった。
北側の村外れを抜け、作物が植わっているはずの空き地を横切る。
すると、唐突にそれは現れた。
海だ。
遠くでは鯨が潮を吹き、白い砂浜にはパラソルと無人のデッキチェアが並んでいる。
正直……中世風の世界観と現代的なリゾート地のミスマッチなど、どうでもよかった。
ただ、目の前の光景が美しかったからだ。
波打ち際へ向かい、足を浸す。
奇妙な感触だった。
なんというか――掃除の行き届いたプールに入ったような、そんな感覚だ。
「最高っ! 喉カラカラだったの!」
「フユネ……水筒ならデッキチェアに置いてきたぞ」
俺の忠告など聞こえていないらしく、彼女はその場に膝をつく。
両手を水に突っ込み、あろうことか掬い上げた水を一気に煽った。
「んんっ、生き返るぅ!」
「おい待て! 何やってんだ!?」
俺は慌てて駆け寄った。
「海水だぞ! しょっぱいだろ! 脱水症状になるぞ!」
だが、フユネはきょとんとして俺を見上げた。
「しょっぱい? 何言ってるの?」
俺も恐る恐る手を浸し、その水を舐めてみる。
……完全に真水だ。
それも、飲用可能なレベルの。
「ここ……海だよな?」
遠くに見える鯨を指差す。
「海洋生物もいる。波もある。なのに……」
「うん、『ムーセアノ』だよ? なんでしょっぱいと思ったの?」
フユネはまるで、頭のおかしい人を見るような目で俺を見ていた。
俺は目を閉じ、十まで数える。
浸透圧で鯨は死ぬはずだ。
だが目を開ければ、彼らは幸せそうに泳いでいるし、魚たちも元気に跳ねている。
どうやら生物学は、この会話からログアウトしたらしい。
「分かった。真水の海なんだな。いいぞフユネ、魔法の練習をしてこい」
「はーい!」
フユネはユミヅキの元へ駆けていった。
俺は裸足になり、砂浜を歩くことにした。
正直、そうでもして現実逃避しないと正気を保てそうになかった。
「俺がおかしいのか……?」
海が塩水でないから何だというのだ。
海流が生態系を支配していようが、現に生物が生きているなら、そういう理屈で回っている世界なのだろう。
たぶん。
その時、足の裏に違和感を覚えた。
「ん?」
厚紙……?
足をどけると、そこには一枚のカードが落ちていた。
工作で使うような画用紙のカードだ。角は折れ曲がり、古いコーヒーの染みのような汚れがついている。
拾い上げてみる。
「なんだこれ……『誕生日プレゼント用魔道具』?」
振ってみる。
何も起きない。
ふーっと息を吹きかけてみる。
やはり何も起きない。
その瞬間だった。
目の前にテキストウィンドウが浮かび上がり、竜巻のような棒人間と……『顔』のようなものが実体化した。
『魔法発見:風』
「え、えっ? いや、俺は……」
『吸収中……』
奇妙なエネルギーが全身を駆け巡る。
『風魔法:【拡声】レベル1』
『新たな力をお楽しみください、バースデーボーイ! あ、それと、もっとご入り用ならルフェンティの当店までお越しを……』
その言葉を残し、謎の存在は劇的に消滅した。
手の中のカードも、それと同時に消え失せていた。
あぁ。
これが、いわゆる『マジックアイテム』ってやつか。
「はは……最高だ。完璧すぎる。で、『拡声』って具体的に何ができるんだ? 名前の通りだとは思うが……」
使い方は分からなかったが、本能的に理解できていた。
「あー」
普通に言ってみる。
「んん……」
もう一度試すが、特に変化はない。
「フユネに聞いてみるか。大声を出して何の役に立つんだ? 戦闘指揮か? 遠くの敵を威嚇するためか? 口喧嘩に勝つため? それともカラオケ用か?」
正直、初めて覚えた魔法にしては、あまりにガッカリな性能だった。
◇
それから十分が過ぎても、俺はまだ物思いに耽っていた。
海の方から聞こえた声が、思考を中断させる。
「コモリさーん!」
フユネが呼んでいる。
「これ見ててー!」
彼女は大仰な仕草で杖を掲げた。
「おぉ……」
あいつはいつも「おぉ」から始めないと気が済まないのか?
「風の精霊よ! プリーズ! 呼ばれた時に精霊がやるような、なんか凄いことをして! 意地悪しないで! いつものように風のトライデントを形成せよ! そして何か重要なものを貫け! 海王の三叉槍、超強力な一撃! バージョン1!」
……何も起きない。
「あ、いっけなーい……『おねがい』忘れてた」
彼女は杖を突き出す。
「おねがいっ、ヴェンテターのエレネオラ様!」
――ドォォォォォン!!
海に向かって放たれた三叉槍は、巨大な高波を巻き起こし、浜辺にいた俺たちを頭から飲み込んだ。
ずぶ濡れになった俺は、恨めしげに彼女を睨んだ。
「フユネ……」
「な、なによっ!? 水が怖いの!?」
「それは……もういい。それより、『ヴェンテターのエレネオラ』ってなんだ?」
「女の人……伝説の魔女だよ。呪文を間違えても、『おねがい』って言えばなぜか魔法が発動したっていう」
「なるほど。だとしたら、素晴らしい再現度だ」
これ以上聞くのはやめておこう。
少なくとも、威力だけは申し分なかった。
◇
結果として、フユネの一撃は太古の怪物を葬り去っていたらしい。
通称『海チュパカブラ』。
おかげで、村人たちは「海のヤギ」をさらわれずに済むようになったそうだ。
報酬として、俺たちはパンを二斤もらった。
それと、俺がこっちの世界に来た時持っていたスーパーの袋より、遥かにパンを新鮮に保てる魔法の袋も。
だが、一つだけ気がかりなことがあった。
山脈の上に浮かぶ、あの心臓。
時折、その鼓動が不安定になるのだ。
あれは一体、何の予兆なんだろうか。




