第二話「 カエルは想像と違いました。」
沼地。
この世界において、比較的まともな生態系が残る数少ない場所の一つだ。
ここでは『ジャイアント・フロッグ』が食物連鎖の頂点に君臨し、巨大昆虫たちを捕食している。
だが――入り口の看板には書かれていない『真実』があった。
俺は、圧倒されていた。
臭気にではない。
むしろ、**臭いが“ない”こと**にだ。
普通なら、澱んだ水や泥の腐敗臭を覚悟するだろう。
だが、ここにはそんなものは一切ない。
それどころか――まるで咲き誇る花々のような、芳しい香りが漂っているのだ。
「嘘だろ……」
奴らは、そこにいた。
俺の目の前に。
ジャイアント・フロッグたちが。
……デカい。
優に小型車くらいのサイズはある。
緑色の皮膚には茶と黄の不気味な斑点が浮かび、飛び出した巨大な眼球が、じっと俺を見据えていた。
その眼差しは、絶対的な無関心そのものだ。
だが、問題はそこじゃない。
奴らは人を食わない。もっと深刻な問題があった。
動かないのだ。
いや、正確には動いている。
だが、その速度はカタツムリも裸足で逃げ出すレベルだった。
俺は好奇心に駆られ、警戒しつつ近づいてみた。
胸がゆっくりと上下している。呼吸はしているようだ。
だが、足は……。
一ミリたりとも動いていない。
カエルの背後には、泥を引きずった跡が残っていた。
(おいおい、まさか……な?)
俺の『常識』が囁く。
(そのまさかだ)
俺の『論理』が答える。
カエルのくせに、跳べないのだ。
おそらく、執筆当時の俺が「巨大なカエル」とだけ設定し、バイオメカニクス(生体工学)を完全に無視したせいだろう。
その結果、この世界は必死の帳尻合わせを行い、奴らを『這いずるモノ』へと進化させてしまったらしい。
最も近くにいた個体が、動こうとするのを観察した。
前足を出す。
重そうな胴体を、必死に引きずる。
そして、もう片方の足。
たかだか五センチ進むのに、三十秒も要していた。
これまでの人生で見た中で、最も哀れな光景だった。
――俺は、こんなのを二匹も狩らなきゃならないのか?
手近な岩に腰を下ろし、沼地を這いずり回る哀れなカエルを眺めながら、俺は物思いに耽った。
カエルがこれなら、あの頃の俺の無限の愚かさが生み出した、他の巨大生物たちはどうなっているんだ?
……深く考えるのはよそう。
まずは、目の前の現実だ。
武器なしで、どうやってこの小型車サイズの『定義上は生きているが、植物より動かないモノ』を殺せばいい?
それに、そもそも。
なぜこれが冒険者への依頼になっている?
無害だし、害虫を食ってくれる益獣じゃないか。
殺す理由なんてどこにもない。
俺は深いため息をついた。
そこらに落ちていた太い枝を拾い、カエルに歩み寄る。
「悪いな、相棒。お互い、なんとも情けない役回りを引いちまったようだ」
カエルは、その飛び出た目で俺を見た。
相変わらず、無関心なままだ。
ポカッ。
俺は枝でカエルを叩いた。
……何も起きない。
「え、俺……」
カエルは「OK」とでも言いたげな表情で俺を見つめ返した。
少なくとも、そう見えた。
次の瞬間。
チュドォォォォォン!!
◇
ギルドに戻った。
現在の俺のステータス――。
頭のてっぺんからつま先まで、カエルの粘液まみれ。
いや、『まみれ』という言葉では生ぬるい。
化学的にも物理的にも大惨事としか言いようがない、**悪臭を放つ半透明のゼリー状物質**に、全身をラッピングされていた。
髪から、服から、ブーツから。ネバネバとした雫がしたたり落ちる。
そして、枝にぶら下げた二つの眼球。
直に触りたくなかったので串刺しにしたのだが、サッカーボールサイズの眼球はまだ湿り気を帯びており、死んだ魚のような虚ろな瞳で俺を非難していた。
ギルドに入ると、人々が波が引くように避けていく。
無理もない。
「……何があったんだ?」
ベテラン風の冒険者が、あと三歩後ずさりながら尋ねてきた。
「カエルですよ。爆発したんです。文字通り」
「爆発?」
「ええ。棒で叩いたら爆発したんです。パンパンに膨らんだ風船みたいに……結果がこれです」
俺は自分の悲惨な姿を指差した。
男はパチクリと瞬きをした。
「ああ、なるほど。だから依頼が出されてるのか。掃除が面倒だから」
危険だからでも、技術が必要だからでもない。
ただ単に、汚れるから。
俺は諦観と共に受付へと歩を進めた。白い大理石の床に、粘液の道を作りながら。
さっきの『仮置き(プレースホルダー)』の受付嬢はいなかった。
代わりにいたのは、『本実装』された顔を持つ別の女性だ。
同じ胸元の開いた制服を着ているが、赤い髪をポニーテールにし、緑色の瞳を輝かせ、明るい笑顔を浮かべている。
ただし、瞬きの回数が不気味なほど少ない。
そして前の奴とは違い、声が聞こえた。
「こんにちは!」
背筋が寒くなるほど明るい声だ。
「依頼は完了しましたか?」
「ああ」
ベチャッ。
俺は二つの眼球をカウンターに置いた。
「カエル二匹。死亡確認。爆散済み。これが証拠だ」
彼女は目を見た。俺を見た。また目を見た。
「んー。オッケーです!」
頷いた。それだけだ。
俺は待った。
彼女は笑顔のまま、瞬きもせずに俺を見つめ続けている。
「……で?」
「……?」
「パンだ。俺のパン半分は……」
「パン?」
俺は彼女をじっと見た。
「パンだよ。ジャイアント・フロッグ討伐の報酬だ」
「ああ! パンはシステムに登録された冒険者様用です。あなたは登録されていませんから」
脳内で何かが切れる音がした。
「登録されてないって、どういうことだ?」
俺は冒険者カードをカウンターに叩きつけた。
「あらあら……変わった子ですねぇ」
彼女は小鳥のように首を傾げた。
「さあ、登録のために苗字を教えてください。そうすれば、次の依頼からパンがもらえますよ」
待て。待て待て待て……。
俺はこめかみを押さえた。
額からカエル汁がツーッと垂れてくる。
「じゃあ、このカエル狩りは何だったんだ? 試験か?」
「正解です! ギルドメンバーになるには、メンバー用クエストをクリアする必要があります。論理的でしょう?」
「だが……メンバー用クエストを受けるには、まずメンバーでなきゃならないはずじゃ……」
その循環論法を前に、俺の理性が崩壊していくのを感じた。
「その通りです」
「じゃあ……どうやって登録すればいいんだ?」
「メンバー用クエストをクリアすればいいだけですよ。論理的でしょう?」
彼女は、こいつバカなのか? という目で俺を見てきた。
「本当に変わった子ですね」
俺? 俺が変なのか?
いや……彼女の視点からすれば、存在しない論理を疑う俺の方が狂人なのかもしれない。
「分かった。俺の苗字は……」
一瞬考えた。ヒキコモリ……コモリ……何か似た響きで……これだ。
「コモリ・アキヒコだ」
「アキヒコ、ですね?」
音を確認するように彼女は復唱した。
「了解しました」
突然、天井から風船が降ってきた。
「ようこそ、大英雄様! これにてコモリ様は、正式に冒険者ギルドの一員です! 良き冒険を!」
「は……? 大英雄……?」
ああ、なるほど。
俺がプロットに書いた『転生勇者』ってのは、俺のことだったのか。
整合性が取れすぎていて涙が出るぜ。
俺はなんとか平静を装った。
「最高だ。完璧だよ……風呂はあるか? 俺は……」
俺は自分のみじめな現状を漠然と指差した。
「こいつを何とかしたいんだ」
「はい! 廊下の突き当たり、左手にシャワーがあります!」
「シャワー? シャワーが機能してるのか? この中世風の世界で?」
「もちろんです! 蛇口をひねれば魔法のお湯が出ますよ。ご存知なかったですか?」
整理しよう。
人々はあばら屋に住み、パンが城より高いこの村に、魔法給湯システム付きのシャワーがある。
頭に浮かんだのは、ただ一言。
――俺は一体、どんな設定を書いたんだ?
「あ、料金はパン一斤の八分の一です。もしくは、パン一斤の四分の一で二年間使い放題のサブスクリプション契約も可能ですよ」
俺は手の中にある、国家予算並みの価値を持つパン切れを見た。そして、自分の生物学的緊急事態(この汚れ)を見た。
「ほらよ。四分の一だ。二年契約で頼む」
渡す前に、念のため尋ねた。
「他には? 何か特典はついてくるのか?」
「はい! 大したものじゃありませんが、レンタル浴室にはシャワーの他に浴槽、水洗トイレ、ヘアケア製品、石鹸(別売り)、タオルが完備されています。さらに初回契約時には、冒険者用の着替えセットをプレゼント中です!」
「それだけ?」
「申し訳ありません……」
「え? いやいや、十分すぎる。完璧だ」
もうツッコむのはやめた。
少なくとも、衛生面での懸念が消えたことを喜ぶべきだ。
三階にある浴室は、馬鹿げているほど豪華だった。
磨き上げられたセラミックタイル。
ピカピカに輝く銅の配管。
トイレはあまりに快適そうで、間違いなく俺の『玉座』になるだろう。
シャワーの蛇口をひねると、完璧な水圧でお湯がほとばしる。
棚にはタオルと、ラベンダーの香りがする石鹸があった。
待て、別売りじゃなかったのか? まあいい、あるなら使う。
ああ、一点の曇りもない巨大な鏡まである。
シャワーの横には清潔な服が置かれていた。
黒い布のズボン、白いリネンのシャツ、そして軽い革のジャケット。
サイズは俺の身長、166センチにぴったりだ。
このボロいギルドの中に五つ星スパがある一方で、村人たちは家畜もいないのに革を売って暮らしている。狂っている。
「……待てよ」
鏡に近づいた俺は、自分の変化に気がついた。
黒髪。
主人公特有の、額にかかる無造作な髪型。
空のように青い瞳。
体は細身だが筋肉質で引き締まり、肌は滑らかで白い。
要するに……イケメンだ。
「これが……俺?」
顎に触れ、頬を撫で、髪をかき上げる。
別人だ。
ついでに言えば、眼鏡もないのに視界がくっきりとしている。
どうやら俺は、自分専用の『改良版』を手に入れたらしい。
◇
異世界での初風呂。
その体験を一言で表すなら、まさに『拷問』だった。
二十分以上はかけただろうか。
あの忌々しいスライムの粘液を、一滴たりとも残したくはなかった。皮膚が赤くなるほど体をこすり、ようやく全ての汚れを落としきった俺は、新しい服に袖を通す。
チクチクするかと身構えていたが、意外にも肌触りは滑らかで悪くない。
ようやく人としての尊厳を取り戻した俺は、ロビーへと戻った。
クエストボードの前に立つと、依頼書のリストが更新されていた。
張り紙の内容が、まるで魔法のように書き換わっている。
【F:『永遠の死の森』への隊商護衛】
報酬:パン1個
またそのふざけたネーミングセンスか。
【F:呪われた地下室の異音調査】
報酬:パン3/4個
【F:町長庭園での花摘み】
報酬:パン2個
……パン2個? ただの花摘みで?
家が六軒は買える額だぞ。
俺は迷わず、花摘みの依頼書をむしり取った。
ようやく死の危険がなさそうな依頼だ。しかも報酬は破格。
経済的な恩恵による目がくらむような幸福感で胸を満たし、俺はカウンターへ戻って紙を差し出した。
「これにする」
彼女はゆっくりと瞬きをした。
「無理です」
「……無理?」
これ以上、まだ何かあるのか?
「パーティーを結成していない場合、依頼を受注することはできません。規則ですので」
俺は彼女の真似をして、ゆっくりと瞬きを返した。
「は?」
「規則は絶対です。ソロでの依頼受注は不可能です」
「……」
「最低二人。そういう仕様になっています」
「おい、ちょっと待ってくれ……さっき依頼を達成したばかりだぞ。一人で。あの爆発するカエルのやつだ。あの時は何も言わなかったじゃないか」
「あれは登録用のチュートリアル・クエストです。正規の依頼を受注するには、パーティーへの所属が義務付けられています」
「……ガイドブックには一言も書いてなかったが」
「書いていませんでしたか? まあ、なんという偶然でしょう」
「偶然で済ませるな……」
俺は依頼書を握りしめたまま、その場に立ち尽くした。
残っていたわずかな理性が蒸発していくのを感じる。
「……わかった。で、そのパーティーとやらはどこで見つければいい?」
「メンバー募集用の掲示板なら、あちらに」
彼女がロビーの壁を指差す。
誓ってもいいが、さっきまでそこに壁なんてなかったはずだ。
「……何も貼ってないぞ」
「なら、ご自身で貼ってください」
渡されたのは紙切れ一枚と、一本の木炭。
俺は観念して、殴り書きした。
『パーティーメンバー募集。誰でもいい。頼む。マジで誰でもいい』
他に選択肢があるか?
仕事は簡単な『ただの花摘み』で、報酬は『パン2個』だ。
この好条件を断るような馬鹿はいないだろう。
◇
あれからどれくらいの時間が経っただろうか。二十分? それとも一時間か?
テーブルの上の日時計が、イライラするほど遅い速度で進んでいる。
誰もあの扉を開けようとしない。時折入ってくるのは、トイレを借りに来る老人くらいだ。
それ以外は、何もない。
ちなみにこの日時計、上部にビー玉サイズの『ミニ太陽』が浮いている。熱は発しないが、受付嬢いわく「直視すると眼球が乾燥してダメージを受けます」とのことだ。
太陽の力をビー玉サイズに圧縮して『外光をシミュレート』しているのか?
それとも、屋内で時間を知るためだけに、わざわざ本物の太陽を模倣する魔法を開発したのか?
もっと重要なことがあるだろう。
普通に歯車を使った時計を作ればいいじゃないか。
どう考えても、その方が簡単だ。
俺が諦めて、あの恥ずかしい募集の紙を剥がそうとした、ちょうどその時だった。
バーーン!!
ギルドの扉が、不必要なほどドラマチックな轟音と共に開け放たれた。
同時に、どこからともなく不自然な突風が室内へと吹き荒れる。
入ってきたのは、二人の女だった。
一人は、身長一メートル五十そこそこ。
プラチナブロンドの髪を、躍動感あふれるツインテールに結っている。
白と空色を基調としたフリル付きの魔道衣ローブを纏い、肩にはフード付きの短いケープ。革のベルトには大きな青い花の装飾があり、スカートの裾には雲の模様があしらわれていた。
自分の身長ほどもある杖を握りしめ、その瞳はエメラルド、あるいはそれに酷似した色を湛えている。
もう一人は長身の女だ。一メートル八十はあるだろう。
腰まで届く長い黒髪。
腰には三本の剣を帯びている。
服装は漆黒で統一され、所々に赤い刺繍が施されていた。胸元の鎧が独自の光を放っている。
装備の重量は、隣の小さな魔法使いの比ではないだろう。
まあ、俺も小柄な方だが……。
「我が名はフユネ! 風の魔法使い……風魔法に特化した者なり!」
彼女は劇的な「タメ」を作った。
「……否! 我は『厄災カタストロフィの魔法』の使い手!」
ビシッと勝利のポーズを決めると、先ほどまで吹いていた風が、彼女の髪とローブを芝居がかった動きではためかせた……自分でやってるのか、あれ。
そして、もう一人の女は……。
「――ユミヅキ。戦士だ」
言ったのはそれだけ。
その名前を聞いた瞬間、俺は全てを悟った。
そして、ある絶対的な確信を抱いた。
この出会いは、ろくなことにならない。




