第九話「その声」
エルザ・ミラー。
彼女の存在は、俺にとって最大の誤算だった。
出会う前は、いかにも傲慢な令嬢だろうと思っていた。
煌びやかな宝石に、豪奢な馬車、肘まである長ったらしい手袋。
周囲の噂も、その最悪の可能性を裏付けていたからだ。
だが、実際に顔を合わせて、俺の先入観はあっさりと崩れ去った。
美しかった。
外見はもちろん、その心根までもが。
彼女は、父親を安心させるためだけに、本当の自分を押し殺して生きていたのだ。
一度だけ、少しその身の上話を聞いたことがある。
父親は過去に二人の子供を亡くしているらしい。
産後ではない。出産の最中にだ。
その悲劇は彼を絶望の淵に突き落とし、結果として、エルザが生まれた時、彼は「この子にはありとあらゆる庇護を与えなければならない」という強迫観念に囚われてしまった。
では、その「庇護」とは何か?
揺るぎない地位。
有り余るほどの金。
そして、四六時中つきまとう監視の目だ。
当然だが、彼女はそんなものを微塵も求めていなかった。
彼女が求めていたのは、血が沸き立つようなアドレナリン。
フユネがやっているように、巨大コウモリの背に乗って飛び回るようなスリルこそ、彼女は心底楽しむに違いない。
全く、この異世界でまともな人間に出会うことは、一生なさそうだ……。
「まあ、これで一件落着か」
東の空が、白み始めている。
言っておくが、昨夜の宴は一晩中続いたのだ。
よくここまで耐えたものだと自分でも感心する。だが、彼女と話している間、俺の時間感覚が完全に麻痺していたのも事実だった。
もちろん、後でドッと疲れが押し寄せて後悔するのは目に見えている。
あーあ……未来の俺、よろしく頼むぜ。
隣に視線を落とす。
エルザが眠っていた。その寝相はお世辞にも上品とは言えず、極度の疲労が、彼女から令嬢としての体裁を完全に奪い去ったかのようだった。
そもそも、彼女は淑女なんかではないし、そうあろうとしたこともなかった。
「エルザ……ほら、起きろ……」
結局、彼女の両親は一度も迎えに来なかった。
フユネを館の中へ偵察に行かせたところ、二人は広間の椅子で仲良く眠りこけていたそうだ。
衛兵の話によれば、両親は娘の帰りを起きて待つと豪語していたらしいが……無念にも睡魔に敗北したというわけだ。
だが、少なくとも逃げずに待っていたのだから、良しとすべきだろう。
「エルザ……起きるんだ……」
「あと五分……にゃあ……」
は? にゃあ?
「エルザ、頼むから。俺だって休みたいんだ……護衛の仕事はもう終わっただろ」
「うーん……わかったわ。じゃあ、運んで。お願い……」
深くため息をつき、俺は彼女を抱き上げた。
いわゆる、お姫様抱っこだ。
「勘違いしないでよね、この変態……」
そう毒づきながら、彼女は俺の首にしっかりと腕を回してきた。
「俺には規律というものがありますからね、エルザお嬢様」
「じゃあ、もし……」
「ダメだ」
「ノリが悪いわね」
「俺は実利主義なんだ。君の悪戯なんてお見通しだ」
彼女は俺の腕から、ぴょんと飛び降りた。
「あなたって、変わってるって言われない?」
「しょっちゅうな」
「変人だとも?」
「何度もある」
「可愛いとも?」
「いや……それはないな」
「そう。私も言うつもりはなかったわ」
「エルザ!」
彼女はからからと笑い声を残し、屋敷の中へと走っていってしまった。
全く、手の焼ける奴だ。
悪戯好きのナンバーワン。
それでも……。
俺は、思わず小さく笑ってしまった。
◇
別れの時は、お世辞にも平和とは言えなかった。
エルザの父親は、あからさまな不快感を隠すことなく俺を睨みつけている。
専属の執事ですら、眉を吊り上げ、沈黙のまま俺を上から下まで値踏みしていた。
「コモリ様」
俺を敬称で呼んだのは、彼女の母親だった。
この場で唯一、俺に好意的な目を向けてくれている人物だ。
もちろん、エルザを除いての話だが。当のエルザは、潤んだ瞳で俺を見つめていた。
「二人が二十歳になったら、娘に求婚してもよろしくてよ。まだ少し早いですけれどね? でも、他人の父親に真っ向から盾突くような勇敢な男は、そうそうおりませんもの」
背筋が凍る。
そうだ、予想できたはずだ。
ラノベの定番設定――ヒロインを救った男には「結婚」という名のフラグが立つ。
あるいは、当事者の意志を無視して勝手に縁談を進める「暴走気味な母親」というテンプレか。
「ご心配なく、俺は彼女にそんなつもりは――」
彼女は遠慮の欠片もなく、俺の唇に指を当てた。
「シーッ……。あなたは奥手で、いざという時には勇敢。とても良い組み合わせだわ」
彼女は、全ては既に決定事項だと言わんばかりに、穏やかな笑みを浮かべた。
「お母様、彼を困らせないで!」
「あら? 私とお父様だって、最初はこんな風に始まったのよ……」
母の表情が、ふっと曇った。
浮かべていた笑みが消え、急に何かの記憶に引き戻されたかのように。
きっと、亡くした子供たちのことを思い出したのだろう。
彼女はそっと口元に手を当てた。
「エルザ……あなた、本当にそんなに辛かったの?」
「お母様、私は……」
「いいえ……辛かったのよね。赤ん坊の頃から、文字を読むことを強いられて。私は反対したけれど、あの人はいつもあなたの前に本を置いて、語りかけていた。あなたが興味津々に見つめるものだから……あの人も、義務感に駆られて……」
「お母様のせいじゃないわ」
「いいえ、止められたはずよ。どうしてあんなに盲目になっていたのかしら。気づいていたのに……子供たちを失ったのは自分のせいだという罪悪感で、私は自分を正当化していたのね……」
エルザは母を強く抱きしめ、その懺悔の言葉を封じた。
「お母様のこと、嫌いになんてなれないわ」
「でも、エルザ――」
「シーッ。今度は私が黙らせる番よ。こっそり塗り絵の本を持ってきてくれたこと、忘れたの?」
そうして、母娘の和解の時間が始まった。
俺は少し距離を置くことにした。
フユネが驚いたような顔で俺を見ていた。
一方のユミヅキは、目を閉じて静かに頷いているだけだった。
「いつもそうなのですか、コモリさん?」
フユネが隣に座りながら尋ねてきた。
「『そう』って?」
「いつもそうやって……人の心を探り当てて、前を向かせてあげるのですか?」
「俺が……?」
「はい。私にしてくれたように……」
「フユネ?」
「あなたに出会う前、私は誰にも相手にされないと思っていました。ユミヅキは別ですけど、彼女は姉のようなものですから。それ以外の人には……年齢の割にウザくて、馬鹿みたいに子供っぽい奴だって、そう思われていると」
フユネには、時々こういう瞬間がある。
いつもの元気いっぱいの魔法使いではなく、物思いに沈み、メランコリックになる瞬間だ。
不思議なことに、それは俺の前でしか見せない姿だった。
「待ってくれ……フユネって、いくつだっけ?」
「十八歳です」
「はあ!? 俺より一つ年上かよ!?」
彼女はこくりと頷いた。
落ち着け、コモリ。
深呼吸だ。
「なんで今まで言わなかったんだ?」
「必要ないと思ったので……」
「じゃあ、なんで今は言ったんだよ?」
「今は、必要だからです」
「そりゃ、理屈だが……」
背後で、ユミヅキがクスリと笑った気配がした。
あいつ、知ってたな。
俺は振り返り、彼女を直視した。
「どうかされましたか、コモリさん?」
「お前は、いくつだ?」
「十六です」
「あー……なるほどね」
三人の中で最も有能なメンバー。
凄腕の剣士にして、料理人。
身体能力も一番高い。
そんな彼女が、俺より一つ年下。
だが、最悪なのはそこじゃない。
最悪なのは、年下の彼女のほうが、俺より十六センチも身長が高いという事実だ。
「もういい、帰るぞ。俺は寝たい」
俺たちは既に、ライ麦パンが二つ入った袋を持っていた。
愛しい報酬に頬ずりしそうになったが、なんとか踏みとどまった。
普通のパンより頑丈とはいえ、パンはパンだ。
苦労して稼いだ報酬を台無しにするわけにはいかない。
「コモリさん、待って!」
駆け寄ってきたエルザが叫んだ。
「そんなに大声を出さなくても……」
「いいの。どうしてもお礼が言いたくて」
「俺は何もしてない。決断したのは君自身だ――」
彼女の母親がしたように、エルザもまた、俺の唇に指を当てた。
「シーッ……お礼くらい言わせてよ。あなたって、本当に変な人ね。……でも、いい意味で変よ」
「それって褒めてるのか? 貶してるのか?」
「貶してるに決まってるでしょ。でも、だからこそ素敵なのよ」
「はいはい。ありがとう……本当に、ありがとうな、エルザ」
彼女は、不意打ちのような行動に出た。
俺の頬にキスをして、悪戯っぽくウィンクをしたのだ。
そして、顔を真っ赤にして素早く馬車に乗り込んだ。
俺はどうすればよかったんだ?
俺の中の童貞が、「今すぐ馬車に飛び乗って結婚を申し込め!」と叫んでいた。
だが、理性がそれはナンセンスだと告げている。
幸せになれるかどうかもわからない未来のために、今の仲間を見捨てるのか?
俺にはまだ、経験しなければならないことが山ほどある。
未熟すぎる。
長い間、閉じこもって生きてきた代償だ。
今こそ……。
殻を破る時だ。
それに、彼女たちがそばにいてくれると、なんだか安心できた。
そう、ただの自己防衛だ……。
ただの保身だ。
誓って言うが、他意はない!
◇
一週間が経っても、エルザの不在による喪失感は消えなかった。
理由はよくわからない。
たった一晩、一緒に過ごしただけなのに!
それでも、俺は彼女を良き友人のように慕っていた!
ただ、彼女が無事であることを祈るしかない。
すべてが良くなるとは約束できなかったが、少なくとも種は蒔いた。
その種が芽吹けば……彼女も自分自身の生きる道を見つけられるはずだ。
あれ? 俺、妙に哲学的になってないか?
最近、どうもこういうことが多い。
それに、クソ寒い。
物理的な意味でだ。
再び雪が降り始めていたのだ。
ユミヅキの奴、俺に半ズボンと薄いシャツ一枚を強要しやがって。
だが、初めてこの異世界で冬を越した時とは違い、今の俺はすっかり慣れていた。
順応した、とでも言うべきか。
この体、なかなか悪くない……。
正直言って、結構気に入っている。
「コモリィィィィィィサァァァァァァァン!!」
悲鳴のような声に、俺は思考から引き戻された。
「どうした!? なんで叫んでるんだ!?」
「だって、私……あそこに……急に全てが早くなって……」
「またターズさんの豚に魔法を当てたのか!? 気をつけろって言っただろ!」
「違います、それは朝の話です! なんか、嫌な予感がするんです!」
彼女の疑問に答えたのは、世界そのものだった。
突如として、空全体が赤黒く染まった。
ドクン、ドクンと鼓動していた魔力の球体が停止する。
そして、俺たちを吹き飛ばさんばかりの暴風が巻き起こった。
冷静さを保とうとしたが、全くの無駄だった。
風の魔法使いであるはずのフユネが、恐怖のあまり地面にへたり込み、俺の足にしがみついている。彼女のレベルなら余裕で耐えられるはずの風なのに、だ。その異常さが、俺を硬直状態から引きずり出した。
「テメェエエエエエエ!!」
天から巨大な指が現れ、真っ直ぐに俺を指差した。
……は? 何だこれ?
「いい加減、優しく頼むのにも限界がある! 今すぐ! あの屋敷を買ええええええ!!」
あー。
あの屋敷ね。
またその話かよ?
「なんでそんなに、俺にあの屋敷を買わせたいんだよ!?」
俺は見上げた……が、どこを見ればいいのかわからなかった。
顔が見えないのだ。
とりあえず、その手に向かって叫んでみる。
「お願いします、コモリさん……あの屋敷を買ってください……」
俺の足にしがみついたまま、フユネが懇願した。
時間を止めるほどの力を持つ得体の知れない神の取引に、俺は応じるべきなのだろうか……不動産売買なんていう、極めて世俗的な案件のために?
「うーん……」
「お願いします、コモリさん……風の魔法使いとして、この魔力には敏感なんです。こんなの知りません……お願いだから……屋敷を……」
フユネの抱擁の力が強まる。
空を見上げる。
赤みは増すばかり。
風の勢いも強くなっている。
俺は大きく息を吐いた。
「わかったよ! 買えばいいんだろ、買えば! その代わり、買ったら二度と俺に構うなよ!」
瞬きをした瞬間……世界は元通りになっていた。
巨大な手は消え去り、
ひび割れていた地面も、根こそぎ抜けていた木々も、何事もなかったかのように修復されていた。
「はっ! 残念だったな、俺はその屋敷の場所を知らな――」
ペシッ。
一枚の木の葉が、俺の顔面に張り付いた。
『システム・ノート:
当該の屋敷は、沈黙の森の北部に位置しています』
マジかよ……。
今俺たちがいる、この森じゃねえか。
『アーチボルドという名の老人が応対します。
彼はとても親切な人物ですので、丁重に扱うようにお願いします』
俺はドラマチックな溜息とともに、その葉っぱを地面に落とした。
世界がどうしても俺にあの屋敷を買わせたいって言うなら、買ってやるよ。




