第四話『肝試しの夜、トラも一緒に』
動物病院の待合室は、外の熱気が嘘のようにひんやりしていた。ガラス越しに見える真夏の陽射しは白くまぶしく、耳の奥にはまだセミの声が残響している。漂う消毒液のにおいと、カチャカチャとケージの金属が触れ合う音が、いつもとは違う世界に来たような気持ちにさせた。
アラタとハルトは、ベンチに座り込むケンタの両隣に並んでいた。ケンタの腕の中にはタオルにくるまれたトラ。小さな体はかすかに震え、目はとろんとしている。ケンタは何度もその頭をなで、頬を寄せた。
「トラ……大丈夫や。もうすぐ先生が見てくれるからな」
声は震えていた。アラタはそんなケンタの横顔を見つめ、胸がきゅっと締めつけられた。自分も不安でいっぱいなのに、言葉が出てこない。
ハルトは落ち着かない様子で足を小刻みに動かし、何度もチラチラとトラを見た。
「……ほんまに助かるんやろな」
「助かる。絶対助ける」
アラタが強く言い切ると、ハルトは少しうなずいた。三人の手にはうっすら汗がにじみ、緊張で呼吸が浅くなる。
名前を呼ばれ、三人は同時に立ち上がった。診察室の扉を開けると、白い壁とライトの下、優しそうな先生が迎えてくれた。先生はそっとトラを受け取り、指先で体をなでるように触診する。冷たい聴診器が小さな体に触れるたび、ケンタは思わず息をのんだ。
「よく連れてきてくれたね。えらいな、みんな」
その言葉が胸に染みわたり、重く沈んでいた心が少し軽くなる。三人はほっとしたように視線を交わした。
「膿んでいるけど、深い傷じゃないから大丈夫だよ。よく頑張ったね、トラ」
「ほ、ほんまに……?」
ケンタの声は小さく震えていた。先生はにこりと笑い、消毒をし、薬を塗りながらうなずいた。
「大丈夫。おうちで安静にさせてあげれば、すぐ元気になるよ。君たち、本当に立派だ」
その一言に、三人の肩から一気に力が抜けた。アラタとケンタは思わず顔を見合わせ、そしてハルトを見る。ハルトは頬を赤くし、視線をそらしながら小さくつぶやいた。
「……よかった。マジでよかった……」
診察室を出ると、夕方の空はオレンジ色に染まり、遠くでヒグラシが鳴いていた。外気はまだ熱いはずなのに、胸の奥は涼しい風が通ったように軽い。ケンタはトラを胸に抱きしめ、ふうっと長い息を吐いた。
「なあ、西園寺……」
「なんや」
「……さっきは、ほんまにありがとうな」
ハルトは少し黙ってから、照れくさそうに鼻をこすった。
「べ、別にええよ。……俺、友達おらんかったし。なんか、今日……楽しかったわ」
アラタとケンタは目を合わせ、自然に笑みがこぼれた。
「じゃあ、これからは、ちゃんと仲間やな」
「うん……俺も、秘密基地入ってええか?」
「もちろんや!」
ハルトの頬は夕焼けの色に染まり、トラはケンタの腕の中で小さく喉を鳴らした。こうして、いけずな西園寺ハルトは、初めて本当の友達を手に入れた。夕焼けに染まる道を、三人と一匹はゆっくりと並んで歩き、家路についた。
■
夏の夕方、川沿いの風が草むらをそよがせ、秘密基地のブルーシートは西日を受けて淡いオレンジ色に染まっていた。草の青臭いにおいと土の温もりが混ざる空気の中、アラタ、ケンタ、西園寺ハルトの三人は集まっていた。
アラタは入り口の端に座り、遠くに沈みかけた夕日を見て胸が高鳴った。心臓の奥がわくわくと熱を帯びている。ケンタはトラを抱っこし、柔らかい毛をそっとなでながら、小さな体から伝わるぬくもりに落ち着きを感じていた。トラはにゃあと小さく鳴き、尻尾を揺らす。
一方のハルトは、足を投げ出して座り、懐中電灯を手の中でくるくる回している。その表情には少し緊張が混じっており、手汗でライトが少し滑った。
「なあ、今日の肝試し……いよいよやな」
アラタがにやりと笑い、声をひそめる。胸の奥でわくわくと不安が交互に波打った。
「……行くけどさ。俺、ちょっとだけ怖いわ」
ハルトは小声でつぶやいた。目はどこかきらきらしていて、怖さと楽しみが入り混じった感情が隠しきれていない。
「俺もドキドキするけど……楽しみやな。トラも一緒やし」
ケンタがトラを見つめて微笑むと、トラはまるで「もちろんや」と言うようににゃあと鳴いた。三人は思わず笑い合う。
秘密基地の中は、期待と少しの緊張で膨らんでいた。日が落ちていくにつれて、ブルーシート越しの光は徐々に弱まり、あたりに夜の気配が忍び寄る。草むらからは虫の声が響き、どこかでヒグラシがカナカナと鳴き始めた。
「絶対、俺らが一番早く祠まで行ったるで!」
アラタが拳を握り、胸を張る。その声に、夕暮れの虫の音が一瞬遠のいたように感じる。
「いや、先頭は俺や。京都のもんは度胸あるんやぞ!」
ハルトは強がるが、手の中の懐中電灯はまだくるくると回り続けている。
「さっき『ちょっと怖い』って言ってたくせに」
ケンタの突っ込みに、三人の笑い声が秘密基地に響いた。笑いながらも、胸の奥では心臓が早鐘を打つ。冒険の前のひととき、怖さと期待が入り混じり、夏の空気の中で熱くふくらんでいた。
肝試しの夜、近所の神社は昼間のざわめきが嘘のように静まり返っていた。境内の石畳はまだ昼の熱を残し、裸足で踏めばじんわり温かい。空は群青色に沈み、杉の木の枝が風に揺れるたび、ギシギシと不気味な音を立てる。暗闇の中で、木々がまるで生きているように見えた。
アラタとケンタ、西園寺ハルトの三人は、鳥居の前で立ち止まった。ケンタの腕の中には、元気を取り戻したトラが小さく抱かれている。三人の手には懐中電灯。肝試しは町内会の夏恒例の行事で、境内の奥にある祠まで行き、鈴を鳴らして帰ってくるのがミッションだ。
「なあ……ほんまに行くんか?」
ハルトは腕を組み、懐中電灯を握る手がわずかに震えている。額にはうっすら汗がにじんでいた。
「当たり前やろ! ここまで来て帰ったら笑われるで」
アラタはわざと胸を張ってみせるが、心の奥ではほんの少しだけドキドキしていた。夜の神社は、昼間とはまるで違う顔をしている。
ケンタはトラをなでながら、小さな声で笑った。
「トラもおるし、怖くないやろ?」
「猫が護衛になるかいな……」
ハルトはぶつぶつ言いながらも、三人は鳥居をくぐった。参道は闇に包まれ、ところどころに置かれたろうそくがゆらゆらと揺れている。夜風に吹かれ、炎はかすかに震え、木々の影が地面に長く伸びたり縮んだりする。そのたびに心臓がきゅっと縮むような気がした。
砂利を踏む足音が、ジャリ……ジャリ……と響く。遠くではヒグラシがカナカナと鳴き、耳の奥にひやりとした感覚を残す。ワクワクと怖さが胸の中で混ざり合い、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。
「……なあ、あれ、人影ちゃうか?」
ハルトが突然立ち止まり、杉の木の影を指さした。三人の懐中電灯が同時にその方向を照らす。暗闇の中で、ぎらりと光る二つの目。
「うわああああああっ!!」
アラタとハルトは同時に飛び上がった。ケンタは慌ててトラを抱き直し、心臓が跳ねる。
「……あれ、トラやん……」
アラタが肩で息をしながら言うと、トラは平然と参道を歩いていた。懐中電灯の光を反射した目が光っただけだった。
「……猫の目って、反射すんねんな……」
「びびりすぎやで、西園寺」
「う、うるさい!」
三人は顔を見合わせ、思わず笑った。緊張が少しだけほどけ、笑い声が夜の神社に吸い込まれていく。怖いのに、どこか楽しくて胸が熱くなる。これが肝試しのわくわく感なのだとアラタは思った。
やがて祠にたどり着くと、三人は交代で鈴を鳴らした。カラン……と涼やかな音が夜の森に響き渡る。トラがにゃあと小さく鳴いた。
「これでミッション完了やな」
アラタがにやりと笑い、ハルトもようやく肩の力を抜く。胸の奥にはまだ少しドキドキが残っていたが、達成感と笑いがそれを上回っていた。
帰り道、懐中電灯に照らされた参道で、三人と一匹の影は長く伸びて並んでいた。夏の夜の冒険は、恐怖と興奮、そして大きな笑い声で満ちていた。