表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
約束  作者: 月夜 宵
4/5

4



店長が背を向けた瞬間、顔の筋肉が緩んで、無意識に笑顔になってしまったのを覚えている。なんだか、良いお店を見つけてしまった。そう確信が持てたから。

今の流れの中で、まったく嫌な感じがしなかったからだ。店長は初めからとても自然体で、今と変わらない。つまり、普段の接客でも自分を飾っていない、いわゆる「営業スマイル」をしていないということ。それが普通のことなのかどうかは断言できないが、大多数の人間はこの態度をとられると、あれ?と一抹かかなりの不信感のような不快感を覚えるのだと思う。それは来店を歓迎していない、お客様は神様、という接客業の当たり前すぎる業務常識の反しているということになるからだ。グループでやってくる昼間暇をつぶしたくて仕方がない中年の女性の集まりなど、その典型だろう。あと若い女子だけのグループあるいは二人組、おひとりさまでも思う人は思うかもしれない。俗にいう愛想のいい、気持のいい接客が世間一般で流行るお店では求められているのだ。

自分はそういう対応をされるのがあまり好きじゃない。好き嫌い以前に、苦手。作り笑い、アルカイックスマイル、向こうは笑っていてもその後ろに能面の表が見え隠れしているような気がして目を合わせることが出来なくなってしまう。これも職業柄だが、目を合わせることはコミュニケーションの中では欠かせない行為。信頼関係がなければ前の仕事は成り立たないことが多々あった。笑顔の裏に、般若の表を隠していることもある。子どもが危険にさらされていることを見抜くためにも、それは必要なスキル。人生経験がある程度あれば、相手の目を見てその表裏にはなんとなく気づくことが出来る。しかし、みんなが外用の笑顔を浮かべて話をする。やがて敵も味方もわからなくなって、誰も信じられないサバンナを生きているような野生のような嗅覚が備わっていくわけだ。

 いつもカバンの中に必ず入れている小説を取り出してテーブルの上に置く。向こう側の壁を見ると小さな本棚があって女性受けのするファッション誌や週刊誌・・・なんてものは無くて、珈琲好きに受けるようなおいしいコーヒーの淹れ方や喫茶店の情報誌、車についての雑誌、なにやらよくわからない図鑑などなど・・・割とマニアックな取り合わせが陳列、ディスプレイされている。これは店主の趣味なのか、お客様のニーズに合わせたものなのか、疑問だったが、正解はどちらでもなくて。



とりあえず自分の持っている小説を取り出して、飲み物が届くまではテーブルの上に置いて待った。


「・・・お待たせしました」


新しいのを入れた時のいい香りが漂ってきてしばらく、トンっと軽い音を立てて目の前にコーヒーが置かれた。

ティースプーンと、角砂糖が一つ。ちなみにテーブルの上にも、銀色のシュガーポットが置いてある。この辺りにお客への優しさが感じられる。


「ありがとうございます」


やり取りはそれだけで、そこから会話は一切なく、私の読書の時間が始まった。

どのくらいいるかはいつも決めていない。

急ぎの用が無ければゆっくりと。コーヒーが無くなればそこで終わり。気分によってはもう一杯。足早に冷ましながら飲み干して席を立つ日もある。

大事なのは量ではなく、この空間という価値ある時間。


「・・・・・・」


控えめに流れるゆったりとしたラテン音楽は、読書の邪魔をしてこないのでありがたい。家に帰ってもほぼ独りなことに変わりはないけれど、こうして外で一人で過ごすことには大きな意味がある。父親は基本書斎に籠っていていつも文献とにらめっこ。大学の教授をしているが未だに何の研究をしているのかは知らないし、書斎には一度も入ったことがない。だから中にある書物もどんなものなのか知らない。小さい頃は入っていた記憶はあるけれど、それこそ文字も読めないほどの頃の話だからさして意味もない。

 


 生きていれば人と関わる。関わる数が多くなるだけ嬉しいことも楽しいことも、嫌なことも全て平等に自分に降りかかってくるものだ。人と触れ合わない職業に就きたいと、中学校を卒業して高校生の頃は強くそう誓っていた。

 でも実際、現実は自分の意志が強く主張できないとうまくいかない。流されて流されて、無難な、安定的な、一昔前によく言われた公務員になるべし、という教育を基盤とした職業についていた。といっても公務員になるのは難しくもないが簡単なことでもない。お役所仕事は給料が良い分空きが無いし、自分のようにネジが緩い女にはどうせ無理、と端から目標を絞って勉強する気にもなれなかった。

 一度就職して、やっぱり自分の好きな道を目指したいと離職して一念発起した友人の行動力が心底羨ましく、妬ましくはなくむしろ誇らしかった。自分にもそんなことが出来たら・・・。

 考えても、後悔先に立たず。タラればな話はいくらでも出てくるが、本の中あるいは夢の中で堪能できるだけで、現実は全然そんなうまくなんていかない。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ