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話しがだいぶ逸れてしまっているのは気にしない。
そんなこんなで仕事が終わって、その日の反省を一人で頭の中でぼうっと浮かべながら歩いていた。よっぽど頭が曇っていたのか目が曇っていたのか、その日は曲がり角を一つ間違え、気が付いたら本来大きな通りに出るところを気が付けば辺りは薄暗くて、ビルに挟まれた狭い通りに入ってしまっていた。狭いといっても自転車は通れるくらいの間隔はあって、お店の裏口なんかがいくつか見られるような通りで、薄暗くなって道の先に小さなランプが灯っていて、なんとなく、もっと先まで行ってみたくなったのだ。
オレンジ色のその灯りを目指して歩き、たどり着いたのは深い青色の家のような建物。四角いビルに囲まれた小さな家。入り口に、木でできた「SToNe」の文字があって、家ではなくお店だということがわかった。
「ストーン・・・いし?」
何のお店?外からは窓が小さくて、何のお店かわからなかった。こんな人気のない通りに。Openの看板以外には何も書かれていない。誰も見ていないけど、中をのぞくのは何だか憚られて。気になりつつも、早く家に帰ろうと思いなおして通り過ぎようとしたとき。
風に流されてきた、一筋の香り。大好きな、疲れた脳が鼻孔の奥で求めていた、珈琲豆を挽くいつものインスタントコーヒーより何十倍も芳醇なかぐわしい香りが、自分の足を再び止めた。
その香りは間違いなく、真横のこのお店から漂っていた。まだ時刻も早いから、一杯くらい飲んでも大丈夫。何より、このお店に入ってみたい。そんな好奇心に自分の思考回路は一瞬で切り替わり、くるりと踵を返して、店の扉を開けることとなった。
それが、3年前のヨルとコーヒー屋さん「SToNe」の出会い。
りんっ りんっ
入ると在りがちなカランカランというような音はしないで、小さな鈴の音が二回だけ鳴るようになっていて。
「・・・いらっしゃい?」
カウンターの向こうで誰かが振り返るのが見えるのと同時に、重低音とまではいかないが程よく低い大人の男性の声が聞こえた。身長が自分よりも大分高いことが遠めでもわかり、黒縁の眼鏡をかけていることだけが見てわかった。
初めての店に緊張しつつも店内を観察しながらゆっくりと奥へ進んでいった。お客さんはまばらで、その日はおひとり様ばかりだった。勤めだして分かったが、そんな日は珍しくはなく、それぞれが自分と同じ仕事終わりで、自分の時間を暖かくて香りのいい飲み物と一緒に、誰にも邪魔されたくないオーラ全開でそれぞれ自分の時間を満喫していた。
「・・・空いている席へどうぞ?」
疑問形で言葉をかけられ何となく頭を下げてカウンターを去りながらマスター?・・・店長さんの顔を盗み見た。すでにこちらは見ていないので少しじっくり観察してしまった。少しくたびれたブラックジーンズに白いシャツ、腰にはこのお店の外観を連想させる藍色のエプロンを巻いている。身長は180センチ歩かないかくらい、髪は手入れはしているのか疑わしい、あちこちにはねた毛先はくせ毛なのか寝ぐせなのか見分けがつかない。予想通り、それは特に手入れはしていない寝ぐせ&くせ毛の二重奏。でも長すぎるのは暑苦しいようで、定期的に美容室へは向かっている。聞けば自分の弟が近くで美容師をしているらしく、よく切ってもらいに行くらしい。もちろん無料で・・・
少しかっこいいかも・・・そう思いつつ、空いていた二人掛けのテーブルに決めて荷物を向かいの席に卸してスマートフォンだけ取り出して空いている席に座った。着ていた白いカーディガンを脱いで膝の上に掛ける。ようやくほっとした気がして、自然とため息が出てきた。
真ん中に無造作に小さなメニュー表が置かれ、隅には小さなナプキン入れ、その前に小さな角砂糖入りのシュガーポットが置かれているだけ。余計なアンケートや宣伝紹介のようなものは無くて、あの人が店長なのかはその時はわからなかったけど、さっきの定員さんらしいな、と感じさせられた。無駄なものは置かない、かつ自分も無駄な動きはしない。必要なものは、最低限その場に置いておく。
「・・・ご注文は?」
「あっ・・・と、ブレンドを」
メニューを持ったはいいけど、文字に行く前に周りの観察に夢中になりすぎて店長の気配に気づかなかった。慌てて、メニューを一瞬見て、定番のものを口走った。
コーヒー紅茶は全般の飲めるし、好きだし、ブレンドははずれが少ない。そのお店のコーヒーの味の決め手にもなる。もっとも、ここはそんな豆をお店で挽くような拘りを見せているお店ではなさそうだったが。
「ブレンドね・・・ホット?ミルクはいる?」
「あ、ホットで。ミルクは大丈夫です」
「そう・・・。ちょっと待ってて」
少し気だるげな物言いで、店長は簡単に走り書きをしながらその場を離れていった。