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この世界には、もう一つの扉がある。そんな言葉がありがちだが、しっくりきてしまう。
決して誰もが行くことができない世界。すぐそばにあって、とても近くて有りのままで、それでいて誰も知ることのない世界。
もし消えてしまった大切な人は、宝物は、もしかしたらあなたのすぐそばにいるのかもしれません。
なんて話も、よく昔の人が想像して書いた本で読んだのを覚えている。
かわいい美しい挿絵と一緒に、優しかったはずの、顔も覚えていないお母さんの膝の腕、その声を何となく聴きながら眠くなるまでの時間、ぼうっと眺めていた絵本の世界のようだ。
不思議なもので人間は昔からどこにいても、同じ夢を同じ時期に共有してきた歴史があるようで、国が違えど生きた人生が、文化が異なっていても、物語の主人公に憧れてしまうのだ。
あいにく自分は、文章を目で追いかけるのがあまり好きじゃなくて、挿絵のある軽い読み物を少し物によりけりで物色する程度だ。
私の勤める、小さなコーヒー屋さん「SToNe」の常連に、いつも小さな小説を片手にやってくる紳士や、ものすごい剣幕でモーニングペーパーを顔面ギリギリにまで近づけてじっくりと呼んでいる帽子を深くかぶったちょっと怪しげなおじさん。小さな端末を片手に、上下させることで文章の羅列を、ひたすら眼球と指を上下させることで追いかけているちょっと息抜きに来たオフィスレディなど、よく文字ばかり見ていて飽きないな・・・いつも尊敬にも似た関心をしてしまう。
昔から、本を読むのはとてもいいことだから、読みなさい。本に囲まれた部屋で、父親がよくが言って聞かせてくれた。その甲斐あってか少々違う形で読書への関心が芽生え、みるみる活字中毒患者への道を突き進んだ卯月ヨルは注文を受けたコーヒーを持って、こちらは新聞とにらめっこ中の常連おじさんの元へ向かっていた。
今日は少し曇り空で肌寒い日和。季節は秋。ホットのコーヒーがよく注文されている。
決して広くない店内には一人掛けのカウンターが5つ、二人掛けのテーブルが3つ、4人掛けのテーブル2つ。壁側には、二つの一人掛けソファー席というちょっと贅沢な席まで設けられている。
小さなテーブルと呼ぶには少しお粗末な板は、一人分の飲み物と軽食の小皿を置いたらスペースはわずかになってしまうくらい小さいが、座り心地のいい、柔らかなゆったりと腰かけられるソファーのおかげで、それが、広い店内の片隅に、見事に一人、自分だけの特別な空間を生み出してしまうには十分な演出になっているからすごいと思う。
このコーヒー屋さんは、最近建てられたものではない。かといって、何十年もここに看板を構えている老舗というわけでもない。そこそこ、10年くらいの創業経歴を持つ、小さなひっそりとしたお店。ヨルですら正直、こんなお店がこんなそこそこ都会の、そこそこにぎやかな通りの裏にあるなんて、つい最近まで知らなかった。しかもこのお店があるのは繁華街でも住宅がひしめく居住区でもなく、四角いビルが立ち並ぶ立派なビジネス街の中で、背の高いビル群と中くらいのビル群のちょうどいい間の位置にあるという、なんとも奇妙な奇跡的な立地にあり・・・日々終わることのない、後から後から仕事がわいてくる終わりの見えないオフィス仕事に追われる大人たちにとって、ここを行きつけの隠れ家にしたいという人は少なくないみたいで。
日頃は近場か社内にあるスタバやドトールなどのチェーン店でのブレイクをベースにしつつ、仕事終わりや外回り中の空き時間に、誰も知り合いのいない場所に隠れてコーヒーか紅茶を飲める、ここはそんな最適な場所。
立地のせいもあるが、このお店は口コミではあまり広がらない。そこまでおすすめしたくなるような見た目ではないのもあるが、なによりここは本当の「隠れ家」にしておきたい、と思うお客様が多いということだろう。
女子受けする可愛らしい外観、かはわからないが、シックな濃い青、群青色をした四角い二階建ての建物で、壁は内側も外側もコンクリートを組み合わせただけの、壁紙は一切使っていない、いわば無機質を感じさせる。前向きな表現だと可愛げはないが心を落ち着かせる色。かっこいいという人もいる。入り口はカントリー調の木でできた扉にOpenプレートがかかっていて、閉まっているときは何もかけられていない。
開店時間は朝9時から夜の11時まで。都会にしては短い営業時間だなと感じなくもなくて一度、切りのいい、「どうして12時までの営業にしないんですか?」と聞いたことがある。
すると店長が、「どうして?早く帰れていいんじゃない?」と濁された。バイトの身として、早く帰れるのは確かにうれしい。現にそのあとの跡片付けは閉店後の跡片付けはほとんどしたことがなくて、テーブルをすべて綺麗に拭くだけでいつも終わっている。聞けば、あとはすべて店長がしているとのこと。いつもそれではなんとなく悪いので、自分も手伝いますと言ったことが何回かあったが、マイペースな店長はいつも「ゆっくりと自分の店の片づけと準備をする時間が好きなんだ」と微笑みながら言うので、何も言えない。朝もいつもきれいに、開店前のシフトの時にも店内は準備万端で、何時からいつも準備しているのかなと地味に疑問に感じてしまう。