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行政サービス山崩し

作者: さば缶

 「さて。今回の閣議では、我々はある“遊び”を提案したいと思う」

総理大臣の石橋が静かに口を開いた。

彼は年の割に落ち着いた声をしている。

硬い表情のまま、口元の動きだけが僅かに動いていた。

記者会見とは違う内輪の場、総理大臣官邸の会議室に集まった閣僚たちの視線が一斉に石橋へ集まる。


 「福祉、教育、健康保険、年金など、国が担う様々な行政サービスを一つずつ捨てていく。

もちろん一度捨てたら二度と使えない。

どれだけ国を崩さずにやりくりできるかを競うわけだ。

言い換えれば、サービスを廃止しながら日本という国家をどれだけ存続させられるかの勝負でもある」


 総務大臣の近藤は息を呑むように目を見開いた。

どこか冗談めかした言い回しだが、石橋総理の表情からは微塵も笑顔が見えない。

この国の指導者がどうしてこんな提案を思いついたのか、彼には皆目見当がつかなかった。


 「先に潰れたら負け、というゲームか」と防衛大臣の三宅が口を挟む。

彼は大臣の中でも闊達で、鋭い眼光が特徴だ。

普段なら防衛問題で声を張り上げる男だが、この奇妙な提案を前に少々困惑の色が浮かんでいた。


 「そういうことだ」と石橋は静かに頷く。

「ただし、廃止するサービスの決定権は大臣それぞれが順番に持つ。

具体的に何を捨てるか、存分に考えてくれ。

そして最後までこの国を動かした者が勝利者だ」


 そう言って、石橋は席を離れ、会議室の隅に立つ。

まるで傍観者であるかのように、あとは閣僚同士で勝手にやれとばかりに舞台から退いた。

誰もが戸惑い、膠着しかけたときに、財務大臣の田中が声を上げた。


 「面白いじゃないか。

もともと財政なんてのは削り合いの連続だ。

この国を生き永らえさせるか、破綻させるか、そんな瀬戸際を日々嗅ぎ分けて仕事をしている。

ならば、最初の一手は私が行こう」


 そう言って田中はわざとらしく咳払いをすると、早速ペンを手に取る。

閣僚たちは誰もが緊張した面持ちでその動きを見つめた。

国が守るべきサービスを捨てるということは、すなわち国民の生活を直撃する行為。

その責任は並大抵のことではないはずだ。


 田中は目を伏せながら小さく呟く。

「では、地方交付金を廃止する。

これなら直接的な目立った痛みは少ない…はずだ」


 その瞬間、総務大臣の近藤は立ち上がった。

「田中さん、冗談ではないですよ。

地方交付金が消えれば、地方自治体の運営はたちまち苦しくなる。

道路整備や公共事業、交通機関の維持さえままならない地域が出てくるんです」


 しかし、田中は肩をすくめるように笑った。

「ゲームだろう?

それに最初に年金や健康保険を切ってしまったら、一気に社会不安が広がる。

まだ地方交付金の廃止なら、住民税や独自財源でギリギリ凌げる自治体もあるかもしれない。

選択肢としては無難だと思うがね」


 こうして一手目として、地方交付金は捨てられた。

もちろんその影響はすぐに現れたわけではないが、限界集落や過疎地帯の小さな町から悲鳴が上がるのに時間はかからなかった。

インフラ整備の予算が急激に下りなくなり、水道管の老朽化が放置される。

公共交通を維持するために補助金を受けていたバス路線は、採算が取れず次々と廃止される。

けれど国民の大半は、まだそれを「遠い地域の問題」として眺めていた。


 「では次は私の番ですね」

文部科学大臣の鈴木が、慎重そうに口を開く。

彼は教育畑を長く歩んできた人物で、学校現場の裏も表も熟知しているという触れ込みだ。

そんな鈴木が捨てるものを何にするのか、周囲は息を飲んで見守る。


 「義務教育の完全無償化を廃止しようと思います。

小中学校での授業料や施設使用料、給食費などを一律無償としてきた制度を取りやめます」


 多くの閣僚が驚いた表情を示した。

「ただでさえ少子化が深刻化しているのに、家計に負担を増やすのか」

厚生労働大臣の大久保がそう問いかけるが、鈴木は静かな目をしている。


 「わかっています。

しかし、もし高等教育無償化制度や奨学金制度を先に廃止してしまったら、大学進学率が極端に下がり、将来的な技術者や研究者の数も落ちる。

だったらまだ小中学校の段階で家計にある程度負担をかけても、親が頑張れば何とか通わせられる。

過疎化地域の地方交付金の次にこれを捨てるのは悪手かもしれませんが、私なりに被害を最小に抑えようと考えました」


 そう言うと、鈴木は深く頭を下げる。

その場に厳しい空気が走ったものの、誰も強くは反論しなかった。

それぞれが自分の抱える省庁を守るため、他のサービスを捨てるくらいなら、よそに犠牲を押しつける構図が見え隠れしている。


 やがて義務教育無償化の廃止は実行に移された。

当初は「給食費を払えばいいだけ」「多少授業料がかかるだけ」という認識でとどまっていたが、いざ請求が来ると、低所得世帯を中心に「子どもを学校に行かせるためのお金がない」という悲鳴が上がる。

もともと経済的に脆弱だった家庭は、家賃や光熱費とのやりくりに追われ、子どもをフリースクールに移すか家庭学習に切り替えるしかなくなった。

そうして、小学校中退という事態すら現実味を帯びるようになる。


 次の番は厚生労働大臣の大久保だった。

彼は健康保険と年金を管理する巨大省庁を抱えている。

いずれ捨てねばならぬサービスを選ぶ責任の重さに耐えかねたように、うっすらと苦渋の表情を浮かべながら口を開く。


 「私が捨てるのは…介護保険だ」


 「えっ」と唇を震わせたのは、防衛大臣の三宅だった。

「介護保険をなくせば、要介護の高齢者や障がいのある方々がどうなる?

家庭に負担がのしかかり、介護離職が続出し、社会が滞るぞ」


 大久保はうなずいた。

「わかっている。

でも健康保険を切れば国民全員が医療費の負担に耐えられなくなる。

年金を切れば高齢者の暮らしそのものが成り立たなくなる。

生活保護を切れば生活基盤のない人々が路頭に迷い、治安も悪化する。

まずは介護保険を切るしかない。

それが国全体の崩壊を最も先延ばしにできる一手なのだ」


 その言葉を聞いて、閣僚たちは沈黙した。

やはりどのサービスを捨てるにも犠牲はあまりに大きい。

それでも「日本を残す」という名目で、介護保険はあっさりと切り捨てられた。


 結果はすぐに出た。

在宅介護サービスの廃止、施設入所への補助金カット。

高齢者は親族の手に委ねられることになり、すでに働き盛りの世代を抱える家庭では介護をする余裕がない。

大急ぎでホームヘルパーに来てもらおうにも、それを払うお金が足りず、結局一部の裕福な家庭以外はどうにもならない。

職場を辞めて自宅にこもる家族が増え、社会全体の生産力が落ちていった。


 その次の番を引き当てたのは防衛大臣の三宅だった。

彼は軍事や災害救助に関心が高く、社会福祉にはあまり強くない。

目を閉じ、短く息を吐いてから言葉を出す。


 「雇用保険を廃止する。

ただでさえ介護保険がなくなった今、失業者を支えるには多額の税金が必要になるが、もう面倒見切れない」


 「そんな…雇用保険がなければ解雇されたら一巻の終わりじゃないか」

外務大臣の藤堂が驚きの声を上げる。

しかし、三宅は自分の決断に後悔の色をにじませつつも、静かな調子で続ける。


 「わかっている。

だが俺は、防衛費だけは守りたい。

災害救助や国防のためにどうしても必要だ。

サービスを何もかも残していては、逆にどこかのタイミングで一気に国が崩壊する。

ここは痛みが走るが、雇用保険を捨てるのが最善だ」


 こうして雇用保険も消えた。

会社が倒産すれば即ホームレス。

リストラされても次の仕事が見つかるまでの保障は一切ない。

すると企業は経営が厳しくなるたびに大規模な人員整理を実施し、労働者は切り捨てられて失業の波へ。

都市には失業者があふれ返り、路上生活を余儀なくされる人が増えた。

一方で、地方の農村部は既に交付金廃止の影響を受けていたから、余力はなく、受け入れ先にもなり得ない。

国中がにわかに疲弊していく。


 最後に廃止の順番が巡ってきたのは、再び財務大臣の田中だった。

自分が最初に地方交付金を廃止したのもあり、彼の目つきは以前よりも鋭くなっている。

「これ以上、何を切れる…?」

誰もが喉の奥で呟いているようなその言葉を、田中はまっすぐに受け止めた。


 そして静かに宣言する。

「最後は健康保険だ。

さすがに年金を切ったら一気に高齢者が貧困に陥り、社会秩序が完全に崩壊する。

健康保険の廃止が、残された唯一の手だろう」


 「待ってくれ!」

厚生労働大臣の大久保が声を張り上げる。

「健康保険がなければ、病院に行くのも個人で全額負担になる。

大けがや難病になったら治療費は莫大なものとなり、富裕層以外は命を落としかねない。

医療費を補助しない国家なんて、そんなもの国家の体を成しているのか」


 田中の手は震えている。

「わかってる。

けど、年金や生活保護が残っている限り、高齢者と貧困層に最低限の現金支給は続く。

もし健康保険を捨てなければ、もう他に捨てる余地はない。

それでは国家がもたない」


 会議室は言葉を失った。

石橋総理大臣はこれまで黙っていたが、ここで動いた。

「いいだろう。

最後は健康保険を捨てる。

その結果、日本の国民がどうなろうとも、それが選択の結末だ」


 健康保険の廃止が決まると、立て続けに病院の倒産や閉鎖が起きた。

何故ならば患者も検診すら高額になるため、受診を控え、医療機関は経営が成り立たなくなっていく。

大きな総合病院だけは富裕層相手にVIPのような医療サービスを提供し、生き残りを図る。

しかし大半の中小病院やクリニックは人件費をまかないきれず、多くが廃業に追い込まれた。

緊急搬送されてもお金がなければ手術すら受けられない。

街には手当てされない怪我人や病人が増え、路地裏で息絶える人もいる。


 その時、閣議のテーブルには沈黙だけが残った。

同時に、全てのサービスを“まだ”全部捨て切ってはいない。

年金は残った。

生活保護も残った。

しかし、それらを支えるだけの税収はもはやなく、人々の納税意欲もがた落ちで、財源の底が見え始めている。

まるで崩壊を先延ばししているだけだった。


 「ところで、このゲームに勝利したのは誰だ?」と静寂を破ったのは三宅だった。

総理大臣の石橋が目を閉じて、「勝利者は財務大臣の田中だ」と呟く。

最後の一手を打ったのが田中で、国家の崩壊を完全には招かなかった。

一応、ルール上では田中が勝ったことになる。


 しかし田中の表情は曇っている。

「勝ったところで、何が残った?」

振り返ると、日本各地のインフラは崩れ、教育は崩壊し、介護は放り出され、失業者は保証のないまま社会をさまよい、病気になればほぼ詰みだ。

あとはわずかに残った年金と生活保護が形だけ機能するだけの国。

新たな日本像を描こうにも、希望はどこにも見当たらない。


 「これが、我々の導いた結末というわけか」

総理大臣の石橋は一礼し、それから全員の顔を一瞥した。

「ゲームとは言ったが、その本質は、我々がどれだけ“優先順位”をつけられるかの試験だった。

しかし結果は…見てのとおりだ」


 石橋は静かに会議室を出る。

勝利を収めたはずの田中は動けなかった。

どれだけ目を凝らしても、もう国の未来に光は見えない。

ほかの閣僚たちもやがて席を立ち、重苦しい足取りで部屋を後にした。


 捨てられたサービスは二度と戻せない。

各大臣が一つずつ手を下し、気がつけば日本という国家の機能はほぼ壊滅寸前に陥った。

こうして“山崩し”の勝利者となった田中は、終わりのない混沌の中にただ取り残される。


 廊下を歩く彼の背中はいつになく重かった。

誰に見られているわけでもない。

そして誰も彼を祝福する者はいなかった。

勝負に勝って国を失う——それは誰が想定した未来だったのだろうか。


 これが、捨てられた行政サービスとともに凋落した日本の姿である。

その行方を見つめる田中の瞳は、まるで果てのない闇を映しているかのように見えた。

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