北海道での記録⑥
熊だ。
覚悟はしていた。
自然と手元の斧を握りしめた。
ここでケガをした女性を残して、俺だけ逃げれば熊からは助かる可能性は上がる。
ただ、俺はそんな事をするためにここまで来たのではない。
雨で視界不良の中、熊と俺たちの距離は50m程度しかなかった。
熊にとっては一瞬で距離を詰めることが出来る。
対して、こちらはケガ人が一人いて、誰かの助けが必要な状況。
「私のことはいいから、あなただけ逃げて頂戴」
女性は自らロープをほどこうとしていた。
「あなたを置いて逃げても、私のニオイは覚えられている。二人同時に逃げないと確実に助からない」
熊は自ら距離を詰めることはない。
相手がどのような反応を示すか、品定めしている。
奴らは非常に慎重な性格なので、子を持つ母ではない限りすぐに襲って来ることはない。
ただ、クマよけの鈴を気にせず、この登山道近くを縄張りにしているということは、人間が食べ物を持っていることを学習している。
その残飯にありつこうとしている可能性が高い。
食べ物があるなら追いかけられるので、置いていった方がマシだ。
「リュックの中には何が入っていますか?」
「えっと…おにぎりとチョコレート、雨具とかです」
女性に意図を伝えて、持っていたリュックをその場にそっと置いた。
俺たちは決して後ろ姿を見せずにロープを使って、崖を上ろうと話をした。
ケガをした女性に手を貸して、決して背中を向けないように一歩ずつ後ずさりした。
幸いにも崖の傾斜はそこまで強くなかった。
ロープを体に巻き付けて、先に女性をのぼらせた。
女性は、緊張状態で痛みが消えていたのか、ゆっくりと崖の上に移動することが出来た。
女性がのぼりきった時、熊と俺との距離は30m程度になっていた。
「見つけたぞ!」
崖の上から複数人の足音と同時に猟銃の空砲が鳴った。
驚いた熊はどこかへ逃げ去って行った。
「あんたは人の注意も聞かずに飛び出して!死んだらどうするつもりだったの!」
彼女からはこっぴどく叱られた。
猟友会の人たちが運よく近場でパトロールしていなければ、
俺たちは本当に熊に食われていたかもしれない。
警察に事情を話して、しばらく登山道を封鎖することになった。
俺たちも山を下りることになった。
ふもとには救急車が来ており、老夫婦を乗せて近場の病院へ向かっていった。
猟友会の人に後々聞いたところ、彼女は泣きそうな声で頼ってきたとのことだった。
「…心配かけて悪かった」
謝ってみたものの、彼女はそっぽを向いて、怒っている様だった。
「あんたみたいな危なっかしい奴、私がずっと面倒見なきゃダメそうね」
「…どういう意味でしょうか」
「一生、山小屋で雇ってあげるって意味よ」
数日後、熊はハンターによって駆除された。
別の地域に現れて家畜や人を襲うようになったかららしい。
しばらくして登山道は封鎖を解いた。
そして、時が過ぎ、山のシーズンが終わってからも俺たちは生活を共にするようになった。




