雨がやんで
福多のそばへ行ってその手に触ってみたら、熱い。それに腫れてる。さっき本を落としたのは、きっと痛くて本を持っていられなかったんだ。
顔をしかめてたのは、本を落として「しまった」って気持ちもあったんだろうけど、痛みからくるものだったんだと思う。
「いつよ。いつからこうなの。まさか、あたしをかばった時?」
「ううん、その時は何もなかった。竜から落ちた時かな」
かばった時って言ったら、あたしが気を遣うって思ったのかな。それとも、本当に竜から落ちた時だったのか。
どっちにしても、一瞬でも福多がつらそうな顔してたのは変わらないし。
「もう無理しない方がいいよ。ねぇ、キタップ。湿布薬とかない? それとも氷とか」
「シップヤク?」
その顔を見て、この世界に「湿布薬」というものが存在しないことはすぐにわかった。
「えっと、くじいた時の薬みたいなものはある?」
「何じゃ、傷めたのか? しょーのない奴じゃの」
言いながら、キタップはポケットから細長く小汚い布を出した。白かった物が、長年のほこりやら何やらで汚れたような。
それを、キタップは腫れた福多の手首に巻き付ける。切り傷じゃないけど、そんなので巻かれるとますます悪くなりそう。
「あれ、冷たい? キタップ、これって何の布?」
福多が不思議そうに尋ねたけど、キタップは「何を言ってるんじゃ?」みたいな顔。
「ただの布じゃ」
「……そ、そう」
キタップがそう言うんだから、そうなんでしょう。福多、深く考えても仕方ないと思うよ。
「さ、あと少しじゃ」
「はいはい。福多、本当に無理はしないでよ。腕とか足とか、あちこちに青アザできてんじゃない?」
「青アザくらいなら、別に支障はないから。ありがとう」
こう素直に礼を言われると、言われたあたしの方が照れてしまうのはなぜなんだろう。
とにかく、残った本をどうにかこうにか片付ける。
ようやく、初めてこの部屋へ来た時と同じ状態になった。たぶん、本の並びはかなり違うんだろうけど。
「やれやれ。やっと終わったのぉ」
ぐったり。本の整理ってこんなに厳しいものなんだ。一冊だけなら何てことない重さでも、それが大量だと本当に大変。きっと明日は筋肉痛だな。
さすがにキタップも、くたびれた顔をしてる。……元々って気もするけど。
「本が片付いたのはいいけど……あたし達の問題は片付いてないよ」
お片付けが終わったから「さよなら」って訳にはいかない。帰り道がわかんないんだから。
「ふむ、そうじゃったの。まぁ、とりあえず外へ出て待っとれ。わしはここの鍵をかけてから行くでの」
一応、キタップも考えてくれるつもり、かな? まぁ、これだけ関わったんだから、丸投げはしないだろうけど。
いや、このじいさんなら、知らん顔することもありえるな。
部屋の中はかなりほこりっぽかったんで、少し新鮮な空気が吸いたい。
福多とあたしは部屋を出て、玄関の外へ向かった。
「……あれ?」
さっきページを捜すために外へ出た時、玄関から門までの道はきれいだった。
今、こうして出てみると、いつの間に伸びたのか、雑草が生えまくってる。道らしい道は見えない。
福多がはっとしたように、もう一度建物の中へ入った。でも、わずかな時間だけで、また出て来る。
「佐藤さん、俺達、戻って来たみたいだ」
「え? 戻るって、あたし達の世界に?」
福多がうなずく。
「さっきまで俺達がいた部屋、空き部屋になってた。本棚もなかったし、キタップもいない」
あまりにもあっけない展開で、あたしはちょっと呆然としてしまった。
行くのもいきなりなら、帰るのもいきなりって訳? どの時点で行き来してたんだろう。
ここへ来た時に降っていた雨は、やんでいた。草やほんのわずかに見える地面は、しっとりとぬれている。
空はそんなに暗くないから、ここへ入ってからあまり時間は経ってないのかも知れない。
「あたし達、夢を見てたの?」
建物に一歩入ったら異次元で、出たら元の世界。夢オチ、なんてありなの?
「……いや、夢じゃないよ」
福多が左手を見せる。そこには、さっきキタップが巻いてくれた小汚い布があった。
「俺達、確かに……えーと、ナパジャだったっけ? あそこにいたんだ。もしかして、こっちの世界で雨がやんだから、戻って来たのかな」
雨が降った時に現われた洋館へ入ると、異世界へ行ける。
この町では、そんな妙な噂があるらしい。雨が降ったら行けるんだから、その雨がやんだら帰って来られるって訳か。
単純と言えば単純だなぁ。だったら、梅雨の時期はどうなるんだろう。秋の長雨とか、台風の時とか。
「お互い無事だったんだから、それでいいってことにしておこう。こうして戻って来られたから言えるけど、面白い体験もできたんだし」
「うん……って、無事じゃないわよ。福多はケガしたじゃない」
「あ、これ? 大したことないよ」
「そんなの、わかんないわよ。軽い捻挫だと思ってたら、実は筋をかなり傷めてましたってこともありえるじゃない。ちゃんと医者に診てもらわなきゃ」
どこにどんな医者があるか、あたしにはよくわかんないけど。
あ、わかんないで思い出した。あたし、迷子になってたんだっけ。
「あ、あのさぁ、福多。すっごく言いにくいんだけど……」
「何?」
「あたし、自分の家がわかんなくなってんの。ここ、どの辺り?」
この年になって迷子を申告するの、すっごく恥ずかしい。
でも、子どもみたいに泣き叫んでも、誰も駆けつけてくれないし。そもそも、泣き叫ぶこと自体、恥ずかしい。
福多が教えてくれた場所は、あたしの家からそう離れていないことを知って、さらに恥ずかしくなる。
でも……恥ずかしいついでに、はっきりさせておこうかな。あたし、まだ福多とどこで会ったのか思い出せてない。
「あの、今更なんだけど……あたし、福多とどこで会ったっけ?」
「え……」
絶句されてしまった。たぶん、今までで一番驚いたって感じ。いや、ショック……かな。
「佐藤さん、ずっとわからないまま、俺といたの?」
「どこかで会った気はするけど、どこだっけって……」
がっくり。
本当にそんな音がしそうな感じで、福多は肩を落とした。悪いことしたかな。あたしだって、福多の立場なら「何だよ、それ」って言いたくなると思う。
だけど、思い出せないものは仕方ないじゃない。
「俺、これでもクラスの一員のつもりだったんだけど」
え……ということは、クラスメイト?
「俺、そんなに存在感なかったかなぁ」
「え、いや、そんなことはない……と思うけど……」
「二、三日でクラス全員の顔と名前を覚えるのは、さすがに無理だろうけどね」
「えっと……女の子は半分くらい覚えたんだけど」
実際記憶にないんだから、あたしの中では存在感がなかった……と言えなくもない。けど、悪いこと言ったなぁ。
こうしてナゾが解けたら、福多があたしの名前をフルネームで覚えていたのもわかる。
クラスの人間にすれば、覚える対象は新参者一人だけ。だから、顔も名前もしっかり一致してたっておかしくないよね。
逆にあたしは、三十人近くを覚えなきゃならないんだから。とりあえず、自分にかまってくれる人から覚えるのが人情でしょ。
自分の席の周囲にいる男子なら、名前は無理でも顔くらいなら覚えていたかも。
むしろ、微妙に福多の顔を覚えていたってことの方が、あたしにはびっくりなくらい。
この場でちゃんと聞かず、次に学校へ行ったら「え、どうして福多が同じ教室に?」なんてことになってたな。物語にありがちな展開になるところだった。
「ごめん。あたし、人の顔を覚えるのが苦手だから」
言い訳しても、ちょっと申し訳なさすぎたかな。
「ふぅん。じゃ、これからもう少し俺のことを知ってもらおうかな」
「え?」
「まぁ、それは休み明けからでもいいや。……帰ろうか。わかる場所まで送って行くよ」
「あ、ありがと」
二人で門の外へ出る。
振り返ると、入る時は洋館だと思った建物は、周囲にある住宅より少しばかり大きいだけの、普通の家だった。草ぼーぼーなのは、現実みたい。
やっぱり雨が降った時にだけ、あの洋館は出現するってことか……。
すんごい噂だし、その噂が事実ってこともすんごいことだよね。
「キタップ、俺達が消えて今頃は驚いてるんじゃないかな」
「うん……。ううん、あんまり気にしてないと思うよ」
元の世界に戻る方法うんぬんって話をしてたって、あのじいさんにすれば「そんなこと」扱いだったもん。いなくなってれば「まぁ、いいわい」くらいで終わってるような気がするな。
一応、するべきことは片付けた訳だし。これで途中だったら、絶対に文句を言われてる。
「それにしても、本当にとんでもない目に遭ったわね」
「俺、どうせならもう少しゆっくり見て回りたかったな。雨が降ったら、また来ない?」
「冗談でしょ。あたし、もうあんな世界へ行きたくないわよ」
絶対に行けるとは限らないけどさ。あんな微妙すぎるファンタジーワールドなんて、もういや。自分が魔法の一つも使えたら、考えてもいいけど。
「そう? 残念だなぁ。花に喰われた仲なのに」
「あのねぇ…… いやなことを思い出させないでよね」
そう言えば、心配したあたしに福多はあのとき、笑顔でありがとうって言ったんだっけ。
……やだ、あたしってば、どこまで思い出してんのよ。
「どうかした?」
黙り込んだのを不審に思ったのか、福多があたしの顔を覗き込もうとする。
急に顔が赤くなったの、気付いたかな。気付くな。気付かなくていいっ。
あたしは慌てて話をそらした。
「あ、えっと……この服、普通に洗濯して大丈夫かしらね」
花のよだれ、もとい、蜜でまだどことなくベタッとしてる。どうして未だに残ってるのよ。
手と顔は湖で洗ったけど、髪はまだだし。帰ったら、速攻でお風呂に入ろう。
持ってたミニポーチ、もう使い物にはならないな。中のミニタオルまで、妙な具合にしっとりしてる。この際、スマホを忘れたのは、不幸中の幸いだったかも。防水されていても、どこまで有効かわかんないもんね。
「んー、洗濯はともかく、汚した言い訳が大変だな。どこで何をしてたって怒られても、話したところでどうせ信じてもらえないだろうし」
あたしが話をそらしたの、気付いてるんだかいないんだか。やっぱり律儀に答えてくれるんだよね、福多って。
真面目でマイペースなのは、本質なんだな。
ちょっと……かなり妙な世界だったけど、福多と一緒でよかったかも。
どう言い訳しようか、と本気で考えてる横顔を見てると、そんなことを思ってしまった。