目標を立てることに意味は感じないけれど、目測を立てることには意味があるかもしれない。
雑記です
新年に向けて、来年の目標は……と考えることに、あまり意味を感じない。
だってその目標のほとんどは、成否は運に左右されるのだから。
例えば私の目標が、何らかの作品の書籍かだとしよう。
そのために、具体的な行動を考えることは出来る。
例えば、どこかの小説賞に応募するだとか。あるいはなろうで何話、書くだとか。
でもじゃあ、今この瞬間に、来年の自分がそれに向かって行動することを約束出来るかと聞かれれば、一言「無理」と答えよう。
何せみもももという生き物は、怠惰で、自堕落な生き物だから。
やれと言われたことはやろうとしない、天邪鬼な性格だから。
それにもし、命じたことを全てこなしたとしても、結局は運の話だ。
そして残念ながら私には、サイコロの目を操作する能力も、審査員の思考をコントロールする能力も持ち合わせていない。
だから、目標を立てるということは、ここ数年まったくしてこなかった。
年の終わりが目前に迫って、今年もそうやって過ごそうかと思ったけれど、ふと気がついた。
目標を立てることは意味がなくても、目測を立てることには意味があるのではないか。
人は、というか私は、不意に訪れたチャンスを掴むことが苦手だ。
不幸に関しては、直感に任せても回避できることが多い。だけどそれは、普段から不幸を予測して、最悪の事態に備えているからなのだろう。
そして幸福を掴めないのは、無意識のうちに「そう都合の良いことは起こらない」と考えてしまっているのかもしれない。
スピリチュアル系の話では「人に話すと実現する」というが、それはもしかしたら、言葉にすることで意識することになり、平等に訪れた機会や幸福を逃さなくなるのかもしれない。
準備をしていないと、せっかくの機会を逃してしまう。
「こんな上手くいくわけがない」
そう考えて行動が消極的になる。そして全てが無駄になる。
それはあまりにももったいないと、思う。他人事でもあるし、自分事でもある。
だからせめて、一年に一度ぐらいでいい。
来年起こりそうな「良いこと」を予測してみるのはいかがだろう。
夢を語れというわけじゃない。
理想を語れと言っている。
現在まで続く行動が、来年ごろにどのような結果を生み出すのか。
芽が出てから如雨露を買ったのでは、枯らしてしまうかもしれないから。