第8話 女刑事との取引
え? 1じゃない?
「ほんとに1じゃないんですか? 俺たちを、からかってませんよね?」
最初から警告するためだけに来たんじゃないだろうか。捜査に巻き込もうとしているのは、冗談なのかもしれない。そう思えてきた。
「からかってないよ。私の性格は、よく知ってるだろう」
説得力がある。笠井さんは、こういう局面で信用せざるをえない。
だけど数字の上端が縦棒なんだろう?
俺は京香に、
「ちょっと見せてくれないか?」
と頼んだ。京香のナンバーには1が入っているからだ。
14──1の上端は縦棒で、4の上端はΔになっていた。
そして1の上端と4の上端は、ちょうど水平になっていた。どっちかが上にでっぱってるわけじゃない。機械で書いたような字だから、笠井さんのもそうなっているだろう。
さらに十の桁の1は、きちんと中心からはずれていた。
真ん中に縦棒……縦棒……あッ!
「分かりました」
「お、やるな。書いてみろ」
俺は自信満々に、6と書き込んだ。そして、上端に「・」を打った。
「これです。その縦棒は、数字の一部じゃなくて、6と9を区別する記号です。口頭じゃなくて、わざわざ紙に書けって言ったのは、このためですよ」
どうだ、間違いないだろう。ニヤリとした俺に、笠井さんはひとこと。
「ハズレ」
えぇ?
「だったら、きゅ……」
「あと1回だぞ? よーく考えろよ?」
ぐッ、牽制された。9でもないのか?
ここで京香が助け舟を出してくれた。
「ねぇ、透、笠井先輩は最初に『数字の上端』って言ったでしょ。だから、これも数字の一部だと思うんだけど」
京香のアドバイスに、笠井さんもうなずいた。
「そうだ。ちゃんと質問を訊いていないのが悪い」
ぐッ……反論できない。俺は返答に窮した。
……………………
……………………
…………………
………………
「なんだ? ミス研の実力ってのは、こんなもんか?」
笠井さんは、あおるような言い方をした。悪気はないのだろうが、くやしい。
ひたいに汗を浮かべる俺のそでを、富美子が引いた。
富美子は、ちょっといじわるな笑みを浮かべて、こう言った。
「わたしが答えても、いいかい?」
「おば……富美子、分かったのか?」
「透が相談もせずに2回答えちゃったから、ちょっと厳しいけれど、だいたい」
「……何パターンかあるのか?」
「二択なんだけどねぇ……まあ9:1って感じかね」
確率のかたよった二択か──賭けてみる価値はある。
どのみち俺は、もうお手上げなのだ。京香も賛成した。
笠井さんは、
「へぇ、ちびっこに任せるんだ」
と煽ってきたけど、もうしょうがない。
俺は笠井さんの目を見つめ返した。
「富美子に託します」
笠井さんは表情も変えずに、富美子へ向きなおった。
「最後の1回だよ。よく考えな」
「もう考える段階じゃないねぇ。わたしの用意した答えは……」
富美子は、左手でパーをつくった。そして、右手のひとさし指をそえた。
指の数は1、2、3、4、5、6……6?
「それはさっき答えただろッ!」
「静かにしなって。まだつけくわえることがあるから」
富美子はボールペンを取り、名刺に数字を書き込んだ。
六
笠井さんは、フッと微笑んだ。今日、初めてみる笑顔だった。
「やるじゃないか……正解」
彼女は名刺をどけた。
……えぇええええええええッ!?
「やっぱりロッカーのキーじゃないじゃないですか」
俺のひたいを、笠井さんはひとさし指で思いっきり押し返した。
うしろのめりになって、椅子ごと倒れそうになる。
あわててバランスをとった。
「透は、半分正解してたんだよ。6と9の区別は必要だ。問題は区別する方法」
あ、そっか──俺は、ようやく理解した。
「6と9の区別を、点や下線じゃなくて、漢数字でやってるのか……」
「正解。おまえの洞察力も、まだまだだな」
ハァ……ほんとにその通りだ。ロッカールームをマジメに見ていなかった。
バカバカしいと思われるかもしれないが、探偵には致命的なミスだ。
笠井さんも、しょうがないなあ、という表情だった。
「不安の残る結果だが、50点くらいはつけてやる。協力をたのむ」
京香は胸をなで下ろした。俺もホッとする。
ここで笠井さんとの繋がりが切れたら、もう情報は入らないからだ。
「警察のほうでは、どれくらい調査してるんですか?」
笠井さんは、次のように説明した。おばあちゃんの死因は、窒息死。これは医師の見立てだから、間違いないそうだ。凶器がなにかは分からないが、寝具で窒息した可能性もあるらしい。
俺はその指摘に、かなりおどろいた。
「枕やシーツで窒息することって、あるんですか?」
「あるよ。特に乳幼児は多い。老人ホームでも、稀に事故がある」
そうか──だったら警察が捜査を打ち切るのも、納得できた。
と同時に、俺たちの捜査が先入観にとらわれていたこともわかった。
べつに特殊な凶器など捜さなくてもよかったのだ。
「笠井さんは、事故だとは思っていないんでしょう?」
「そこなんだよね」
笠井さんは半分溶けたかき氷をすくった。
俺もようやく、自分の皿がほとんどシロップ状になっていることに気付いた。
「寝具での窒息は、普通うつぶせで起こるんだ。だけど菅原富子の死体は、仰向けのままだった。私は、どうしてもそこが引っかかる」
杞憂かもしれないけどね、と、笠井さんはそう付け加えた。
「つまり……だれかに枕を押し付けられた、ってことですか?」
「いろいろ可能性はあると思う。濡れタオルをかぶせるって手もあるし」
曖昧模糊としてきた。事故死なのか、自殺なのか、他殺なのか。
判然としない。
「ま、それはおいといて」
笠井さんはロッカーキーをピンと弾いて、空中で華麗にキャッチした。
ポケットに突っ込み、俺を指差す。
「ここでひとつ取引だ」
「取引?」
俺は眉をひそめた。
「今回の件で、透が一方的に得してもらっちゃ困るわけ。ここまでは、私が情報を提供してるだけだろう。私のほうはなにもしてもらってない」
「一方的って……俺から、なにが欲しいんですか?」
分からないか? 笠井さんは、そう言いたげだった。
椅子にもたれかかると、手のひらをうえにして、上下に動かす。
「か、金ですか?」
「いや、カツアゲじゃないんだから……情報だよ、情報」
「なんのですか?」
「菅原富子に関する情報」
そうか……そういうことか……笠井さんが俺に近づいてきたのは、俺の推理能力を買ったというよりは──もちろん、テストをした以上は、俺の推理能力も買ってもらえているんだろうが──親族だからだ。
笠井さんは先を続けた。
「私が調査した結果、どうも菅原富子の過去について、調べないといけないみたいなんだよね」
その瞬間、カランと音がした。振り向くと、となりに座った富美子が、スプーンを床に落としていた。俺は、自分のスプーンを代わりに差し出した。
富美子は、
「悪いね、手がすべって」
と弁解した。
おいおい、大丈夫か? 運動能力は戻ってると思ったんだが。
俺がじろじろ見つめると、富美子は視線を逸らして、水を飲んだ。
笠井さんはそのアクシデントを気にせず、先を続けた。
「というわけで、私は警察で把握した情報を出す。透は、被害者のプライベートに関する情報を出す。これでいいね?」
「ギブ・アンド・テイクですか」
「まあ、親族に関する情報だし、イヤなら降りてもいいよ」
「降りるってことは、笠井さんがわの情報も……?」
「こっちだけ損をするわけにはいかないからね」
やれやれ。片足を突っ込んだ以上、引きずり込まれるをえないわけだ。
笠井さんに一から十までやられた感じで、さすがは本職だと思った。
とはいえ、やってることは違法だし、それに──
「後日、連絡をしてもいいですか?」
「ん? この場で即決できないの?」
できない。本人がとなりにいるんだ。おばあちゃんの個人情報を、俺が勝手に切り売りできるはずがない。とりあえず、了承をとる時間が欲しかった。
「ええ……祖母のプライバシーですし、ちょっと考えさせてください」
「ふぅん」
笠井さんは納得したのかしていないのか、よく分からない反応だった。
「出来る限り、早く連絡してくれ。私も暇じゃないからさ。べつの事件が入ったら、身動きがとれなくなる」
「分かりました。明日までには」
俺たちはこうして、ひとつの協定を結んだ。あとは笠井さんの身の上話──刑事になった動機や、どういう生活を送っていたのか──そういうことを、いろいろおもしろく聞かせてもらった。
「それじゃ、連絡はここにね」
笠井さんは、俺に名刺を渡した。そして伝票も取り上げた。
「いいんですか?」
「当然だよ」
かき氷の代金は笠井さんがもってくれた。
お礼を言いながら、俺はその連絡先をじっと見つめていた。