第3話 ほの白い壁のむこうがわで
老人ホームへむかう坂道を、ゆっくりとのぼる。
お日様は高い──午後2時。一日で一番暑い時間帯だ。
「オーイ、富美子、待ってくれ」
ひたいの汗をぬぐいながら、俺はひざを落とした。
サンダル履きで先を行っていた富美子は、やれやれとふり返った。
「だらしないねぇ、最近の若いひとは」
「老人ホーム直行のバスがあるのに、歩いてくるやつがあるか」
「むかしはね、ひと駅ふた駅くらいなら、みんな歩いてたもんだよ」
「むかしはむかし、今は今なんだよ」
俺はひざに両手をあて、肩で息をした。空を見あげる。
なるほど、悪くはない。蒼天に白い雲がのぼって、まさに夏休みって感じだった。
いつからだろう。こんな気分を忘れていたのは。
「ひさしぶりに歩けるんだから、わたしは歩かせてもらうよ」
そう言って、富美子は駆け出してしまった。俺はぐいっと背伸びして、一息ついてからあとを追った。右手に町並みと海を、左手に小高い丘をのぞむ。まさに瀬戸内海の風景。
I市と呼ばれるこの町が、俺は大好きだ。
「透、おいて行くよ」
「俺がいないと、入れないだろ」
ようやく老人ホームの敷地にたどりついた。夏日に育った緑色の芝生、真っ白な小石を敷いた一本道。そしてそのさきに、これまた真っ白な、二階建ての洋風住宅がみえた。
「透、学生証は持ってきたかい?」と富美子。
「ああ」と俺は答えた。
ふたりで白い小径を進んで、正面玄関にはいった。すぐ左手に受付があった。こどもふたり──俺も高校生だから、こども扱いだろうな──にもかかわらず、職員さんの顔色は悪かった。いや、悪いなんてもんじゃない。目の下にクマができて、顔は土気色をしていた。ウェーブがかった長髪の、二十代前半の女性だった。
それがまた、幽霊かなにかにみえるのだ。
「なんの御用でしょうか……?」
女性は、ほんとうに幽霊みたいな声で、そうたずねた。
「面会に来ました」
「身分証は、お持ちですか……?」
俺が学生証をみせると、職員さんはにっこりともせずに、
「面会のお相手は、どなたで……?」
とたずねてきた。
「太宰さんです」
「太宰源五郎さんですね……そちらへお名前をご記入ください……」
俺たちは、受付の訪問者名簿に名前を書き込んだ。ソファーで待っていると、みじかく頭を刈り上げた、浴衣姿のおじいさんがあらわれた。右手をふところに入れて、スリッパを鳴らしながら、左手をこちらに振った。
「透、よく来たな」
このひとが太宰源五郎。富美子の旧友だ。
太宰さんは俺の背中をたたいて笑った。昔たたかれたときよりも、力がなかった。
「学校は、どうだ? 彼女はできたか?」
「源五郎さん、今は夏休みですよ」
と俺がはぐらかせば、太宰さんはニヤリと笑って、
「おまえ、夏休みが一番大事だろうが? 違うか? 女と海なんか行ってな……おッ」
と富美子に気付いた。
「お嬢ちゃん、透の妹さんかい?」
「従姉妹よ」
「へぇ」と太宰さんは目を丸くした。
「オレはな、太宰源五郎って言うんだ。こうみえて、むかしはワルでなぁ。鉄砲玉みたいなことして……」
いつもの昔話だ。太宰さんは湾口で働いていて、かなり無茶をしていたらしい。だけどそれは全部合法的な話で、鉄砲玉なんていうヤクザみたいな言い方は、ただの誇張──すくなくとも町内会のひとたちは、そう言っていた。
「でな、その野郎が言うじゃねぇか。てめぇ、この界隈で俺のつらぁ……」
長くならないように、俺は本題へ入った。
「ゆっくり話をしたいんです。人目につかない場所はありませんか?」
俺の声音が真剣だったせいか、太宰さんもマジメになった。
「どうした? やっかいごとか?」
「訊きたいことがあるんです」
太宰さんはくわしくたずねず、俺たちを老人ホームの裏手に案内してくれた。そこは北向きで、夏場は避暑地になっているようだった。ほかにも何人かの老人が、思い思いの服装で、涼をとっていた。太宰さんは、そのなかでも一番はしっこの、ちょっとだけ町のみえるベンチに腰をおろした。
「で、オレに用事ってなんだ?」
「祖母が殺されたのは、ご存知ですよね?」
ああ、それね、と言った様子で、太宰さんはおおきくかぶりを振った。
「探偵ごっこのつもりか? 感心しねぇな」
「警察は事故か自殺だと思って、捜査を真剣にやっていません」
「だろうな……今日だって、サツはひとりも来てねぇ」
太宰さんは、そこでひと呼吸おいた。
「だがよ、老人ホームで人が死ぬってのは、日常茶飯事みたいなもんだ。オレたちは片足どころか両足の臑まで、棺桶に突っ込んでるんだからよ。先月だって、死んだのは富子さんだけじゃねぇ。もうひとり、くたばっちまったやつがいる。そいつは飯を食いたがらなくてな。半分自殺みてぇなもんだ」
夏場だというのに、俺はうっすらと寒気を感じた。
「太宰さんは、祖母が自殺したと思ってるんですか?」
俺の質問に、太宰さんの顔がくもった。
返事がない。俺はもういちど、
「太宰さん?」
と声をかけた。
「なあ、透……人間、散りぎわが大事なんていうが、きれいに散れる人間なんて、そうそういやしない。たいていは川底でバタバタやって、泥水になっちまう……分かるか?」
俺は、分からないと答えた。
「おまえさん、そういうところが富子さんに似てるよなぁ。あのばあさんも、自分が納得できないことは『分かんないね』と一蹴してたよ……とにかく、いくら聡明な富子さんでも、齢には勝てなかったってことだ。今年になってから富子さんは、俺の顔も分かんなくなってた。挨拶したら、『どなたさまですか?』だと……悲しかったね」
太宰さんは、ほんとうに淋しげな笑いを浮かべた。
俺は、富美子の顔をみることができなかった。
「わりぃ、変な話しちまったな」
いえ、と俺は気をとりなおして、
「つまり太宰さんは、祖母が自殺していてもおかしくないと、そうお考えなんですね?」
と確認を入れた。
「そうは言ってねぇよ」
「じゃあ、今の話は、なんなんですか?」
太宰さんは急に腰をあげると、俺の肩をたたいた。
「深入りしちゃいけないことが、世の中にはたくさんあるってことさ……じゃあな」
面会は、それっきりだった。
太宰さんは裏口から、老人ホームのなかへ消えてしまった。
そよ風が足もとを通り過ぎて、芝生に立つ雑草の茎をゆらした。
「透、ちょっと現場を調べてみないかい?」
富美子の声で、俺はようやく我にかえった。
「現場?」
「103号室だよ。わたしが死んだ場所」
「あそこは、受付のまえを通らないとダメだろう」
俺はおばあちゃんのお見舞いにきたときのことを、かろうじておぼえていた。
「そうだったかい?」
「富美子……おまえ、ほんとに記憶がないんだな」
俺はそう口走ったことを、後悔した。
「ごめん、今のはナシで……」
「いや、いいんだよ。源五郎のさっきの話だって、わたしはおぼえてないんだからね……それより、なんとか個室に入れないのかい?」
俺たちは、あれこれ策を練った。そしてある作戦をえらんだ。
玄関にもどった俺たちは、受付のお姉さんに声をかけた。
「すみません」
「もうお帰りですか……?」
「ちょっとこの子、お腹の具合が……」
俺は、腹をかかえている富美子に視線をむけた。
「いたいよぉ」
受付のお姉さんは、
「そこを左に曲がってまっすぐ行くと、トイレがありますよ……」
と教えてくれた。
「ありがとうございます」
左に曲がると、通路の奥に階段とエレベーターがみえた。そしてそのちょっと右側にトイレがあった。車いすマークがついていた。
俺たちはトイレを無視して、そのひとつ奥にむかった。
103号室──その先のろうかには、はめ込み式の窓がひとつだけ。
行き止まりになっていた。ようするに端部屋だ。
「だれもいないといいんだが……」
新規入居者がいないことを祈って、俺はドアノブを回した。
「失礼します……」
だれもいない。南向きの、町と海が一望できる、風光明媚な空間だった。ひとつ難点があるとすれば、夏場は日射しが強いことだろうか。空き室だから、空調がゆきとどいていないらしく、蒸し暑かった。
室内は俺が最後に来たときと、ほとんど変わらなかった。入り口の正面に、大きな窓がついている。その手前にベッドがあって、向かって右が枕だ。そして、その枕からみえる位置に、テレビがおいてあった。とはいえ寝ながら観るものではないらしく、テレビはやや斜めになっていて、そのまえに椅子がおいてあった。
ほかには小さなクローゼットと、用途不明のスチール棚があった。なくなっているものと言えば、車いすと点滴くらいだ。
「わたしは、どこで死んでたんだい?」
「あのベッドのうえだ」
窓辺のそばにある白いベッドを、俺は指差した。
「実際に見たのかい?」
まさか──いくら親族とはいえ、殺人現場を直接案内してもらったわけじゃない。富美子の死に顔を見たのは、死体安置所の棺桶のなかだった。
富美子はひたいに手をあてて、念入りに思い出しているようだった。
「……たしかに、ここで寝ていた気がするね」
「死んだときの記憶があるのか?」
ない──富美子は、そう答えた。残念なことだ。
犯人の顔を見ていないのだろうか。
「それにしても、なかなかいい部屋だね」
「富美子の年金を、全額突っ込んでたらしいからな」
ちゃんと貯金もあっただろうと、富美子はやや不満そうな顔をした。
それからベッドに飛び乗って、ごろりと横になった。
「おい、勝手に寝るなよ。シーツが皺になるだろ」
「……思い出せないね」
同じ格好をすれば、記憶がよみがえるとでも言うのだろうか。
俺はちょっぴりあきれた。
「ベッドから降りてくれ。見つかったらマズい」
「ちょっと待っておくれ」
富美子は首を曲げて、薄型のテレビを眼差した。
「どうした? テレビが気になるのか?」
「……夜中になにか観てた記憶があるね」
富美子はベッドから飛び降りると、今度は肘掛け椅子に座った。
そして、おもいっきり背もたれによりかかった。
「いい椅子じゃないかい」
「夜中になんのテレビを観てたんだ? バラエティか?」
「んー……思い出せないね。だけど、夜の10時とか11時だった気がするよ」
「10時? ……おばあちゃん、もっと早い時間に寝てなかったか?」
俺の記憶ちがいでなければ、実家でのおばあちゃんは9時には布団へ入っていた。
痴呆症になってから生活スタイルが変わった、とも考えられるが──
それに、深夜テレビを観るという習慣もなかった。
勘違いじゃないのか。そう尋ねたが、富美子はそんなことはないと言った。
「夜中になんのテレビを観てたんだ? 深夜アニメ?」
「そんなわけないだろうに」
「年をとると、こどもにもどるって言うからな。一周回って、アニメが好きになってた可能性もあるんじゃないか?」
「わたしが殺されたのは、何時ごろなんだい?」
「深夜0時から1時のあいだらしい」
ただこれも警察からの伝聞で、確証がもてなかった。
「透、ちょっと抱き上げて」
「なにを?」
「わたしを、よ」
どうやら目線の高さが違うと言いたいらしい。富美子は椅子からおりた。
俺が代わりに座って、富美子をひざのうえに乗せてやる。むかしは俺も富美子の──いや、富美子はこの幼女だな──富子のひざのうえに乗せてもらっていた。
富美子はスリッパをパタパタさせて、もうすこし持ち上げろと命じた。
「どうだ? なんか気づいたか?」
「……邦画をみてた気がする」
邦画? 俺はピンとくるものがあった。
「ヤクザ映画か?」
「任侠映画って言いなさいよ」
「どっちでもいいだろう」
富美子は、よくないと言った。俺はてきとうに訂正して、さきを続けた。
「おば……富美子は、任侠映画が好きだったよな? それじゃないのか?」
深夜放送なら、ヤクザ映画のリバイバルを流していても、おかしくない。
それにしても、なんでヤクザ映画が好きだったのだろう。実家でそれを観ながら涙ぐんでいるときがあった。暴力映画に涙ぐむシーンなんてあるのだろうか。
そりゃ映画の好みなんてひとそれぞれだが、いまいちピンとこなかった。
「んー、たしかに、ひとが死んでた気がするね」
俺は新聞をさがした。ホルダーには、直近のものしかなかった。
「あとでうちの新聞をしらべてみよう。なにか分かるかもしれない」
そのときだった。突然、京香の声がした。
「ちょっと、ふたりとも、そこでなにしてるのッ?」
俺たちは飛び上がった。
「京香ッ!」
「透、なんでここにいるの?」
それはこっちの台詞だ。
京香はすこし気まずそうな顔で、俺を手まねきした。
「なんだ? ここで言えよ」
「いいから」
京香は、やたらと富美子のことを気にしているらしかった。しかたがないので、俺は京香の誘導にしたがい、103号室をあとにした。共同談話室へ移動する。
「どうした?」
「もしかして、殺人事件のこと調べにきたの?」
俺はちょっとおどろいてから、そうだ、と答えた。
そして京香の顔色から、彼女がおなじ目的でここに来たことに気づいた。
「そうか……さっき俺の家に来たのは、そういうことだったのか」
「ミス研の仲間として、透にも協力して欲しかったのよ。だけど冨美子ちゃんがいるから切り出せなくて……まさか独自に調査してるとはね」
「それはこっちの台詞だ。なんで京香が、俺のばあちゃんの死について調べてるんだ?」
京香は答えた。
「となりに住んでる幸子さんのためよ」
「サチコさんってだれだ?」
「あたしの家のよこに、アパートがあるでしょ」
「え? あれって、廃墟じゃないのか?」
「失礼ね……北風荘っていう、れっきとした賃貸アパートよ。そこに臼井幸子さんっていう、女のひとがいるの。そのひとは、看護学校を出てから、ここで働いてるの」
俺は、受付にいた女性かとたずねた。
「あら、するどいわね。名札をチェックしてるなんて、さすがはミス研だわ」
そういうことにしておこう。カンで言ったまでだ。
「そのサチコさんってひとが、どうかしたのか?」
「じつはね、疑われてるの」
「疑われてる? なにを?」
「殺人の容疑に決まってるでしょ」
俺は思わず、「はぁ?」と言ってしまった。
「はぁ、じゃないでしょ、はぁ、じゃ」
「警察が犯人に目星をつけたのか?」
「ちがうわよ……会社から疑われてるの」
京香の説明によれば、サチコさんは、富美子が死んだ日の宿直だったらしい。なんらかの事情で、彼女に一番濃厚な嫌疑がかかっているとのことだった。
「その事情っていうのは、なんだ?」
「それをいまから聞きに行くのよ……ねぇ、一緒に来てくれない?」
京香は、すこし不安げな様子だった。いくらミス研の副会長、剣道部の主将とはいえ、これは殺人事件だ。女子高生なら、だれだって不安になるに違いない。これで富美子が当の被害者だなんて告げたら、腰を抜かすかもしれないな。それとも、最初から信じてもらえないか。
「いいけど、俺は富美子のめんどうを……」
「わたしはかまわないよ」
ふりかえると、富美子が無邪気な笑顔で、俺たちを見上げていた。
「と、富美子ちゃん……」
「京香ちゃんも、みずくさいわね。わたしに任せなさい」
そう言って富美子は、受付のほうへ走り出した。
俺と京香は顔をみあわせて、それに従うほかなかった。