第20話 さようなら、富子ちゃん
夕日が、俺たちの背中を照らす。富美子を先頭に、俺たちは川の土手を、東へと歩いていた。まるでこれから、横浜にでも旅立つような、遠い遠い思い出をたどるような、そんな足取りだった。
真犯人のところへ──
俺には、だれが犯人なのか分かっていない。片桐英二は死んだ。だから、これから会いに行く人物は──だれだろう? 富美子は、どうやって殺されたのだろう?
短い夏休みのあいだの記憶が、走馬灯のように駆け巡る。京香のジュース、老人ホームの密室、海水浴場のナンバー、片桐英二の遺書、かくれんぼ、それに、数々の証言。すべてを繋ぎ合わせるピースを、俺は見つけられないでいた。
しばらく歩いていると、遠くに軽トラックがみえた。あれは志摩涼子が、横浜へ向かうためのトラックだ。そうか、だったら──俺は固唾をのんだ。志摩涼子は、どうやって富美子を殺したのか。それは、富美子の口から語られるだろう。もしかすると、怨恨だったのかもしれない。
「富美子、なにかあったら、俺に任せて逃げろ」
「……」
富美子は返事をしなかった。その背中が、夕焼けに染まっている。志摩涼子と会って、どうするつもりなのか。糾弾するのか、説得するのか。警察に自首してもらうには、密室トリックを暴かないといけない。
志摩さんは、ちょうど運転席に乗るところだった。俺たちには、どうやら気付かなかったようだ。それに続いて、橘くんが、助手席に乗ろうとしていた。そうだ。万が一のときは、橘くんも助け出さないといけない。俺は彼をどうやって確保するか、策を練った。
そして橘くんのほうも、俺たちに気付いた。
「富美子ちゃん」
橘くんは助手席から飛び降りて、こちらに歩いてきた。ちょうどトラックの荷台の後部で、俺たちは出会った。志摩さんと橘くんを引き離すチャンスだ。俺は一歩まえに出て、橘くんに話しかけようとした。適当にごまかせばいい。お別れのプレゼントがあるとか、なんとか。
その俺を、富美子は引き止めた。
いつになく真剣で悲しげな顔が、そこにはあった。
「英二さん……会いに来たよ」
俺は全身を打たれたように立ち尽くした。
橘真一は、およそ子供らしくない、それでいて無邪気な笑みを浮かべた。
「やっと、気付いてくれたんだね」
俺はなにも言えず、富美子と橘くんの会話に、耳を澄ませた。
「いつ気付いたの?」
「昨日の夜だよ」
富美子は、ひと呼吸おいた。肩を落とし、視線を真っ赤な地面に向けた。
「密室の謎……犯人が、どうやって老人ホームに入ったのか、どこに隠れていたのか、どうやって脱出したのか……この3つの謎について考えていたら、ふと気付いたんだよ……わたしたちは、その方法をすべて目撃しているって……子どもは素通りな玄関、子どもなら入れるスチール棚、そして、30キロ以上、40キロ未満の段ボール箱……そう、ちょうど小学生の体重だね。すべてが【子ども】というキーワードでつながったとき、わたしにはトリックが……そして、犯人がだれなのかも、見えてしまったんだよ」
富美子は、ふたたびひと呼吸おいた。
「事件の全体は、こうだね。英二さんは先月の15日、わたしに会いにきた。だけど、わたしはなにも覚えていなかった。ショックを受けた英二さんは、山で首を吊った。生まれ変わるなんて、微塵も考えていなかったんだろうね。わたしだって、こんなふうに子どもにもどれるとは、生涯で一度も考えたことがなかったから……でも、英二さんは生まれ変わった……わたしより先に……そして願い通り、認知症のわたしを殺害した……トリックは簡単さ。だれかの孫のフリをして建物にはいり、スキを見てわたしの部屋のスチール棚に隠れた。それから夜になって、わたしを枕で窒息死させたあと、空の段ボール箱に入り込み、内側から封をした。あとは、後藤さんに運送されている途中で、こっそり抜け出したんだよ」
橘くんは──片桐英二は、うれしそうに笑った。
「さすがは富子ちゃんだね……昔と同じだ。探偵小説の犯人を当てるのは、きみが一番うまかった」
「あなたが英二さんだって知ってるのは、志摩さんだけかい?」
「太宰さんもだよ。彼には、段ボール箱を用意してもらわないといけなかったから」
俺は関係者の繋がりを、ようやく理解した。橘くんは、自分が片桐英二であることを、志摩さんと太宰さんに納得させて──そう、富美子が、俺を納得させたように──今回の事件に協力してもらったのだ。太宰さんが空の段ボール箱を用意して、脱出経路を作り、普段はキッズハウスを隠れ家に使っていた。こう考えることで、志摩さんと太宰さんが、なぜあれほどまでに片桐をかばったのか、その理由もみえた。自分よりも未来のある人物を優先したのだろう。
橘くんは、俺にむきなおった。
「透お兄さんには、悪いことをしました。あの夜、風船人形を操っていたのは、僕です」
「そっか……」
そうだよな。犬にやらせていたなんて、ムリがあり過ぎる推理だ。
俺は苦笑いした。
「すっかり騙されたよ」
俺は片桐本人が流した情報に、まんまと乗ってしまったわけだ。俺に片桐英二の訪問をリークしたのは、だれか。橘くんじゃないか。橘くんはあの風船トリックで、片桐が自殺したと考えて欲しかったのだろう。そして今日、横浜へ旅立とうとしている。
「英二さん……どうして横浜へ行っちゃうんだい?」
「僕の里親になってくれるひとが、横浜にいるからだよ。だけどやっぱり……」
橘くんはじっと富美子を見すえた。
「やっぱり、きみを好きになった場所だから」
富美子は橘くんの──片桐英二のそばへ歩み、そっと抱き寄せた。
「だったら……だったら、この町にいておくれよ。わたしたち、またやり直せるから……」
片桐は富美子の髪をなでて、そっと引き離した。
「英二さん?」
「富子ちゃん……僕たちは、もうやり直せない」
富美子は、その場に崩れ落ちた。ぽたぽたと、地面に涙がこぼれる。
「あのときのことを恨んでるんだね? わたしが5年も待たずに、他の男と結婚したから……」
「違うよ」
片桐は、富美子の腕を引いた。
「違うんだ……富子ちゃんのことを……あのとき、ひとを殺してしまってから、富子ちゃんのことを一度も恨んだことはないよ」
「じゃあ、どうして……?」
「僕はね……富子ちゃんの願いを聞いてから、思ったんだ……僕は犯罪というかたちでしか、愛するひとを守ることができない……それは、ほんとうの愛じゃないって」
片桐は一歩引いて、夕焼けにむかい、その両手を広げた。
「前世とおなじなんだ。ぼくの手は、こんなに汚れている」
血のように赤い、それでいて温かい赤が手のひらいっぱいに広がった。
「違うよ……英二さんは、わたしのために……」
片桐少年は富美子を抱き寄せ──そして、口づけをかわした。
時が止まったかのように、町と海が、静かに凪いだ。
少年はくちびるを離してほほえんだ。
「愛していたよ、前世から、ずっと」
少年はトラックの荷台に飛び乗り、志摩さんの名前を呼んだ。
「志摩さんッ! 車を出してッ!」
排ガスが、俺たちの視界をさえぎる。タイヤの軋む音。
俺が目を開けたとき、富美子は走り出していた。
「英二さんッ! 行かないでおくれッ!」
追いつけぬ車のスピード。少年は荷台から体を乗り出して、両手を振った。
「僕らは老人ホームにいて、ほんとうは楽しい夢をみているだけかもしれないね」
「違うッ! これは夢じゃないッ! 夢なんかじゃないッ!」
自分に言い聞かせるように、富美子は叫んだ。
トラックは国道へ向かう。俺はあわてて追いかけ、富美子を引き止めた。
「ッ!?」
俺は右腕に、強烈な痛みを感じた。富美子の歯が突き刺さる。
「はなせッ! はなすんだよッ!」
「ダメだッ! 国道に出るッ!」
富美子は腕のなかで暴れながら、遠ざかる少年に叫びかけた。
「50年……50年待ったんだよ……どうして……どうして……ッ!」
富美子は泣いた。俺の人生のなかで、最も心を動かされる泣き声だった。
トラックは赤く染まり、東の地平線へと消えた。
なにもかも台無しにして──愛だけを残して。