第2話 幼馴染の財布のありか
「冷蔵庫の中だろう?」
俺は苦笑しかけた。そんなところに財布があるわけない。そう言いかけて、京香のほうを振り返ると、京香はペットボトルをにぎりしめたまま固まっていた。
「どうした、京香? ……まさか、合ってるわけじゃないだろ?」
「す、推理の過程をきかせて」
合ってるのか? 京香の反応からして、そうとしか思えなかった。
おばあちゃんはアイスクリームの棒をくわえると、しばらく天井を見あげた。
「どこから始めようかね……時間帯の特定からかい」
俺は、
「時間帯? なんのだ?」
とたずねた。
「財布が紛失した時間帯に決まってるだろうに」
意味不明な返しをくらった。なんのことかさっぱり分からなかった。
財布が紛失した時間帯だって?
そんな情報、京香は1ミリも口にしなかったはずだ。
おばあちゃんは、さっそく解説を始めた。
「京香ちゃんはこう言っただろう。『家の中をひとりで小一時間、捜しまわるハメになった』って。つまり、家のなかには京香ちゃんしかいなかったってこと。財布は大事なものだから、ふつうは家族みんなでさがしてあげるね。じゃあ、家のなかに京香ちゃんしかいない時間帯は?」
「……午後だな」
と俺は答えた。朝は家族がいる。両親がいそがしかったとしても、シスコンの弟が手伝わないわけがなかった。弟がサッカーの練習でいなくなるのは、午後。同様の理由で、弟と両親が帰ってくる夕方以降も除外してよかった。
「透にも、全体が見えてきたんじゃないかい?」とおばあちゃん。
俺は正直に答えた。さっぱりだ、と。
「時間帯が特定できたから、どうだって言うんだ?」
「さて、ここで問題。京香ちゃんは、なぜ家のなかをさがしたの?」
俺は沈黙した。質問の意味が理解できなかったからだ。
しかたがないから、無難なことを言っておく。
「家のなかでなくしたからじゃないのか?」
「正解。外じゃなくて家のなかでなくしたと、彼女が判断した理由は?」
俺はハッとなった。おばあちゃんの質問は、核心をついている。財布をなくしたら、ふつうは屋外で落としたと心配するはずだ。すくなくとも、さがしに行くだろう。さっきまでいたコンビニとか、学校までの経路とか、いろいろ。京香は午前中に部活があったのだから、通学路か部室をさがそうとするのが容易に想像できた。外で拾われたときのほうがリスクが大きいということもある。
だが、京香はそれをしていない。
「たぶん……最後に家のなかで見かけたからだと思う」
「そうそう、いい推理ね。京香ちゃんは帰宅してから一度、自分の財布をチェックしているんだよ。そしてそのあとで見当たらなくなったから、家のなかにあると確信したってわけね。ここで、時間帯が重要になってくるでしょう」
「ここで? ……どういうことだ?」
「自宅で財布を確認する機会って、そんなにある? しかも2度、ね」
「2度っていうのは、どういうことだ?」
「1回目は、家のなかで財布をチェックしたとき、2回目は、家のなかで財布をなくしたと気付いたときだよ。だから最低で2度、財布に手を伸ばす機会があった」
これも合理的だ。非の打ちどころがなかった。
俺はさまざまな可能性を考えた──が、どれもあまり現実的ではなかった。例えば俺は今日、自分の財布を一度も確認していない。家のなかで金を使うことがないからだ。
おばあちゃんが小学生に戻ったとはいえ、こづかいをあげる気もなかった。
俺はギブアップして、
「そもそも、京香はなぜ財布を2回もチェックしたんだ? そこが分からない」
とたずねかえした。
「その理由、透はもう目にしてるんだけど」とおばあちゃん。俺はくびをひねった。
「ちょっと記憶をたどってごらんなさい」
俺は1分ほど考えて、ようやくひざを打った。
「そうか、シール台だッ!」
「正解。京香ちゃんは、財布にシール台を入れていた。ジュースを飲んで、懸賞シールをはがし、シール台に貼ろうとした。これが、自宅で財布に手を伸ばした動機……京香ちゃん、ここまではいい?」
京香は困惑したような表情で、「合ってる」と答えた。
俺もうなずきながら、
「財布がジュースと関係していたのは、俺にも納得がいった。だけどそこから冷蔵庫っていうのは、ちょっと飛躍し過ぎていないか? ジュースと冷蔵庫。連想ゲームではありえる組み合わせだが、財布と冷蔵庫はそうじゃない。もうワン・ステップ必要だ。ここは説明できるのか?」
とたずねた。
「もちろん簡単だよ。なんでジュースをおごってもらえたと思ったんだい?」
俺は、目のまえにあるペットボトルを凝視した。
そして、なんて間が抜けているんだろうと、自分をののしりたくなった。
「京香、おまえ……買いだめしたな?」
京香はすこし恥ずかしそうに、首をたてに振った。
「おば……富美子、ちょっと俺にも推理させてくれ」
「いいよ」
俺はひと呼吸おいて、ここまでの情報をまとめた。
「京香は普段、こんな布袋を持ち歩いていない。このジュースを入れるためだけに、わざわざ持参したってことだ。だからジュースはコンビニじゃなくて、自宅から持ってきたことになる。どうして自宅に、たくさんジュースがあるのか? 買いだめしたからだ。景品目当てでな」
京香がここでわりこんだ。
「待って、透の……いえ、富美子ちゃんの推理かもしれないけど、ひとつだけ突っ込ませてもらうわ。どうして買いだめって断言したの? お中元とかも、ありうるでしょ?」
「それはない。京香はさっき、シールの枚数をかぞえて、『マズったわ。一本多い』って言っただろう。他人からのプレゼントなら、あんな発言は出ない」
「マズったわ、一本多く持って来ちゃった、かもしれないでしょ?」
「それもない。枚数をどうしても合わせたいのなら、なんでわざわざ俺の家に持ってくるんだ? 家で全部シールを剥がして、貼っておけばいいだろう? 『マズったわ。一本多い』っていうのは、『一本多く買っちゃった』以外に、解釈のしようがないんだ。京香が景品のために自分で買ったのは明白なんだよ」
「なるほどね」と京香は言って、そのかたちのよい眉を持ち上げた。
俺は続きを考える。
「京香は、ジュースを自分で買った。だから……だから……」
だから、どうしたんだ? 俺の思考の糸は、そこでぷっつりと切れてしまった。
俺がもごもごしていると、おばあちゃんはため息をついて、
「ほらほら、お母さんの手伝いしないから、そういうことになるのよ。想像力不足」
とつぶやいた。
「手伝い? 俺が手伝いをサボってるのと、どういう関係があるんだ?」
「透は毎日帰って来たら、靴を脱ぎ散らかして自室に向かっちゃうでしょ。だから続きを推理できないの。よく考えてごらんなさい。女子高生が部活の帰りに、重たいジュースを炎天下のなか運ぶ。ふらふらになって帰宅して、いきなり自室にむかうの? ジュースを持って?」
そうか……俺は息がつまるのを感じた。
推理小説で真相にたどりついたときに起こる、アハッ体験みたいなものだった。
「そうだな……むかうのは台所だ。ジュースを冷蔵庫にいれないといけない」
「正解。全部つながったね。まとめるよ。京香ちゃんは先日、部活の帰り、ジュースを大量に買い込んで帰宅した。ふらふらになって台所へむかい、ジュースを冷やすために全部冷蔵庫へ押し込んだ。のどがかわいてて、その場で一本飲む。シールを貼る。このとき京香ちゃんは、自分がまだ財布を持っていることを確認した。ついでに冷蔵庫のジュースが足りているかも確認した。それから自室にもどって、今度は3時のおやつに一本飲む。またシールを貼ろうとすると、財布がない。大慌てで自宅をさがすハメになって……」
「それもこれも、暑さにやられたあたしは、冷蔵庫のジュースの本数を確認したあとで、うっかり財布をそこにしまっちゃったわけ……はいはい、そのとおりです。正解よ」
降参した京香にむかって、おばあちゃんはにっこりとほほえんだ。
「わたしにかかれば、こんなものね。亀の甲より年の功ってやつ?」
おばあちゃん、そこで年齢に言及するな。
「富美子ちゃん、あなたすごいわね。名探偵小学生? だれかさんとは大違い」
「おい、俺も半分くらいは合ってただろう?」
「半分? 三分の一くらいじゃなかった?」
俺はあまり強く言えなかった。冷蔵庫はまったく思いつかなかったし、財布がまぎれ込んだ経緯も、まったくみえていなかった。俺が自分で推理できたのは、京香がジュースを買いだめしたということだけだ。
三分の一どころか、四分の一くらいだろう。
こうして推理合戦に負けた俺は、京香のきついお説教をくらってしまった。とはいえ、ミス研のレポートのネタはできたわけだ。感謝しなくちゃな。もっとも、京香が来た理由はよく分からないまま──幼馴染だから、ぶらりと俺の家に寄ることはあったが、そのときでもたいていは用事があった──その場はおひらきになった。
「それじゃ、またね」
京香はのこりのペットボトルをかついで、玄関をあとにした。
それを見送った俺の背中に、おばあちゃんが声をかけてくる。
「京香ちゃん、美人になったわねぇ」
「そうか? むかしと変わらないぞ?」
俺はそう言ってから、おばあちゃんの顔を、じろじろとながめた。
「どうしたんだい? アイスでもついてるのかい?」
「いや……なんていうか……おばあちゃん、むかしはマジで綺麗だったんだな」
「あのねぇ……まえからそう言ってるだろうに」
たしかに、おばあちゃんは生前から、「わたしも昔はモテたんだよ」なんて、気取ったことを言うのが口癖だった。俺はてっきり冗談だと思ってたんだが、こうして若いころの実物をまえにすると、まちがいなくモテただろうな、と感じる。小学生の容姿でそうなのだから、成長したらどれだけ美人になるのだろうと、想像をふくらませてしまいそうだ。
「そのDNAは、俺にたどりつくまえに、いったいどこへ行ったんだろうな?」
「なに? ディーエヌなんだって?」
「いや、なんでもない……」と俺はごまかして、話を本題へもどした。
「おばあちゃん、それだけ推理力があるなら、今回の事件だって解決できるだろ」
「今回の事件って、なんだい?」
「殺人事件だよ。ほかになにがあるんだ?」
おばあちゃんは、くちのまわりについたアイスをぬぐい取って、「そうねぇ」と、あまり乗り気でないような返事。つい俺は、「自分が被害者だろ」と言ってしまった。
「でもねぇ、こうして若返れたんだし、むしろ感謝すべきなんじゃないかねぇ」
「あのなぁ……町内に殺人犯がいるんだぞ? おばあちゃんだけを狙ったとはかぎらないんだ。だれでもよかったのかもしれない。無差別殺人だったら、どうする?」
「そりゃ警察の仕事だろうに」
「警察は、あまり真剣に捜査してないんだ」
俺のひとことに、おばあちゃんの目がするどく光った。
「それはまた、どうしてだい?」
「事故の可能性があると思ってるんだ。あるいは……その……」
俺は口ごもった。
「なんだい、はっきり言いなさいな」
「……自殺の線でも捜査してるらしい」
「自殺ぅ? なんでわたしが、自殺しないといけないんだい?」
「介護苦だよ、介護苦」
周囲にめいわくをかけないよう、老人が自殺する。この超高齢化社会においては、めずらしくもない現象だった。
「透は、わたしが自殺したと思ってるのかい?」
「そう思ってないから、こうしておばあちゃんに協力を頼んでるんだ」
「なるほどねぇ……ただの好奇心じゃないわけだ」
あたりまえだ。ミステリは好きでも、ほんものの犯罪はきらいだった。どこそこで殺人事件が起きたら、人並みの恐怖は感じるし、かわいそうだとも思う。へぇ、殺人か、これはおもしろそうだ、なんて探偵気質は、俺のなかには備わっていない。
だが、おばあちゃんのなかには、そういうなにか──常人とかけ離れたものがあるような気がした。いまにかぎったことじゃない。むかしから奇人で有名だった。「女にしとくのはもったいない」なんて、今の時代じゃだれも言わないようなことを、俺は老人クラブでよく耳にしていた。
「まあ、わたしも犯人に興味がないわけじゃないよ」
「だろ? おばあちゃんが殺される理由なんて、全然ない。無差別殺人だと思ってる」
俺がそう言うと、なぜかおばあちゃんは、一瞬だけ黙りこんだ。
「おい……まさか、心当たりがあるのか?」
「ん? なに言ってるんだい。わたしがうらみを買うようにみえるのかい?」
怨恨……さすがにないか。うちは母さんとおばあちゃんの仲もよかったし、晩年はボケていたとはいえ、家族に苦労をかけたこともなかった。老人ホームにはあっさり入ってくれて、家に帰りたいなどと、ダダもこねなかったのだ。近所付き合いも良好。町内会の世話役を務めたこともある。これについても町内会長は「富子さんが男なら、わしなんか会長にならんのだがね」と言っていた。
「それじゃ、わたしがひと肌、脱ぐことにするよ」
その意気だ。俺は出掛ける準備をする。
二日も着っぱなしのジャージだと、さすがに恥ずかしいものがあった。
「おばあちゃんは、その服でイイか? 靴は、俺がこどもの頃のサンダルしかないぞ?」
俺の背中に、かるい蹴りがはいった。ふりかえると、おばあちゃんはアクション映画のヒロインみたいなポーズをとっていた。
右足を軸にして、左足を鶴のように折り曲げている。
カンフー映画かなにかかもしれない。
「そのおばあちゃんっていうのは、いまから禁止だよ。富美子さんとお呼び」
「わかったよ、富美子」
「さんをつける」
「幼児にさんづけしてる高校生とか不審者だろ」
俺たちはそんなかけあいをしながら、家を出た。