第19話 愛と忘却
俺たちが老人ホームの玄関をくぐったとき、時計は2時を指していた。一日で、一番暑い時間帯だ。坂道をのぼってきた俺と京香は、汗だくになっていた。ホームの空調に冷やされて、熱が引いていく心地よさ。
受付には、臼井さんがいた。よかった。けっきょくクビにならなかったみたいだ。俺がこの事件を調査する目的のひとつには、彼女の存在があった。おばあちゃんだけが被害者だとは、言い切れない。臼井さんは、濡れ衣を着せられているのだから。
「こんにちは」
「こんにちは……」
「太宰源五郎さんは、いますか?」
俺たちは、談話ルームで太宰さんを待った。しばらくして、スリッパの音が聞こえてくる。太宰さんが現れた。
「よお、透、どうした?」
「すこしお訊きしたいことがあります」
「学級新聞でも作るのか? オレのわけぇときのことなら、なんでも訊いてくれ」
俺は人気のない場所、中庭のベンチに移動してもらった。
「京香は、そこで待っていてくれ」
「え? なんで?」
「臼井さんを見張って欲しいんだ」
「……分かった」
嘘だった。太宰さんと、ふたりきりになりたかったのだ。
ベンチに座った俺は一息ついて、早速、質問をぶつけた。
「片桐英二について、教えていただけませんか?」
「え? カタなんだって?」
「太宰さん、あなたは先月、片桐英二に会ったんじゃないですか?」
それまで上機嫌だった太宰さんは、いきなり口の端をゆがめた。
「なんのことか、さっぱり分からねぇな」
「あなたは志摩涼子さんのキッズハウスに、ビデオデッキとVHSを送りましたね?」
「ああ……それが、どうかしたのか?」
俺は大きく息をついた。
「その時点で、あなたは嘘をついています」
「へぇ……オレを嘘つき呼ばわりとは、度胸がすわってるな。どういう了見だ?」
「太宰さん、あなたはもうご高齢です。ビデオデッキとVHSを詰め込んだ段ボールなんて、運べるわけがありません。30キロ以上あるんですから……あなたが宅配に出したのは、空箱だったんでしょう?」
「……」
太宰さんは胸元をさぐった。煙草でも探したのだろうか。当然、あるわけもないので、ふたたび袖口に両腕をしまった。この不自然な動きからして、俺は自分の推理が正しかったことを確信した。
「仮に空箱だとして、それがどうしたんだ? この国には、空箱を出しちゃならねぇって決まりでもあるのかい?」
「監視カメラには、重たそうな段ボール箱が映っていました。空箱じゃないんです……つまり……あなたは片桐英二を手伝うために、空箱を出した。違いますか? 片桐は、あの箱のなかにトリックを入れて、老人ホームから運び出したんでしょう?」
太宰さんは動揺していた。額にしわを寄せて、汗をかいている。その汗が暑さによるものではないという自信が、俺にはあった。太宰さんは、しばらくのあいだ無言でくちびるを動かして、おもむろに俺を見つめ返した。
「透、おまえ、大きくなったなあ」
太宰さんは、うれしそうに──ほんとうにうれしそうに──歯を見せて笑った。
「富子さんの血は、おまえが一番受け継いだのかもなぁ」
俺は両手を組んで、じっと足もとの芝生を見つめた。
アリが数匹、重たそうな虫を運んでいた。
「……今のは、自白と受け取って、よろしいんですね?」
太宰さんはなにも答えないで、遠くの森を見つめた。
「そいつは、おまえの勝手だよ」
「太宰さん……殺人事件なんですよ? どうして、そんなに他人事なんですか?」
「……」
「太宰さん……俺……横浜でほんとうはなにがあったのか、知ってるんです」
太宰さんは上半身を動かし、眉をひそめた。心当たりがある様子だった。
「片桐英二は、祖母をかばうため、殺人の罪を背負ったんでしょう? そうですね? だから……だから、仮に太宰さんが共犯でも、俺は警察に通報したりしません。ただ、ひとつだけお願いがあるんです」
俺はベンチから立ち上がり、太宰さんに頭を下げた。
「片桐英二の居場所を教えてください。お願いします」
俺はこうべを垂れ続けた。太宰さんの表情は見えなかった。
「……英二に会って、どうするんだ?」
太宰さんの返答に、俺はようやく顔をあげた。そこには、なにやら心のなかで葛藤している、老人の姿があった。
「どうするんだ? ぶん殴るのか?」
「いえ……どうして祖母を殺したのか、それを聞きたいんです」
「なあ、透、そんなこと聞いて、なにか意味があるのか? ……富子さんは、もうあの世へ逝っちまったんだ。安らかにな」
「どうして安らかだって分かるんです?」
おばあちゃんは、生き返った。そして、自分が片桐に殺されたんじゃないかと、苦しんでいる。それのどこに魂の平安があるのか、俺には分からなかった。
「俺は孫です。祖母の最期について、知る権利があります」
「そんなもんはねぇよ。なにが権利だ。人間にはな、家族にも……親にも子供にも言えないことがあるんだ。学校で習ったような、あまっちょろい御託を並べるんじゃねぇ」
「でも、太宰さんは知っているんでしょう? ……不公平ですッ!」
俺の大声に、廊下の清掃員が反応した。俺も太宰さんも、そんなことは一抹も気にしていなかった。ふたりのうち、どちらが男の意地を貫き通せるか、それだけが問題だった。
「不公平もクソもあるか。オレはな、おまえさんより付き合いが長いんだ。かれこれ50年になるんだからよ。17のガキに、富子さんのなにが分かる」
「俺は祖母が大好きなんですッ! 年齢の問題じゃありませんッ!」
「嘘をつくんじゃねぇ。見舞いにも来なかったじゃねぇか。あ? それのどこが『好き』なんだ? おまえさんの感情はな、ただなんとなくなんだよ。命を賭けて、女を愛したことがあるのか? 英二さんみたいによ?」
俺は言葉に詰まった。太宰さんは、スッと席を立つ。
「透、今回のことは、オレに任せてくれりゃいいんだ……オレが墓場まで持って行く。警察を呼びたいなら、呼べ。ムショのなかで死んでやるよ。どうせ、もう長くねぇんだ」
太宰さんはスリッパを鳴らして、老人ホームの建物へと消えた。
俺は涙があふれてきて、ポタポタと、あしもとに黒い点が乱れた。
「あの……」
女の声──ふりかえると、臼井さんが立っていた。
心配そうな顔で、俺のほうを見つめていた。
「あの……どうかされましたか?」
「あ、いえ……」
俺は、あわてて目元をぬぐった。
臼井さんはハンカチを貸してくれたけど、恥ずかしく断った。
「すみません、ちょっと言い合いになって……」
「菅原富子さんのことで、ですか?」
俺は曖昧にうなずいた。すると臼井さんは、しばらくくちびるに手をそえて、なにやら逡巡していた。そして──これまでに見せたことない、意志のある目つきで、俺に話しかけた。
「ひとつだけ……伝えたいことがあります」
「俺に、ですか?」
「はい、小泉さんには、席をはずしてもらいました」
京香にも秘密の情報? 俺は首を縦にふった。
「ぜひ、教えてください」
臼井さんはゆっくりと、人目を忍んで語った。その内容に、俺は唖然とした。
「祖母が……『殺してくれ』と言った……?」
臼井さんは、「聞き間違えでなければ……」と念押しした。
「知らない男性のひとが、ホームを訪れて……菅原富子さんに会いたい、って言ったんです。富子さんは認知症をわずらっていましたから、最初はお断りしたんですが……ぜひ、と……その男性は、富子さんの様子をみて、かなりショックを受けていたようでした。二人きりにして欲しいと頼まれまして……でも……」
その先は明瞭だった。臼井さんは、男性の落胆を見かねて、二人きりにしてあげた──フリをした。実際は、こっそりとドアの向こうで、異変がないか聞き耳を立てていたらしい。最初は、一方的に男性が思い出話をしていたが、そのうち、おばあちゃんの声が聞こえた。そう、記憶を取り戻したのだ。臼井さんが言っていた、稀に正常にもどる瞬間。その瞬間と片桐英二の訪問が、奇跡的に一致したのだった。
「そのとき、『殺してくれ』って言ったんですか?」
「えぇ……それで、私もおどろいてしまって……すぐにドアをノックしました……」
「片桐は……その男性は、どういう反応を?」
「なんだか、ずいぶんと思い詰めたようで……それで私、次からは面会を断ろうと思ったんです……でも……二度と来ませんでした……」
どういうことだ?──片桐は、祖母に自殺の手伝いをさせられたのか?
だとしたら──いや、たしか自殺の手伝いも犯罪なはずだ。それに、太宰さんと臼井さんの話を合わせてみても、未だにトリックが分からない。俺はなにか肝心なことを見落としてるのか? いったい、なんだ?
俺は混乱したまま、老人ホームをあとにした。捜査は、頓挫したのだ。もはや解決の見込みはなかった。片桐英二は、太宰さんと志摩さんにかばわれている。ふたりを説得することは、俺にはできなかった。警察に行ったところで、なにも証拠がないと言われてしまうだろう。京香はしきりに、「太宰さんと、なにを話したの?」と尋ねてきたが、俺は適当にはぐらかした。そして、途中で分かれた。
やっぱり笠井さんに相談するか?
いや、ダメだ。笠井さんはプライベートに調査をしている。
決定的な証拠を提供しなければ、かえって迷惑になってしまう。
「そうだ……決定的な証拠……トリックさえ分かれば……」
どうやって、片桐英二は老人ホームに入った?
臼井さんは、2度と片桐を入れないと決心した。どうやってすり抜けた?
老人ホームに入ったあと、どこかに隠れていたはずだ。どこに?
そして、どうやっておばあちゃんを殺した? そのあと、どうやって脱出した?
志摩さん宛の段ボール箱のなかには、なにが入っていたんだ?
この一連の謎が解けない限り、俺は片桐英二と、永遠に出会えない気がした。
「……くそッ! 全然分からんッ!」
俺は自宅のまえに自転車をとめて、スタンドを蹴った。玄関をあけると、居間に富美子がいた。影のある、憂鬱そうな顔をしていた。
「富美子、どうした? 今日は遊びに行かないのか?」
俺は、わざと明るく話しかけた。
「透こそ、どこへ行ってたんだい?」
「京香と遊んでた」
「老人ホームへ行ってたんだろう?」
「!?」
なぜ、そのことを──俺が言い返す前に、おばあちゃんは立ち上がった。
「そんなに、真相を知りたいのかい?」
「……ああ」
「なぜ?」
俺は、太宰さんに叱責されたことを伝えた。富美子はフッと笑った。
「あのひとらしいね……で、それと透の好奇心と、どう関係があるんだい?」
「富美子が……おばあちゃんが真剣に愛した男と、一度会ってみたい」
富美子は、からかいの笑みをやめて、俺のほうへふり向いた。
「それだけかい?」
「……それだけだ」
俺はずっと後悔していた。どうして、お見舞いにも行かなかったのか……ずっと……俺はおばあちゃんのことが好きだと思っていた。でも認知症になって以来、なんだか距離をとるようになってしまっていた。50年のあいだずっとおばあちゃんのことを想い続けていた片桐に、俺は人間的な関心を抱いている。それとも片桐もまた、再会したあいてが認知症ということを知り、絶望してしまったのだろうか。だとすれば人間の愛とはなんなんだろう。
富美子は、出掛ける準備を始めた。そのとき、俺の携帯が鳴った。電話番号は、笠井さんだった。不審に思いつつも、すぐに通話ボタンを押した。
「もしもし」
《透?》
「はい」
《片桐英二が見つかったよ》
「!?」
俺は祖母の視線を感じた。
「どこで、ですか?」
《山のなかさ。今朝、地元の住民から通報があった》
「じゃあ、山のなかに隠れてたんですね?」
電波の向こうがわで、ため息が聞こえた。
《違うんだよ……首を吊ってた》
俺は絶句した。
「こ、今度こそ自殺したんですか?」
《今度こそ、じゃないんだよ》
「どういう意味です?」
笠井さんは言った。死体は、死後1ヶ月近く経っている、と。
《くわしくは検死待ちだけど、現場の状況からして、おそらくは菅原富子よりも前に亡くなってる。片桐が犯人の可能性はなくなった……おい、聞いてる?》
俺は通話を切った。
「どうしたんだい?」
「富美子、実は……」
おめかしを終えた富美子は、やや憂いを秘めた目で、ほほえんだ。
その瞳は、なにもかもお見通しだと、そう語っていた。
「さあ、行こうか……真犯人のところへ」