第18話 50年目の復讐
おばあちゃんは、片桐の出所を知って以来、死の恐怖におびえていた──いや、この表現は正確じゃない。殺されることを覚悟していた。普段から妙に明るく振る舞っていたのは、いつ殺されてもいいという、その心構えがあったからかもしれない。俺の思い出は、あいまいになった。
だが片桐は来なかった。少なくとも、今年までは。片桐が出所したのは、昭和37年、つまり1962年の8月だ。そのとき、おばあちゃんは22歳、数えでは23歳だった。だから50年近い歳月を待っていたことになる。その精神的プレッシャーがどれほどのものだったのか、俺には想像もつかなかった。
俺は川原の土手に寝そべったまま、空を見上げていた。そして、ひとつの、根本的な問いに立ち返っていた。
おばあちゃんは殺されたのだろうか? おばあちゃんの話を聞く限り、その可能性は高まったと言わざるをえない。これまでは、おばあちゃんを殺す動機が見えていなかった。今は違う。だけど──
「……ほんとうに、そうか?」
俺はひとりごちた。片桐英二の復讐。もっともらしい仮説だが、どうも引っかかる。そのことについて、俺は昨晩からなやんでいた。
まず、50年という歳月について。おばあちゃんを殺害するチャンスなら、いくらでもあったはずだ。おばあちゃんは警察に相談したり、自衛したりしなかった。スキを突いて殺害することなど、片桐には容易だったに違いない。にもかかわらず50年のあいだ、おばあちゃんは殺されなかった。
復讐に50年も待つ必要があるのか? ないだろう。それとも50年経って、とつぜん気が変わったとでも言うのだろうか? いきなり復讐心が芽生えた、と?
これが第一の疑問点。第二の疑問点は、殺害方法だ。片桐英二がおばあちゃんを殺害した、と仮定しよう。方法は? おばあちゃんの昔話をいくら分析しても、老人ホームの密室は解決しなかった。片桐が江戸川乱歩に興味を持っていた、という点は、ちょっとくらいヒントになるのか。トリックを考える知識は、あったわけだ。では、どういうトリックを考えついたのか? それが見えてこなかった。
「……やっぱり、なにも解決してないんだよな」
俺は起き上がって、スマホをいじった。一昨日の晩、片桐の捕り物があった場所を調べた。自転車をこいで、現場に向かってみた。そこは、あのときとまったく違う雰囲気をたたえていた。よくあることだが、昼間のほうがかえって不気味に思える。変電所の近くということで、人気はなかった。
「……ん?」
俺は袋小路の奥に、見慣れたうしろ姿を目撃した。
「京香?」
京香は飛び上がって、俺の胸に後頭部をぶつけた。
「と、透?」
「いたた……ここで、なにしてるんだ?」
「ご、ごめん、てっきり犯人かと思って」
俺はため息をついて、京香を見すえた。
「犯行現場をひとりでうろちょろするなよ」
「透こそ、ここでなにしてるのよ?」
ウーム、これは反論できない。
「俺は男だからいいんだよ」
「なによ、それ。腕力なら、あたしのほうがあるんだけど」
「とにかく、京香の身になにかあったら心配だ。単独行動は、やめてくれ」と頼んだ。
京香は、
「分かったわよ……ありがと」
とだけ答えた。
「で、なにしてんだ?」
京香はなにも言わずに、変電所の側溝を指差した。
雨が降っていないから、渇き切っていた。
「奥のところに、なにか落ちてるようにみえない?」
俺は側溝の奥をのぞきこんだ。
「ああ……たしかに、なにか落ちてるな」
「割れた風船に見えるんだけど」
そう言われてみると、割れた風船の残骸にみえた。
側溝の、奥50センチくらい先だろうか。
手を伸ばしてみたが、角度の関係で取れなかった。
「子供が落としたんじゃないか?」
「側溝に風船を?」
「あるいは犬とか」
京香は眉間にしわを寄せた。
「犬ぅ?」
俺は、ありうるだろ、と答えた。
この側溝、おとなの人間は通れなくても、中型犬くらいは通れそうだ。
近所で見つけた風船を、犬がここに隠したのかもしれない。よくある習性だと思った。
ところが京香は、まったくちがうことを考えていた。
「そうじゃなくて、犯人が持ち込んだものじゃない?」
「風船を?」
京香は黙ってうなずいた。
そんなことありえないだろ。そう言いかけた俺は、あの晩を思い出してハッとなった。
「……ありえるな」
「でしょ? 片桐がこの袋小路で消えたトリックと、関係があると思わない?」
俺はその場を歩き回った。
「あの夜、片桐の歩き方がおかしかったのを、覚えてるか?」
京香は覚えていると答えた。
「あたしも、そこに着目してる」
どうやら京香は、俺と同じ推理にたどりついたようだ。いや、それとも俺が京香とおなじ推理にたどりついたのか。あの男は片桐英二じゃなくて、片桐英二のかたちをした、風船人形だったんじゃないだろうか。だとすれば足を引きずって歩いていたのも、納得がいく。だれかが引っ張っていたのだ。パンという音は発砲なんかじゃなくて、風船の割れた音だろう。
しかし──
「仮にそうだとして、どうやって引っ張ってたんだ?」
「そこなんだけど……さっきの透の発言で、分かった気がする」
俺は京香を見つめた。
「俺、なにか言ったか?」
「中型犬なら、この側溝は通れる、って言ったでしょ? よく訓練された犬が、風船人形を引っ張ってたんじゃない?」
俺はポンと手をたたいた。
「それだッ! 犬を使ったんだッ!」
だとすると容疑者にあがるのは──俺と京香は、志摩キッズハウスへと向かった。片桐が手なずけていそうな犬と言えば、あのキッズハウスの犬に違いない。小径を抜けて、キッズハウスが視界に入ってきたところで、俺と京香は立ち止まった。
「さてと、どう切り出すか……」
「透、あそこ」
京香は、一台の白い軽自動車を指差した。そのナンバーに、俺は心当たりがあった。
「笠井さんも来てるのか?」
「そうみたいね……どうする?」
いや、迷う必要はない。渡りに船だろう。俺は京香をつれて、玄関へと回り込んだ。案の定、志摩さんと笠井さんが、玄関のところで向かい合っていた。笠井さんは俺たちを見て、ちょっと眉をひそめた。
「透、京香ちゃん、なにしてるの?」
「あッ、その……」
しまった、捜査の邪魔になったか?
俺は、
「近所に来たら、たまたま笠井さんを見かけたので……」
とごまかした。笠井さんは、フーンと言って志摩さんへ向きなおり、
「このふたりをご存知ですか?」
とたずねた。志摩さんは、すこし困惑した表情で、
「そちらの男の子は……はい」
と答えた。
「でしたら、話は早いですね。彼は、亡くなった菅原富子さんの孫です。片桐英二について、なにか教えていただけませんか?」
やっぱり笠井さんも、志摩・片桐のラインに気付いたようだ。あやしげな段ボール箱を受け取ったうえに、片桐の訪問を受けていた。言い逃れできない。
「片桐というひとは、存じておりません……」
「それは妙ですね」
笠井さんは警察手帳をめくった。
「片桐英二という男性が、キッズハウスの裏口を叩いていた……そういう目撃証言が、たしかにあったんですよ」
「そう申されましても……」
「片桐は菅原富子さんの死に、なにか関係があるのかもしれません。重要参考人です。どこにいるか、教えていただけませんか?」
志摩さんは、知らぬ存ぜぬの一点張りで、笠井さんの質問をすべて拒絶した。
じれったい。俺は口を出さないように自制するのが、精一杯だった。
一方、笠井さんは平然としていて、
「志摩さん、あなたは30代の頃、横浜で働いてらっしゃいましたね?」
とつぶやいた。
「……」
「いえ、お答えにならなくても、けっこうです。裏は取れていますので……そのときの職場……福祉施設に、片桐英二がいましたね? 違いますか?」
志摩さんの顔色が変わった。口をぱくぱくさせてから、黙ってうつむいてしまった。
「これも、お答えいただけませんか?」
「……」
俺は一歩まえに出た。だが笠井さんは俺を制した。
「分かりました。お答えいただけないなら、それでけっこうです。ところで……」
笠井さんは、キッズハウスの庭に停められた、小ぶりのトラックへ視線を向けた。
「あのトラック、ずいぶんと荷物を載せておられますが、旅行でも?」
これにも志摩さんは答えなかった。
笠井さんは「そうですか」と言って、「お時間、ありがとうございました」と、別れのあいさつを告げた。キッズハウスを去る途中、俺は笠井さんを呼び止めた。
「さっきの尋問、ヌルすぎるでしょう」
「おいおい、令状もないのに尋問できるか」
「志摩さんは、絶対になにか隠してます」
笠井さんは軽自動車に腕を乗せて、「だろうね」と答えた。
「だろうね、じゃないですよ。逃亡されるかもしれないのに」
庭先にとめてある軽トラックを、俺はゆびさした。
詰め寄る俺に、笠井さんは右手のひとさしゆびをふってみせた。
「私の調査能力を舐めすぎだ……行き先は分かってる」
俺は驚愕した。
「どこですか?」
「横浜だ」
「横浜……ってことは、まさか片桐を?」
「私も最初はそう踏んでた……けどね、どうやらこどもの引っ越しみたいなんだ」
「こども? 志摩さんのこどもですか?」
「いや、橘っていう子の引っ越し。里親が見つかったんだとさ」
「そんなのは、口実に決まってます。橘くんを見送るなら、新幹線でも飛行機でも、いいはずでしょう。なんで車なんですか?」
「荷物も一緒に送らないといけなくて、レンタカーが一番安く済むかららしい」
「絶対に言い訳ですッ!」
俺は思わず、笠井さんの車のボンネットを、こぶしで叩いてしまうところだった。
笠井さんは、
「おいおい、ひとの車は大事にしろ。これローンなんだぞ」
と注意した。
「すみません……」
「透、おばあさんが亡くなって、焦るのは分かるよ。でも私たちは決定的な証拠を掴んでないんだ。片桐の死体でもあがれば、話はべつだけど」
「結局、死体は見つかってないんですか?」
「全然」
そうか。だったら片桐は、どこかで生きている可能性が高い。
側溝で見つけた風船のことを、俺は伝えた。
「それほんと?」
「ほんとです。笠井さんも気付いたと思うんですが、あの夜の片桐の歩き方は、どこかおかしかったですよ。おそらく風船を人形にして、俺たちを誘導したんだと思います」
「となると、私たちの張り込みはバレてたわけか……透、だれかに話さなかった?」
いいえ、と俺は答えた。
「志摩さんなら俺たちの話を、こっそり盗み聞きできたんじゃないですか?」
「透は、どこで私に電話をかけたの?」
「き、キッズハウスの正門前です」
笠井さんは、あららと言った。
「だれかに聞かれてても、おかしくはないね」
「す、すみません、あのときは興奮してて……」
「いいよ。私たちの行動を知っていた人物に、範囲が限定される。むしろ好都合だ」
そうだ。本命は志摩さん。あるいは、志摩さんから話を聞いただれか。
「とにかくまえから言ってるけど、勝手にほっつき歩いちゃダメだよ」
「分かりました」
俺は心にもない返事をした。
「志摩さんは、いつ出発するんです?」
「今日の夕方。レンタカーの会社に確かめた」
やっぱり逃げる気じゃないか。パニックになる俺を、笠井さんはなだめた。
「しょうがないよ、移動の自由があるんだ。憲法で保障されてる。あっちの警察に知り合いがいるから、なんとかなるさ。とにかく焦らないことだね」
笠井さんは軽自動車に乗って、走り去った。残された俺と京香は、喫茶店に移動して、これからの調査の打ち合わせをした。
「志摩さんがあやしいのは分かったけど、あのひとが犯人だとは思えないわ」
「どうしてだ?」
「志摩さんは、このへんだと有名な篤志家でしょ? 福祉関係者には、顔バレしてると思うのよね。その志摩さんが、気付かれないで老人ホームに出入りなんて、できるの?」
なかなか有力な反論だった。
「臼井さんは、なんて言ってた?」
「志摩さんについて?」
「そうだ」
「知ってるって言ってた」
なるほど、臼井さんの目をごまかすのは難しいわけか。他人のフリをして老人ホームに潜入するのは、ムリだろう。だが京香は、一番肝心な部分を見落としている。俺は、そのことを指摘した。
「肝心な部分って?」
「密室トリックだよ。トリックが遠隔操作なら、老人ホームの中に入る必要はない」
「えぇ……そんなうまいトリック、あるかなぁ?」
うぅむ……そう言われると、俺の論拠も弱い。遠隔操作と口で言うのは簡単だが、実際にうまく動くトリックなんて、そうそうないだろう。おばあちゃんが寝ていた103号室は、窓がはめ込み式で、糸のようなものを簡単に通せる穴もなかった。
「それに、機械仕掛けの部品は、どうやって回収したの?」
「それは簡単だ。キッズハウスに送る段ボールのなかで……」
俺は、そこで絶句した。
「どうしたの?」
「なんで気付かなかったんだ……」
「なにが?」
コーヒーを半分以上残して、俺は席を立った。
京香もあわてて立ちあがる。その表紙に、伝票がひらりと床に落ちた。
「透、どうしたの? なにか分かったの?」
「俺たちは、一番あやしい人物を無視してたぞッ!」
「だれ?」
俺は財布を取り出しながら、伝票を拾い上げた。
「段ボールの送り主だよッ!」