第17話 祖母の初恋
あれは、紫陽花のきれいな季節だった。まだ高校生だったわたしは、横浜のFという女学校に通っていた。パソコンどころか携帯もない時代。わたしたちは、噂話や本のなかでしか、恋というものを知らなかった。近場の男子とすれ違うたびに、ああ、あのひとは、なんて、くだらない甘酸っぱい会話に華を咲かせていた。
1950年代──透には、ちょっと想像がつかないだろうね。テレビがようやく放送され始めて、石原裕次郎が銀幕をにぎわせていた。銀幕って、なんのことか分かるかい? 映画だよ。東京タワーは完成したばかり。高度経済成長に突入して、社会は明るくなりつつあった──とは言っても、わたしが生まれたのは、終戦の1年前だからね。戦争のことは、記憶になかった。
そう、あれは、紫陽花のきれいな季節だった。その日、わたしは天気を読み間違えて、傘を家に忘れてしまったのさ。仕方がないから、学校の近くにある、古びた廃線のバス停で、雨宿りをしていた。雨はゆるやかで、こうして目を閉じると、まるで昨日のことのようだね。
立ったまま、ぼんやりと本を読んでいた。そして、ふいに声をかけられた。
「ここは廃線ですよ」
ふりかえると、すらりとした長身の高校生が、バス停の近くに立っていた。当時は今みたいに、おしゃれな高校生は少なかったからね。いわゆるショートカットというやつで、制服もネクタイじゃなくて、ただの開襟シャツだった。同じ年の男性に慣れていなかったわたしは、あたふたした。
「ここは廃線ですよ。バスは来ません」
「……雨宿りしているだけです」
わたしはうつむいて、うっかり本を閉じてしまった。そう、うっかりね。
表紙が見えてしまった。
「江戸川乱歩……探偵小説をお読みなんですね」
これまで生きていて、一番恥ずかしかった瞬間かもしれない。とにかく、わたしは顔を赤くするしかなかった。すると少年はにっこりと笑って、「僕も好きです」と言った。
そのときは、てっきりお世辞だと思っていた。
「最近の乱歩は、探偵小説の歴史に関心があるようですね」
「……」
わたしは、はやくこの話を切り上げて欲しかった。
相手もそれを察したのか、すこしマジメな顔になって、
「ところで、雨宿りなさっているんですか? どちらの方角で?」
わたしは正確な住所じゃなくて、すこし曖昧に答えた。
「ずいぶんと、遠いのですね」
少年は、わたしのほうへ近寄って来た。
「この傘を、どうぞ」
「え……」
「僕は、この近所に住んでいますから」
「でも、お名前も知らないひとに……」
「僕は片桐英二と言います……あなたの名前はおっしゃらなくても、けっこうです」
少年は、傘をわたしのまえに差し出した。わたしは受け取ってしまった。
「返すときは、このバス停に引っ掛けておいてください」
「あの……」
「それじゃあ」
少年は、そのまま雨のなかを駆け去った。わたしはその傘をさして帰った。母に、だれの傘かって聞かれて、学校から借りたって答えた。翌朝、例のバス停のところへ返しておいた。お礼の手紙を添えてね。そのとき、わたしは自分の名前を書いておいた。
なんて言ったら、いいんだろうね。そうしたかったのさ。
「富子さんは、F女学院なんですね。僕はM高です」
片桐と名乗った少年は、瀬戸内海の大きな町から引っ越してきたと告げた。父親はK市の造船所で働いていたのだけれど、軍港は当然に閉鎖。しかたがないから、一家で横浜へ引っ越して来たらしい。そう言えば、すこしだけなまりがあった。わたしは祖父の代から横浜に住んでいて、かえって新鮮に聞こえた。
秋になり、冬になり、また春が来た。
「今度、映画でも観に行きませんか?」
片桐は──英二さんは、わたしを映画に誘った。わたしはもう年頃だったし、子どもが友だちを誘うのとはわけが違うと、はっきり知っていた。そして、「はい」と答えた。
あの頃、映画と言えば、東映の時代劇が一大ブームで、それを日活なんかの新しい作品が追っていた。水着姿の男女が抱き合うポスター──『太陽の季節』──は、いろいろと話題になっていた。でも、わたしはまだ高校生だったし、そういうのは親に禁じられていたんだよ。英二さんが選んだのは、まあ、ずいぶんとあのひとらしいとは思ったけれど、『次郎物語』っていう、おかたい映画でね。ちょうど3月に封切られたばかり。わたしたちは春休みにこっそり落ち合って、知り合いがいなさそうな、横浜市街の映画館を訪れた。
内容のことは、あんまり覚えていないね。男のひとと、初めて映画を観に行った緊張感のほうが強かった。帰りには百貨店でソフトクリームを食べて──これだって、当時はかなり珍しかったんだよ──駅で分かれるとき、英二さんはなにか言いかけた。そして、「今日は楽しかったよ」とだけ口にした。わたしは、そのとき悟った。次か次の次で、なにか決定的な台詞を言われる、ってね。ほんとうにそうなって──なにを言われたかは、さすがに教えられないねぇ──毎月映画を観たり、横浜を散策したりして、そして……しあわせは長く続かないと、そう悟る日がやって来た。
「広島に転勤?」
家の台所で、わたしはカップを落とした。
母はおどろいて、こぼれた珈琲を拭いてくれた。
「どうしたの?」
「……嘘でしょう?」
「嘘ついて、どうするの?」
わたしはそのあと、泣きながら家を飛び出した。そして、英二さんのところへ走った。喫茶店でわたしの話を聞いた英二さんは、残念そうに微笑んで、
「それなら、仕方がないね」
とつぶやいた。
わたしは、また泣いて、ふたりの仲はそんなものだったのかとなじった。
「そうじゃないよ。1年だけのお別れだ」
「1年?」
「高校を出たら、親父と同じように、造船業に関わるつもりだったんだ。ちょうど、K市のほうに就職口があってね。だから富子さんとのお別れは、1年だけだよ。卒業したら、かならず迎えに行く」
わたしは、ホッとした。
そして、「迎えに行く」という言葉の意味に気付いて、顔が火照るのを感じた。
「かならず迎えに来てください」
「約束するよ」
外では雪が降り始めていた。12月の、肌寒い日のことだった。
それから3ヶ月。引っ越しは、高校2年生の春休みと決まった。わたしはできる限り、英二さんと会った。母は、わたしが引っ越しの話を聞いて泣いたものだから、事情を察したらしい。なにも言わず、ただ「変な気だけは、起こしたらダメよ」と、釘を刺してくるのが常だった。父が知ったら、外出禁止になっていただろうね。
そして引っ越しの直前、3月の中旬、わたしはいつものように、英二さんと密会するため、近所の神社へかよった。そこはちょうど獣道があって、わたしの高校のまえを通らなくてよかったんだよ。同級生に、あまり見咎められたくなかったから。
サクサクと、枯れ葉を踏む音が心地いい。足を滑らせないように注意して、森の一番奥深いところへさしかかったとき、ふとなにかが体当たりしてきた。野犬かと思って、わたしは悲鳴をあげかけた。でも、それは犬じゃなかった。飢えた男の目をしていた。
「静かにしろ」
見知らぬ男は、わたしのうえにのしかかって、口元を押さえた。それでもわたしが暴れるものだから、男は平手打ちを喰らわせてきた。わたしは恐ろしさのあまり、男の指を噛んだ。血の味がする。その途端、脳天を石で殴りつけられたような衝撃が走った。
目を覚ますと、わたしは神社の境内にいた。さっきの光景がよみがえって、わたしは悲鳴をあげた。すると、英二さんの声が聞こえた。
「富子さん、おちついて」
「え、英二さん……」
わたしは彼の胸に抱きついて泣いた。恐怖で体が震えた。
「英二さんが、助けてくれたのね?」
わたしは英二さんにケガがないか、それを心配した。
「……英二さん、ほっぺたに血がついてる」
英二さんは頬に指を触れて、ああ、と小声でつぶやいた。
「追っ払うときに、一発なぐってやったんだ」
「ケガは?」
「僕のほうは、なんともなかったよ」
英二さんはそう言って、爽やかに笑った。
「今日のことは、だれにも言わないほうがいいよ」
英二さんのアドバイスに、わたしはうなずかざるをえなかった。男に襲われたなんてうわさが立ったら、あることないこと、尾ひれがつくに決まっていたから。
「とりあえず、今日の外出はやめておこう。近くまで送るよ」
わたしは英二さんに、家まで送ってもらった。英二さんは、
「男が復讐にくるといけないから、外出しないほうがいい」
と言った。わたしは引っ越しのまえに、どうしても英二さんに会いたかった。でも英二さんは、「迎えに行く」という、あのときと同じ台詞を電話越しにつぶやいて、それっきりになった。
そう、それっきりになった。わたしは広島で高校を卒業して、大学へは行かず、しばらく家事手伝い──ようするに嫁入りの準備だね──をしていた。父は見合いを進めてきたけど、母はなにも言わなかった。だけど、わたしのことを心配していたのは、父よりも母だった。その理由は、すぐに分かった。ある夏の夕暮れどき、母に質問された。
「富子……あなた、横浜を出るとき、なにか約束をしなかったかい?」
わたしはドキリとした。
「なにかって?」
母は黙って、わたしの目を見つめた。
「富子、男の言葉っていうのはね、あんまり期待しちゃいけないよ」
わたしは憤慨した。
「なんのことか、分からないわ」
秋がきて、冬がきて、年をまたいだ。わたしはすこしばかり不安になった。騙されたという不安じゃない。英二さんが、うまく卒業できなかったんじゃないか──あるいは、うまく就職できなかったんじゃないか。そういうたぐいの不安だった。こっそりと手紙を書いて送ってみたけれど、返事はなかった。春がきて、夏がきて、わたしは、英二さんから教えてもらった造船所に、電話をかけてみた。
「片桐英二っていうひとは、うちにはおらんですね」
わたしは動揺した。そんなはずはない、嘘だ、まさか──四季はめぐり、4年目の春になった。わたしは母に呼ばれた。
「富子、あなたはもう22。いつまでも男の言葉を信じていい年じゃないだろう」
「……」
「お父さんの知り合いで、菅原さんっていうひとから、縁談があってね。関西のいい大学を出て、将来も有望なひとなんだけど」
「……」
2年後、わたしは男の子を産んだ。透のお父さんだね。家事と育児に追われる毎日だったけれど、しあわせだったよ。ほんとうだよ。英二さんのことは、なるべく考えないようにしていた。それなのに──
「あら、富子さん」
晴れた日の午後、わたしは広島駅のまえで、ひとりの女性に出会った。
横浜の同級生だった。
「幸子さん、おひさしぶり」
「おひさしぶり。広島へ引っ越したって聞いたけど、まさかこんなところで会うなんて」
わたしたちは高校時代の思い出に、ゆっくりとひたった。
友だちのこと、教師のこと、家族のこと──そして、恋のこと。
「富子さんったら美人なのに、だれともおつきあいしていなかったわよね。みんな不思議がっていたわ」
「え、ええ……そういうことには疎くて」
「いえね、ここだけの話、富子さんとM高の片桐ってひとが、付き合ってるんじゃないかって、そういう噂があったのよ。でも富子さん、あっさり引っ越しちゃったし、それに片桐もあんなことになって……」
わたしは、彼女の言葉をさえぎった。
「あんなことって?」
「あら、知らないの? あのひと、殺人で捕まったのよ」
わたしは、持っていた買い物袋を落とした。
「殺人……? 嘘でしょう?」
「ほんとよ、地元では大騒ぎだったわ。チンピラを金銭問題で殴り殺したんですって。刑務所に入っていて、去年か一昨年、出所したとか。イヤよねぇ。そういうのは、ずっと閉じ込めておいてもらわないと……富子さん?」
あのとき、頬についていた血──その赤が、わたしの脳裏をかすめた。
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おばあちゃんは、大粒の涙を流した。
「英二さんは……わたしの評判を案じて、罪をかぶってくれたんだよ……それなのに、わたしは5年も待てないで……全部、わたしのせいなんだよ……」
おばあちゃんは体育座りのまま、号泣した。
俺はおばあちゃんの肩に、手をかけた。
「だから、もうやめておくれ……英二さんがわたしを殺したんだとしても、わたしは受け入れるから……お願いだよ……」
俺は、なにも答えられなかった──答える術を知らなかった。