188.だから生きる
ゴンゾウの宿の裏手にて。
その裏手には何か特殊な土で塗り固められた煙突が木造の壁から伸びており、煙が出ていた。
同時に煙突のすぐ隣にこちらもまた木造の格子の窓があり、中から湯気が立っていた。
ザザァ…
湯気が立っている中から大量の水を流す音が聞こえた。
「ふ~…」
白い霧の様な室内で両腕を後ろに伸ばして体をほぐし軽く深呼吸していた者がいた。その者は風呂に入っており存分に堪能していた。
「ん~…」
シンだった。
静かに目を閉じて頭の上に白い手拭いを乗せて肩まで浸かっていた。
煙突が付いた石製の釜戸の大穴にはめ込む形で鋳鉄製の風呂釜が入った五右衛門風呂に似た風呂、所謂長州風呂と呼ばれる風呂にシンは入っていた。竈門を築いて釜をのせ、その上に桶を取り付け、底板を浮き蓋とし、その板を踏み沈めて入浴する。
シンは授業で十返舎一九の代表作「東海道中膝栗毛」で五右衛門の入り方を知っていたから体を軽く洗い底板を沈めて入浴していた。因みに「東海道中膝栗毛」では物語上間違った入り方だ。
五右衛門風呂と長州風呂の違いは五右衛門風呂は江戸時代当時、貴重品だった鉄をできるだけ節約するため木製の桶と組み合わせた形状。煙突がないから煙たく、釜と桶との継ぎ目から水が漏れるという事もあり、次第に廃れていった。
長州風呂は、釜自体が温かくなり、湯が対流しつづける為、入浴の際に体全体が温まりやすい。また煙突が開発され、煙たくないだけでなく、熱効率が高くなり沸きが早い。
壊れても再び炉で溶かされ、再び人々の生活の役に立つ製品に生まれ変わる点や薪は勿論、落ち葉や木屑、間伐材等何でも燃料にできる等の点から非常にエコである。
(昨日は体を洗っただけだったな)
そう思いながら手で軽く湯を掬って肩に掛けるシン。
確かに昨日風呂に入ったが、破裂音の件でゴンゾウ達がバタバタしていたから体を洗う事だけしかできなかった。因みに体を洗った方法は糠と香草と思しきものが入った70cm程の布袋、所謂糠袋をスポンジ代わりに使って洗った。長いのは背中を洗う時に両手で端を持って背中化を擦る様に出来ていた。泡立たず、白に近い黄色の煮汁の様な物が出ていたが決して嫌な臭いがしなかった。実際体を強めに擦ってもあまり痛みが無く、かなり気持ち良かった。
(前から思っていたが、これ良く錆びないな・・・)
そう考えながら風呂釜の表面を撫でるシン。
鋳物の風呂は使用している内に徐々に浴槽の表面に皮膜、所謂酸化皮膜を作り、この皮膜が鉄と酸素の結合を防ぐ事により、錆を防いでいる。つまりこういった鋳物製品は使う人がいなければ錆びていくのだ。
(それにもっと狭いかと思っていたけど案外広いな)
五右衛門風呂に入った事のある人間であれば分かるのだが、足を丸めて窮屈だと感じる。
当時は今の時代とは違い、大きな鉄鋼炉で鉄を大量に安く作る事が出来なかった為、最小限の大きさに作られた。
また、風呂を大きくするとそれだけ水が入る。当時は、水道がないから、井戸から水をくみ上げ、運んで風呂に入れていた。そんな作業の為、なるべく五右衛門風呂は小さい方が良かった。
そしてこれが最もな理由、江戸時代の男性は155~158cm・女性は143~146cm位で、今の日本人より、だいぶ小さかった。だから、五右衛門風呂は、現代人にとっては窮屈に感じる。
だがシンが入っている風呂は広く造られていた。ゴンゾウ達の様な種族らは体の大きさは様々な為、身体に合わせた大中小の幾種もの風呂が設けられていた。シンが入っていたのは中の風呂で丁度良かった。
風呂の湯の温もりに気持ち良く浸っていると
「よぉ」
木の壁を隔てて外からゴンゾウの声が聞こえた。
ゴンゾウは外で風呂の為に火を焚いていた。当然だがこの手の風呂はある程度火の管理をしなければ人が入れない位の熱い温度になったり、逆に温過ぎて体が温もらなくなる。昭和時代では浴室に竈門と薪置き場があってその場で湯の温度を調節しながら入浴を楽しんでいた。
だが、この風呂の場合は外に竈門が設けれている為、もう一人必要だ。
「ゴンゾウか・・・」
外に誰かいて竈門で火の管理をしている事は気配で分かっていたし、この風呂の焚き方で誰か外にいるのは知っていた。だからさほど驚きもしなかった。
「温もっているか?」
どうやら湯の温度が丁度良いかどうかを訊ねてきたようだ。
「ああ、いい湯加減だ」
「そいつぁ良かった」
シンはヒロの事を思い出し切り出すように口を開いた。
「なぁヒロは大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。今頃安宿のフカフカの布団に入っているよ」
ゴンゾウの呑気な口ぶりからヒロが向かった先ではシンが通った道よりも無事に都まで辿り着ける位安全な様だ。
「ヒロが向かった方角は大丈夫なのか?」
「ん?・・・ああ、そう言う事か」
ゴンゾウは最初何に対しての大丈夫なのかが一瞬分からなかったが、すぐに理解した。要は怪物の様な危険生物の出没しやすいかどうかを知りたかったのだ。
「ヒロが向かった方角には人通りが多くてまだ安全だ。余程の頃が無い限りは大丈夫さ」
「そうか」
少なくとも隣町までの道は安全でそのまま通っても問題なさそうだ。そう考えたシンは後でアカツキのその事を伝えて相談して改めて目的地の都市までのルートを考えようと思った。
その時ゴンゾウはポツリポツリと静かな独り言の様にシンに語り掛けてきた。
「俺はよ、昔は腕っぷしの強い若いもんとしてこの村を守ってきた。剣の才能はからっきしなかったけどよ、軽く振っただけでも十分にヒヒを追い返す位に強かった」
「・・・・・」
何か語り始めた。
率直な感想を心の中で呟くシンはゴンゾウの話の続きを聞く。
「ある夏、この村にそれなりに人が来るようになって宿を立てたんだ」
「・・・それがこの宿か」
「ああ。宿に来るのは夏の時だ。夏には沢山の作物が出来てそれを買いに来る商人連中が来るんだよ。それが20回位になる」
「20年って事か」
「そう言う事だ。それでだな・・・俺は20年商人とか観光客を相手にしてきて人を見る目を養って来たんだ」
「・・・・・」
シンは何か嫌な予感がした。そしてゴンゾウはシンが口にして欲しくなかった言葉にした。
「あの破裂した音、ありゃお前の仕業だろ?」
「・・・・・」
ゴンゾウの言葉に思わず黙ってしまうシン。先程迄温もっていた湯は妙に冷たく感じ、鋭い目で窓の方を見る。
20年の間、この宿を経営してきたんだ。客を見て来て人を見る目を養ってきてのだからシンが怪しいと思われてもおかしくない。
次の言葉次第ではシンはゴンゾウに対する行動が決まる。だから右手を湯の水面から出していた。
「もしあの音を鳴らしたのがお前でそれが原因でヒロが出て行った事に気にしているなら、必要ないぞ」
「・・・・・」
シンはゴンゾウの言葉の一つ一つを慎重に聞いていた。
「あの音の事が気になって村の外に出て命を落としたあのバカが悪い」
「・・・薄情に聞こえるな」
意外にもドライな物言いに答えるシンだが、変わらず右手は水面から出ていた。
「薄情か。まぁ大陸側の人間ならそう聞こえるな」
ゴンゾウはフッと笑って何処か寂しく呟く様に答える。
「大陸側はどうなのかは知らねぇが、毎年町や集落の外に出て死ぬ奴は少なからず必ずいる。それがこの国の当たり前なんだ」
「・・・・・」
慎重に聴きつつもこの国事情を知ったシン。
この国に存在している怪物ともモンスターとも言える大陸とは比べ物にならない位に脅威のある危険生物。そうした脅威がある故に命を落とす者が常にいる。その為ゴンゾウがドライな物言いはこうした事情から来るものなのだろう。
仕方がないといえば仕方がないがどうにかする方法はない。あったとしてもそれがどんな影響を及ぼすのか分からない。だから出すわけにもいかない。
「若い奴も可愛い奴も強い奴も、死ぬときゃ死ぬ。俺の親父も命拾ったヒロも・・・」
その声を聞いているとどことなく震えている様に聞こえる。ドライな物言いをしていたが、仲間の誰かが死んでしまう事にはやはり来るものは来る。
だからなのかゴンゾウから出る言葉が僅かな間だけ止まっていた。
「命ある皆には等しく死が待っている。親父が死んだ時そう思わされたよ」
数秒して軽く深呼吸をして再び口を開いたゴンゾウの言葉には震えは無かった。そればかりか力が籠っていた。
「だから俺達はよ・・・」
次に出る言葉は更に力が籠っており
「今必死に生きなきゃならねぇ。死んじまった皆の為にも、生きている皆の為にもな」
最後には決意した様な焔のついた活きた言葉を口にした。
「・・・・・」
シンは今だに右手を水面から出していたがゴンゾウの言葉にはしっかりと耳を傾けていた。またどことなく共感できるものもあった。
だからなのか刃物の様に鋭い目は次第に柔らかくなっていていた。
ゴンゾウは小さな声で「よっこいしょ」と言っていた。恐らくしゃがんでいた姿勢から立ってものだろうとシンはそう考えていた。事実ゴンゾウは立ち上がってシンが居る浴室の窓を見上げていた。
「俺はここを離れるぜ。あの破裂音、誰にも言わねぇからゆっくり浸かっていきな」
「・・・・・」
その言葉を信じたわけでは無い。だが今ここで行動するのはまだ尚早と考えたシンは鋭い目を止め右手を湯舟に沈めていった。
「アンタは俺の息子の命を救った恩人だからな」
「・・・感謝する」
まだ信じたわけでは無い。だがもしその言葉の通りなのであれば感謝するべきなのだろう。そう考えたシンはその言葉を口にした。
その言葉を聞いたゴンゾウは「ハハッ」と笑い
「その言葉は俺の方だって」
と答えたゴンゾウはカラカラと笑ってその場から去っていった。
シンは浸かっている湯の中で深呼吸する様に息をして天井を眺めた。