164.脱出
月明かりによって仄明るく目を凝らして見れば周りに様子が見える。
だが、遥か空の上では荒れ狂う程に風が吹いていれば、雲が動いて月が隠れる。そうなれば一時程不可視に近い闇が生まれてきては、すぐに月明かりによって月の光が支配する事になる。それが繰り返されれば夜歩く者にとってははっきりしない事にもどかしさが募る事だろうから曖昧な夜と思われても仕方ない。
だが、そんな曖昧な夜の中を平然と進んで城壁を乗り越えて湖岸にあった小さな船に乗って漕ぐ者がいた。
「アカツキ、気配が無いがどうだ?」
シンだった。
「ああ、問題ない。いるのは王城の門番と橋の番兵だけだ。それ以外は現状確認できないからいないと考えていいんじゃないか?」
アカツキの言葉を聞きながら2本のオールを動かして暗闇で見えない向こう岸を目指すシン。
「いや、まだ分からない。向こう岸でサクラか、アルバとかステラがスタンバイしている可能性も十分にある」
鋭い目で何も見えない向こう岸を睨む様にして見るシン。
「まぁ、こんな暗い中だからな。こちらでも確認しきれない所が多い。用心をしてくれ」
「端からそのつもりだよ」
確かに雲が見え隠れしているせいで十分に索敵できていないのは間違いない。だから、シンが進んでいる先で誰か待ち伏せている可能性も十分にある。
向こう岸につき次第いつでも対応できるように臨戦態勢になっていたシンはオールから手を離さず動かし続けていた。
隠れられる事が出来るであろう湖岸先の森の奥でも気配がない。
耳を澄ましても聞こえてくるのは湖のさざ波の音や風に靡いた木々の葉が擦れる音等の自然の音だけだった。
敵が上手く隠れている可能性もあるから周囲を凝視する様に警戒していたシン。
「・・・・・・・」
しかし、いくら確認していても敵影はおろか、気配が全く無かった。
「アカツキ、この先で誰か待ち伏せているとかはないのか?」
シンは雲が多い夜空であるにも拘らず、もう一度アカツキに誰もいないかどうかを訊ねた。
「いや、それが誰もいないんだよな・・・。そればかりか、グーグスがそちらに迎えに行っているらしいんだが、何も通信が入っていない」
アカツキの答えにシンは念の為にと言わんばかりに確認する様な口調で訊ねる。
「何かあったから連絡がない、じゃないよな?」
「いや、それは大丈夫だ。グーグスに確認取ったんだが何も起きてねぇ」
グーグスは複数体を同時に動かせる事が出来る上にどこにどのグーグスがいてどう動いているのか等すべて把握している。だから別のグーグスに訊ねればすぐに分かるからグーグスが何かあったとは考えられない。
シンとアカツキが一体どういう事だと考えているとグーグスが茂みであろう場所からガサガサと音を鳴らして僅かな時間に出ている月明かりの下にて姿を現した。
「お待たせ致しました、旦那様」
そう言って恭しく一礼するグーグス。
「ああ、ありがとう・・・。グーグス、ここまで来て悪いんだが、この場からだいぶ離れた所でゲートを開いて欲しいんだ」
頭を上げて進言し始めるグーグス。
「畏まりました。それでしたら私が来た道の奥でゲートを開いた方がよろしいでしょうか?」
グーグスの進言を聞いたシンは何も躊躇う事無く頭を縦に振った。
「ああ、それで頼む」
「畏まりました」
グーグスはそう言って再び恭しく一礼をしてシンを元来た道の奥へと導き始めた。
月が雲に隠れなくてもほとんど暗闇となっている森の中。
迷わず躊躇わず突き進むと、開けた場所程月明かりの光量が少ないものの手元位ならわかる明るい場所。
そこまで辿り着いたシン達は現状に訝し気な口調で呟いた。
「上手くいきすぎだろ」
「ああ、かえって不気味だぜ」
どうやら驚く程に呆気なく城から抜け出す事に成功した。だが、ここまで上手く進んでいる事に逆に気味が悪かった。
だからシンはグーグスにその場でゲートを開かせず、別の場所に移動する様にしたのだ。
そして結果から言えば何事も無く脱出に成功した。
「気配もないから本当に大丈夫なんだろうけど・・・」
やや不安そうに答えるシンにアカツキはやや冗談めかして答える。
「もしかすれば、嬢ちゃんはボスがこの国から出る事ないとか高を括ってっから、すんなりいったんじゃねぇのか?」
その言葉にシンとアカツキの間に数秒程無言の間が漂った。
「まさか」
少し呆れ気味にそう答えるシン。自分を捕えるのにあそこまで考えたサクラがそんな凡ミスの様な真似をするのかと、アカツキの冗談めかした答えに首を横に振るシン。
ところがどっこい。そのまさかだった。
実は本当にシンはこの国から出る事は早々ないだろうと考えていたのだ。
シンの褒賞をサクラが預ける件にて実質サクラがリードを握っている構図になっていた。その為、サクラは余程の事が無い限りシンは逃げるような真似はしないだろうと考えていた。
その為、サクラはシンが逃げないと踏んで糸の魔法でシンを監視せずにそのまま放置していた。
つまり、ギアが余計な事を吹き込まず、サクラが未だに糸の魔法でシンの事を監視していればシンが逃げ出そうとしてもすぐに対応が出来たはずなのだが、預ける件にてシンが逃げないと完全に安心しきっていたのだ。
そんな事実を知らずにアカツキはどことなく心配そうな口調で声に出した。
「ところで旦那様、米と思しき穀物を手に入れるにしては随分と短絡的すぎではございませんか?このままでは旦那様は敵に回るような事になるのでは?」
グーグスの言う通り一方的にホームステイの前例作りを破ってどこかへ行ってしまえば少なくとも王家やサクラの顔に泥を塗る事になる。そうなると国から追われる事になる。また、下手をすればサクラが所属している組織から追われてしまう羽目になる事もあり得る。無論シンが望んだ様な旅が出来なくなってしまう。
「ああ。だが、あのままいて俺の正体バレるよりかは遥かにマシだろ」
「左様でございますか・・・」
「そりゃあ、まぁそうかもしれねぇけどさ・・・」
ちゃんと考えた上でシンはレンスターティア王国から抜け出そうと考えていた。その考えはグーグスもアカツキもちゃんと理解していた。
だが、他にも何か言いたげなグーグスとアカツキにシンは首を傾げて訊ねる。
「どうかしたのか?」
「ボス、嬢ちゃんの事は良いのかよ?」
「・・・・・」
アカツキの口調から察するに心配していたのはサクラの方だった。
その言葉を耳にしたシンは無言になる。
「立場の事も外聞の事を考えればサクラ様に非難を浴びる可能性も大きいのではございませんか?」
「・・・・・」
今度はグーグスがそう尋ねてくる。
顔に泥を塗った上に、サクラの監督不行き届きでシンが野に下った事に自国の多くの権力者から非難の声が投げかけられてくる事に違いない。
「最悪怒り狂ってんじゃないのか?」
間違いなく怒っている可能性は間違いないだろう。しかも、何かしらの追手を差し向けてくるのは明白だ。
自分の身に危険を感じて、米と思しき穀物を手に入れる為にレンスターティア王国から出て行くというのは余りにも浅慮すぎる。
アカツキは最後の言葉は「今からでも遅くはないから戻って別の方法でサクラの間の手を掻い潜って米を手に入れるべきだ」と口にしようとした。
しかし、先に言葉にしたのはシンだった。
「・・・それでもだよ」
ポツリと答えるシン。
儚くて寂しそうな口調にアカツキとグーグスは気が付き、シンの言葉の続きに耳を傾けた。
「俺達はその気になればたった一個体で世界を何度でも屈服してしまいかねない力を持っているんだ」
シンを含むジンセキのスタッフのそれぞれの武力はこの世界はおろか元の世界でも世界を屈服させる程のものだ。例えばアカツキは衛星で核兵器並みの兵器を搭載すれば一方的に攻撃する事が可能だ。
自分の正体を世間に知られてしまえばジンセキの事も知られてしまう。そうなれば世界全体の力のバランスが一気に崩れかねない。その先に待っているのは大規模な戦争だ。
だから天秤に掛けた結果、自身の正体がバレるよりも望んだ様な旅が出来なくなってしまう方を選んだのだ。
「あのままサクラが感情と好奇心任せに俺達の事を詮索するような真似をし続けてしまっていれば、俺はサクラを・・・」
声のトーンが徐々に下がってきて最後まで言わなかった。シンの目元は細めて視線は下の方へ向いていた。
最後の言葉が何を言おうとしたのか十分に察したアカツキはそっと止めに入る様に言葉で遮った。
「・・・OK、ボス。もう十分だ」
シンが浅慮とも短絡的とも言える様な行動を選択したのは自分達の正体を明かさない様にするだけでなく、サクラを守る為でもあった。
サクラが感情的で好奇心任せにシンの事を詮索していればサクラを口封じしなくてはならなくなる。例え命を取らなくともサクラの身柄を拘束して人知れず知らない場所へ幽閉してジンセキのスタッフで監視をする事になる。
だが幽閉された者の末路は悲惨なものだ。
ならばこそ、一時的でもいいからサクラと距離を置こうと考えたのだ。
そこまで考えに至ったアカツキは自室となっていた王城の部屋に置手紙2通を残して出て行った事を思い出した。
「そう言えばボス、あの時部屋に置手紙みたいなものが置いてあったがありゃ何だ?」
シンは「ん」と声を小さく漏らして答える。
「一つは俺がいなくなった時、信頼できる人間以外の連中への説明を簡潔に書いた手紙。もう一つはサクラに何が必要なのかについて書かれている手紙だ」
「要は嬢ちゃんに対しての手紙って事か?」
「そういう事になるな」
浅慮で短絡的ではない。その事を改めて確認できたアカツキは
「ほ~ん・・・」
と半ば揶揄い気味な言葉だった。その言葉に眉を顰める。
「何だ?」
「いやよ、短い期間だというのに嬢ちゃんの事をよく知ってんだな」
友人と話す様な気さくな口調でシンに話すアカツキ。シンは小さな溜息をついた。
「あれだけ滞在していれば、そうなるさ」
「そういうもんか?」
「そういうもんだ」
シンとアカツキがそんなやり取りをしていると小さな轟音が聞こえた。
ドロドロドロドロ…
夜空奥からだ。
夜空と小さな轟音からふと連想したのが雨だった。
「ん?雨でも降るのか?」
そう言って利き手の平を空に向けて開いて今雨が降っているのかどうかを確認するシン。
「ああ、確実に降るぜ。ボスから見て11時の方角からでけぇ雨雲が王城に向かって進んでいるから」
「そうか、雨が降る前に」
「ああ」
そのやり取りを最後にシンはレンスターティア王国を後にした。
次の日の朝。
朝だというのにどういう訳か妙に薄暗く大きな雨粒が地面に打ち付けてザーッという酷い濁音を鳴らしていた。