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09

 眩しさにまぶたを突かれて、アンジャハティは目を覚ました。

 重しを乗せたような体のだるさと、腹に感じる鈍い痛み。

 顔をゆがめてそろそろと開けた細い視界から、一気に光が入り込む。

「うぅ……う」

 死んでいなかった。……覚悟したはずなのに。思い出した途端にからだが激しく震えだす。ゆっくりと目をつむって息を吐きながら、考えたくないと思った。腹に走る鈍い痛みが、得も言えぬ喪失感をあたえている。けれどそのぼんやりとした理由すら、考えたくはない。

「ディアス……」

 愛しかった名前。裏切ってしまった人。彼は今ごろ、どうしているのだろうか。

 ――会いたい。イクパルから逃げようとした自分には……彼を待つことができなかった自分には、もう愛を告げる資格はないのに。それでも会いたいなんて、都合のいい話だ。

 あの優しいままの彼ならば、きっと許して笑ってくれる。そう思えてしまう自分に嫌気を感じて、アンジャハティは目を閉じた。

 眠って気持ちを落ち着かせよう、そう思った矢先。

 ふわり、黒い影が瞼に落ちた。その暗さに覗き込まれたのだと察して、ふたたび目を開けると、思いも寄らぬ顔が視界に映る。

 濃い茶の髪、きりと伸びた眉と、その下にならぶ切れ長の瞳を持つ少年。まだ声変わりも終えぬような、あどけなさが残っている。

「だっ大丈夫ですか?」

 まさか目を開けるとは思わなかったのだろう。驚いた表情を浮かべて、少年は飛び退く。

 恐怖を与えぬようにだろうか。とっさにとられた控えめな距離。それが、思えばこの少年の性格をすべて映していたのだ。

 ――ああ、この子は。

 直感のようなものが、こめかみの辺りを貫いた。心配げに返事を待つ彼の顔立ちに、かすかながらも〝面影〟を見つけてしまう。

「ええ……」

 大丈夫だと、いったい何に対してなのか力なく頷いたアンジャハティを見つめて、少年はにっこりと笑った。きつめの顔立ちをしているのに、なんて柔らかく笑う子だろう。

不躾(ぶしつけ)なことをしてしまってごめんなさい。でもよかった、僕の母はあなたのようになって、そのまま目覚めなかったものですから」

 心配で。そうつぶやく少年には、微塵の(けが)れも感じられない。自分をとり巻く陰謀、そしてその陰謀の刃が、アンジャハティやディアス……はたまた三人もの皇子に向けられたことを、(つゆ)とも知らぬ顔。

「コンツ……エトワルト公子」

 〝エトワルト〟…テナンの名はみな、メルトローじみたものばかり。似ているのは、帝国に支配されるゆえの反骨からか、それとも単に、とおい昔にメルトロー国土であった過去をもつ名残からなのか。

 アンジャハティは(かす)れ声で、少年の名を口に乗せた。罪深い……けれど罪などまったく無い、その名を。

「はい。お初にお目にかかります、アンジャハティ・トスカルナ姫」

「あの、ここは」

 見覚えのない部屋だが、てっきりハレムの一室なのだと思いこんでいた。男子禁制のハレムに、部外者であるこの少年が現れるはずがない。となると、ここがどこなのか途端にわからなくなる。

「ここはワルダヤ・ハサリ・サプリズ中佐の宮です。中佐が姫をハレムからお救いし、こちらに」

「ワルダヤ…」

 見覚えのない室に納得するものの、今度はワルダヤとは誰だったか思い出せずに首をひねる。曇った顔のままのアンジャハティを見て、少年は微笑んだ。

「お忘れになりましたか? 一度だけ、お会いしたことがあると伺ってます。ハレムの北の裏庭で」

「……もしや、妾妃(ギョズデ・ジャーリヤ)・ファラマファタの」

 ――ワルダヤ・ハサリ。そうだ、以前ファラマに連れゆかれた裏庭で、軍人じみた男性と会ったのだった。お見知りおきをと言われたものの、それがすっかり記憶の外だったとは。

「ごめんなさい、話すことを禁じられていたので直接ご挨拶していないのです。お会いできますか、お礼を申し上げなくては」

「お伝えしようと思っていたところです。走って呼んでまいりますね!」

「ありがとうございます、エトワルト公子」

「いいえ。……あ、それと」

「はい?」

「僕はもう、テナン公国には住んでいないので、よろしければ字のほうでお呼びくださいませんか」

 コンツェと。笑ってそう言い残し、少年は室を抜けて走っていく。

「ワルターさんっ! 姫が!」

「……コンツェ、か」

 回廊から聞こえてくる声にわずかに笑みながら、アンジャハティはよほどイクパルらしい名を口にした。

 憎むべき対象を見つけたら、もっと激しい感情が噴き出すと思っていたのに。いざ目の前にすると、怒りどころか悲しみさえも、すとんと落ちていってしまった。

 ディアスが投獄された、すべての元凶である少年。――いや、元凶をいうならばもっと別のことか。テナン公が正妃を差し出したという夜、アンジャハティが第一王子を拒んだ夜会。皆が皆、この自分でさえ原因の一端を担っている。

「泣いているかと思えば、存外静かですね」

 ひとり感傷に浸っていると、室の入り口に美しい白銀の髪が立っていた。それを見つけてアンジャハティは顔を背けたが、そんなあからさまな態度にもかかわらず、現れた人物はつかつかと歩いてくるのだった。

「お元気そうで安心しましたよ。かれこれ……四年ぶりでしたか」

「兄上、こんなところへお出でになってよろしかったのですか? ここはサプリズ宮なのでしょう」

 皇帝宮のハレムではなく、一貴族の宮なのに。

 兄とは、もう久しく会っていなかった。ともに学び育ったはずの彼は、いつのまにかその心を野心に浸けてしまったから。

 愛人の子というだけでトスカルナを継がせなかった父に抗するように、彼は家を出て行った。ハレムに、一番権力に近いその場所に―――性別を捨ててまで。

「心配することはありません。これでも宦官長にまで上り詰め、多少の自由は利くのです。これを飲みなさい。あの薬は、身体に負担が大きい」

「……薬?」

 理解者だと思っていた。突然できた兄ではあったが、優しくしてもらった記憶もたしかにある。肉親というつながりに抱いた、ずっと守ってもらえるという甘え。けれど彼は、アンジャハティとトスカルナ家、そして母を、彼と関わる者すべてを捨て去り、権力の世界へ行ってしまった。

 ただ父に、認められたいがためだけに。

「兄上……まさか、あなたなのですか」

 アンジャハティの頬を伝い始めた涙を黙って見つめながら、兄――ウズルダンは静かに言った。

半分は(、、、)

「どうして……!」

「アンジャハティ。お前は皇帝の子を産んで、それでどうするつもりだったのです」

「そんなこと、」

「傷が癒えたらここを去りなさい。お前は死なずに、真実を見すぎている」

「わかっていますわ、テナン公国なのでしょう? 黒幕は、すべてあの公王がおこなったと言うのでしょう。さっきの公子が、皇帝の嫡子だから!!」

 振り上げた手を掴まれて、見上げると兄の悲痛な顔が目に入った。冷たい仮面のような顔立ちなのに、こんな表情ができるのかと思えるくらい。

「……黙りなさい」

 掴まれた手が、きりきりと痛い。

「第四皇子を解放するために、お前の子は邪魔になる。私にはそれだけです」

「どういうことなのですか? 兄上はわたくしに薬を盛っただけなのでは? あの鎧の者たちも、あなたの差し金なのですか!」

「そう思いたければ、思えばいい」

 白い頬が皮肉げにゆがむのを見て、アンジャハティは激昂した。

「けっきょく、あなたは権力だけなのですわね!」

 そのためには、妹を殺しても構わないとさえ思えるのか。

 怒りに震えだしたアンジャハティを見下ろして、ウズルダンは息を吐いた。

「私を憎めばいい。四公などへ憎しみをぶつけるのはやめなさい。そうしていれば、お前は今後も死なずに済む」

「――いい加減にしないかウズルダン。妹君を落ち着かせてやれ」

 仕切り幕を潜り出て、大柄な男が顔を出した。ワルダヤ・サプリズ――暗がりで見えなかったその姿をようやく確認して、アンジャハティは納得する。面立ちに、ファラマファタの名残があったのだ。

 強く鋭利な骨格と、意志の固そうな栗色の瞳、ファラマほどではなくも色の濃い肌。あきらかに、彼女と血縁を持つことをただよわせている。名前こそイクパル本土のものだが、その血筋にテナンが混じることには間違いなかった。

「緊急ですので、ご挨拶はのちほど。――アンジャハティ姫、実質、貴女はまだ暗殺されたことになっております。ここへお運びしたのも、生存の事実を隠すため。いつ事が公になるか分かりませんが、そうなるとまたお命が危ない」

「ならばもう、危ないのではなくて? わたくしの兄が首謀者のようですから」

 その首謀者は、今ここにいてアンジャハティの生存を確認しているのだから。

 皮肉を交えて吐き出したアンジャハティを困ったように見つめて、ワルダヤは肩をすくめた。

「まったく、そんなことを申し上げたのですか、こいつは。……失礼、姫。こいつは口が足りない奴ですが、今回のは貴女を守ろうとしてのこともあったのです。無論、首謀者もこいつではない。腹の子が降りさえすれば、貴女は暗殺されずに済んだのですから。けれど一足遅かったようだ。まさか奴らとはち合わせるこ

とになるとは」

「……どういう、」

「首謀者を言うことはできません。いや、……もうお察しかもしれませんが。けれど口には出さぬほうがいい。その位、大きいということですよ姫。そのために貴女は〝死んだまま〟この国から逃げて頂く必要がある」

「もとから……逃げる予定でしたのに」

「――そう、御子を身ごもったまま逃げるご予定だった。ですがそれこそ、人知れず殺される運命にあった」

 ワルダヤはゆっくりと深い息をして、アンジャハティと目線を合わせるために跪く。横に伸びた形のいい眉をひそめて、彼は続けた。

「もう遺言になってしまいましたが。ファラマファタ様の手配で、貴女を逃がす手順は未だ残っております。それを使い、今日中に」

「遺言……?」

「はい。乗り込んだ奴らから貴女を助けるため、知らせに走ったようです。血だらけのままウズルダンの元に。けれどもう、その時には助けられる域を越えていました。……これを貴女にと」

 手渡されたのはいつか、ファラマが見せてくれた銀色の鍵だった。檻のようなハレムから〝逃げる〟日のために覚えておけと。

「そんな、」

 自分のせいで、またも大切な命を無くしてしまった。あんなにも親身に、痛みをわかってくれた女性なのに。恩返しもできぬまま死んでしまうなんて……。

「姫、手筈の者が貴女を逃がすため帝都に参っております」

 ワルダヤはアンジャハティの肩に手を置いて、言った。

「どうか何も知らぬまま、お逃げください」


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