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03

 「よいなアンジャハティ。ラジル皇子の後宮に入り、早く殿下の御子を授かるのだ。もうじき殿下の立太子も決まっている。お前の血筋なら必ずや、ラジル皇子が皇帝に即位した折には皇后陛下(サグエ・ジャーリヤ)の称号が頂けるであろう」

 〝婚姻〟とは名ばかり。そもそもは彼の言うようなサグエ・ジャーリヤになることこそが、本当の意味での婚姻だ。愛妾(ジャーリヤ)妾妃(ギョズデ・ジャーリア)も、所詮は奴隷と同じ、〝所有物〟に他ならない。愛妾がハレムでの地位をのしあげて、皇帝と対等の地位を得る――それがこの国で最も自由を約束された、女の栄華の道。

 アンジャハティは大きな鏡の前に写る自分を、ぼんやりと眺める。

 白い絹の衣装に、藍色の上套――ラピスラズリの首飾りが侍女の手から頭を通り、しゃらりと小さな音をたてた。赤く長い髪は項を中心にして左右に分かれ、頭の上までゆるく編み上げられている。

 〝深紅の美〟と――言い始めたのは誰だったか。人前に顔を出さぬイクパルの女性の美しさの評判は、もっぱら噂のみで広がる。

 こんな容姿、いいと思ったことなど一度もなかった。やおら見かけが変わっているせいで、好きでもない逆らえぬ身分を持つ男の元に嫁がねばならないなどと。

「やはり、我が娘ながら美しいな。誇らしく思うぞアンジャハティ。お前は背が高いが、ラジル皇子殿下はお前より頭二つは高い。並んでも、見劣りはすまいて」

「そうなのですか」

 頭二つ――ディアスとも確か、そのくらい離れていた気がする。会わなくなって、早ふた月。噂でしか耳にすることのなくなった彼は今、方々の娼館を潰し歩き、貴族の宮に忍び込んでは見境いなく令嬢を抱いているのだという。

 ――恋歌など流れはしたものの、「深紅の美も、遊ばれたのだ」という新たな噂が加わっていた。

「あの第四皇子には困ったものだ。婚前のお前を軽々しく奪うとは。まあ、あれで本気でなくて助かった。いらぬ画策をせずにすむというもの。集めた大元老たちにはお帰り頂ける」

 ――女を盗られた第四皇子は、兄を殺すのではないか? そんな疑念を抱いたのは父だけではないようだった。元老に加えて、滅多に収集されることのない大元老――公王たちまで、帝宮に来ていたとは。

「あのように頭の良い方が、私などに本気になるはずはございませんわ、父上」

 皮肉をこめたつもりで、アンジャハティは父親の顔を見つめた。ディアスの見せ始めた振る舞いの本当の思惑。

 流れた噂のお陰で、「婚前のくせ、男に懸想(けそう)するとはふしだらな女だ」などとアンジャハティを非難する者は誰一人いなかった。ただただ「可哀想な娘だ」と、「ラジル皇子なら真に愛してくださる」という慰めの言葉ばかり。

 ディアスはアンジャハティとの関係を〝遊びだった〟と他に思わせ、ものの見事に「何の罪もない被害者」に仕立て上げてくれたのだ。

 自分の名声が地まで落ちてしまうのも厭わず。

「ディアス皇子殿下は御年十六になったばかり。まだ、愛を誓うには早すぎる若さですもの」

 そう、若すぎる。早熟で切れ者の第四皇子が頭角を現すには、まだまだ早い。女好きでふしだらな男だと、思わせていればいいのだ。そうすれば侮った者も見破った者も、等しく彼に本性を曝す。

「さあ、行こうぞ。ハレムの門まで、父が先導しよう」

 



 純白と瑠璃の宮殿に、感慨を抱かなかったと言えば嘘になる。人並みに美しいと感嘆し、歩き回っては壁の模様を指で辿った。

 けれどあとは、通された部屋の窓縁で、月光が射し込んでくるのをじっと見ていただけ。

 後宮(ハレム)というところは、こんなものか。自分の宮に籠もっているのと、さして代わり映えながない。唯一変わるとしたなら、これから毎日、ラジル皇子のほかのジャーリヤたちと、皇子の寵愛を争わねばならないことぐらいだ。

「……アンジャハティ姫」

 ふぁさり、幕が開く衣擦れの音がして、継いで男の声が響いた。その低い声に、アンジャハティは慌てて振り返る。

 ディアス……? そう呼びかけようとするが、目線の先には月の逆光で真っ黒に染まった人影しかみえない。

 ディアスの深みある声色に似ていた気がして、アンジャハティは立ち上がる。

「ほう……噂に聞くとおり美姫ではないか」

 続けざまに発せられた、彼より一層低い渋みの増した声色。アンジャハティは進みかけた足をひたりと止める。

 明らかに、ディアスではない声。

 ディアスも低い声音を持つが、年に合う若々しさが漂っていた。今聞いた声が彼のものだとしたなら、随分と年をとり過ぎている。

「誰……」

「息子にやるには勿体無い美しさだ」

 するすると音も立てずに近寄り来る真っ黒な影に、アンジャハティは悲鳴を上げそこなった。窓から射す月明かりに人物の顔が浮かび上がる。

「へ、陛……!!」

 薄青い月光に照らされた顔を見て、アンジャハティは驚きに目を開けた。こんなところ――ラジル皇子のハレムに居るはずのない人物。

 なぜ……そう問いかける以前に、伸びてきた大きな手が肩元を掴み、強い力で押していく。

「ど、どうなさったのです? ラジル皇子はこちらには……」

 体勢を崩して絨毯の上に尻を落としたアンジャハティは、まだ事態が飲み込めていなかった。

「大人しくしているがよい。死にたくなければな」

 のし掛かった重い体重に、アンジャハティはようやく気づく。けれど、振り上げた両手をたった一本の腕で抑えつけられては、ただただ悲鳴を上げるしかなかった。

「きゃああああ!! 誰か! 誰か!」

「無駄ぞ。余がここにいることは、みな承知なのだからな」

「お……やめくださ…陛…ぐ!」

 口を塞ぐように男の唇が襲いきて、アンジャハティの悲鳴がくぐもる。

「ラジルはチャダ小国に向かわせた。当分は戻らぬ。前から余はお前を欲しいと思っておったのだ」

「あぁ………!」

 ――無理やり、押し開かれた唐突な痛み。

 ……気絶してしまえたなら、どんなに楽だっただろう。

 か細い神経を持ちあわせてはいなかったことを、あんなにも呪わしく思ったことはなかった。

 押し付けられた毛の硬い絨毯の上で、背中がずりずりと擦れてめくれていく。

 アンジャハティは悲鳴すら忘れて、長い間、人形のように揺さぶられ続けた。


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