第3話 当時の徳川御三家と、五代将軍綱吉の、生類憐れみの令に関して
当時の徳川御三家は、2代目の時代だったが、さすがに皆、年をとってきたので、そろそろ3代目に譲ろうかという頃のこと。
徳川御三家
紀州藩
2代藩主 光貞
3代藩主 綱教
尾張藩
2代藩主 光友
3代藩主 綱誠
水戸藩
2代藩主 光圀
3代藩主 綱條
「水戸黄門」で有名な、徳川光圀は、自らの息子の綱條ではなく、なぜか甲州の綱豊を、次期将軍に推挙し、その後ろだてとなっていた。
5代将軍綱吉に世継ぎがなかったことが、そもそもの次期将軍争いの原因となっているが、その綱吉というのは、
「犬公方」といわれ、あの生類憐れみの令を発令したことで有名だ。
実は、その生類憐れみの令を発令したことも、世継ぎができなかったことと、関係している。
生類憐れみの令は天下の悪法ともいわれ、
数知れぬいわれのない罪人、
いや、この天下の悪法によって、罪人とされた人々を生み出したともいわれるが、
同時に生類を大事にすることは道理にかなうという意見もあり、
現在では賛否両論の議論が続いている。
綱吉はその後、世継ぎとなる男子を産ませるためと称して、次から次へと側室らを迎えるが、
いつまでたっても、世継ぎとなる男子は生まれてこない。
そんなことは我関せずとばかりに、
この頃の頼方は、どうせこのまま一生跡取りにはなれないだろうという思いから、
部屋住みの身分をいいことに、気ままに過ごしていた。
部屋住みとはいえ、藩主の息子ということで、城中の部屋に住んではいたのだが、
その部屋をよくお忍びで抜け出し、家来の者たちが探しに行くというありさま。
そして、なぜかお忍びで抜け出す際、脇田久次も同行していたのだった。
かくいう脇田久次も、こっちの時代にやってくるまでは、これといった取り柄もなく、
どうせ努力なんかしても、周りのやつらにはかなわない、
いや、ある程度努力すれば、ある程度のところまではできるようになるよ、ということも、周囲からは言われてはいたが、
その程度のところまで、できるようになったからといって、何になる、という思いもあり、その努力することも、やめてしまったという経緯がある。
「さあさあ、今日はどちらへ参りましょう。」
2人は城をぬけ出し、城下町もぬけて、のどかな農村まで、足を伸ばした。
「わしは、跡取りになど、なりとうはない。
考えようによっては、部屋住みなら一生部屋住みのままでも、それはそれで、気楽に過ごせるというもの。」
当時の頼方は、このような考えを持っていた。
そして、脇田久次も、この時はまだ、そのような考えだった。
とにかく、努力というものをするのが嫌いだった。
「もし頼方様が跡取りにならなくても、かわりに跡取りになってくれる、誰かがいるならな…。
しかし、時には、誰かがそれを、やらねばならない時も、あるからな…。」
脇田久次はそう言う。
そして、努力をする、しないに関わらず、否も応もなく、数奇な運命の歯車が、回りはじめていたのだった…。
連日のように城をぬけ出しては、農村で気ままに時間を過ごしていた、頼方と、脇田久次には、そんなことなど、その時はまだ、全く知るよしもなかったのだった…。