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正徳の治

6代将軍家宣の時代になってから行われることになった、正徳の治。

「いったいこの、正徳の治とやらが、どんなふうになっていくか、まずは見ていくことにしよう。」

先代綱吉の代に勘定奉行として取り立てられた、荻原重秀(おぎわら・しげひで)なる人物が、幕府の財政が急速に悪化したことにより、それまで使用されていた慶長小判から、質を落とした元禄小判に、貨幣を改鋳(かいちゅう)したのだが、貨幣の価値が低下し、物価が上がって庶民の生活は苦しくなった。そこでまず、それを元に戻すところから始めたのだった。


この正徳の治で起用されたのが、新井白石(あらい・はくせき)と、側用人の間部詮房(まなべ・あきふさ)だった。

一方で、それまで綱吉(つなよし)に仕えていた重臣たちの多くは、家宣(いえのぶ)が新たに起用した重臣たちによって、その座を追われることになった。

綱吉(つなよし)の側用人、柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)も、その1人だった。

「本日をもって、側用人に、間部詮房(まなべ・あきふさ)を起用し、柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)の側用人の職を解く。」「ははっ…。」

それからまもなく、柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)は、失意のうちにこの世を去った。

「これでようやく、柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)を引きずり下ろすことができましたな。ふはは…。」

間部詮房(まなべ・あきふさ)は不敵な笑みを浮かべていた。将軍の代が変わると側用人の代も変わる、といったことが、その後も繰り返されるのだった。

そして、幕閣(ばっかく)の要職だけでなく、大奥の方でも、それまで幅を聞かせていた綱吉の側室たちは肩身が狭くなり、逆に家宣の側室たちが、新たに幅を聞かせるようになっていた。


「側用人も、側室も、将軍の代が変われば、それで用済みなのかのう…。

キィ~~~ッ!くやしい~~~っ!」


綱吉の側室の1人、お伝の方は、そう嘆いていた。


紀州藩の方では、藩主の吉宗を時期将軍に担ぎ上げようとする動きが、活発になっていた。

その中心となっていたのが脇田久次、それと加納久通ら吉宗の側近として取り立てられていた者たちだった。

「これで史実通りにいけば、吉宗様が、将軍になられることは確実な情勢にございます。」

「ほほう、さようなのか?」

その一方で、尾張藩の方でも、藩主の吉通(よしみち)を次期将軍に担ぎ上げようとする動きが、活発になっていた。

綱誠(つななり)様の時は不覚だったが、今度こそ、吉通(よしみち)様が、次期将軍じゃ!」

しかし家宣(いえのぶ)には既に、待望の跡取りの家継(いえつぐ)が生まれていた。この家継(いえつぐ)が、7代将軍になる。

「ならば、8代将軍でもよい。家継(いえつぐ)など、生まれたばかりの幼少で、実際に政治を行うのは、後見人でもある新井白石(あらい・はくせき)と、間部詮房(まなべ・あきふさ)なのだからな。」

とある尾張藩の藩士が、そうつぶやいていた。

そして、とある紀州藩の藩士もまた、同様のことをつぶやいていた。


正徳の治は、質を落とした元禄小判から、質の良い正徳小判に改鋳(かいちゅう)するところから始まったのだった。

それは後に享保の改革を行う吉宗にとっても、参考になるほどのものだった。ものだったのだが…。やはりできればそれを、自らの手でやりたいと思うのは、世の常というものだった。



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