綱吉、死す…!そして家宣が将軍に…!
これは小説なのか、はたまた論文なのか…!
西暦1709年、5代将軍綱吉の容態が、いよいよ深刻さを増していた。
そして例によって、僧たちを呼び寄せ、延命のための祈りが、連日連夜、捧げられていた。
しかし…!
犬公方こと、5代将軍綱吉は、寿命を迎えたのだった…。
5代将軍綱吉はこうして、僧たちの必死の祈りもむなしく、この世を去った。
5代将軍綱吉の死によって、これで名実ともに、6代将軍の家宣が、幕府の全権を掌握することになったのだった。
「上様…!上様…!」
泣き崩れるのは綱吉が愛した側室たち。
世継ぎをつくるためと称して、次から次へと側室を集めていたにも関わらず、結局世継ぎは生まれなかったという。これはいったい、なぜだったのか、今だに謎である…。
そしてその知らせは、全国の諸大名にも届いた。
もちろん、紀州藩にも、その知らせは届いた。
「申し上げます!」
「何じゃ!」
「上様が…、綱吉様が、ご逝去あそばされました!」
「何っ!?綱吉様が!?」
これで次の将軍は6代家宣ということになったということも、伝えられた。
そして、もちろん綱吉の死後、生類憐れみの令は撤廃され、綱吉が愛犬のために建てさせた「お犬御殿」なども解体されることになったが、その際に、何者かによって火が放たれ、御殿は全焼し、綱吉の愛犬をはじめ犬たちが焼け死ぬという事態も発生。
それと同時に、犬たちに吠えられても逃げ回るだけだった人々が、手のひらを返すように、これまでの恨みを晴らすかのように、犬たちに対して、虐待を加えるようになった。
棒で殴る、石を投げつける、果ては首を切断したり、手足を切断してバラバラにする、そのうえその死体をゴミ捨て場に捨てるなど、
これまで生類憐れみの令によって擁護されてきた犬たちや、他の動物たちに対して、このような仕打ちが相次いだ。
それに対して吉宗や、脇田久次は、
「生類憐れみの令の廃止は、決して動物虐待を容認する免罪符になったわけではない!」
と、これらの虐待などに対しては、引き続き取り締まりを行うことにしたという。
その一方で、吉宗は将軍になってから、鷹狩りを積極的に行うようになり、それによって自らの権勢を示すとともに、
約100年に及んだ泰平の世で、たるんだ武士たちの根性をたたき直す、という意味合いも、あったのだという。
「さて、とにもかくにも、これで家宣様が、名実ともに6代将軍になったわけだが、果たして、どんな治世を行うことやら…。」
実は正直な話、脇田久次は、家宣の時代の治世に対しては、それほど関心を持ってはいなかったというが、この家宣の治世こそ、世に言う「正徳の治」というものだということを、改めて知った脇田久次だった。
脇田久次は一方で、こんなことも思っていた。
そもそも、吉宗は本当に、8代将軍になりたくて、8代将軍になったのだろうかと。
だって、紀州藩の兄たちや、次期将軍のライバル候補たちや、それに、歴代の将軍たちも、次から次へと、都合のいいように、死んでいく。
これはもしかして、吉宗自身が幼少の頃から考えていて、意図的に仕組んだことなのか…。
あるいは、部下の誰かが、吉宗を将軍にするためにと、吉宗に命じられたか、いやあるいはその部下たちの独断で、やったことなのか…。
それとも本当に、神仏が仕組んだ、運命のいたずらだったのだろうか…。
ここまでの一連の流れを見てみると、そう思えてならなかった、脇田久次であった。
「だって、僕らが歴史の教科書で習った通りの展開になれば、そういうことになるんだから…。」
この後、「正徳の治」が終わった後に、本当に吉宗は、8代将軍に就任する、それは綱吉の没後、7年後のことだった…。




