第9話 犬公方と鷹将軍
ここは江戸城。将軍謁見の間。
5代将軍綱吉が姿を現した。
その右横には、次期将軍に内定した綱豊、
そして綱吉の左横には、時の側用人、柳沢吉保の姿もあった。
「一同の者、おもてをあげよ。」
尾張藩の吉通を真ん中に、紀州藩の頼方、水戸藩の綱條と、徳川御三家が並ぶ。
「尾張、紀州、水戸の御三家のそろい踏みは、久々よのう。」
まずは、側用人、柳沢吉保が言った。
この柳沢吉保は、綱吉から政治の全権を任され、実質はこの柳沢吉保の意志決定が、そのまま綱吉の意志決定として、伝えられていた。
「次期将軍に内定した、綱豊じゃ。
不慮の出来事があったということで、結局は消去法で、この綱豊が、次期将軍に内定したのじゃ。」
「……。」
続いて、綱豊が挨拶をする。この綱豊が、6代将軍家宣になるのである。
「……。」
吉通と、頼方は、その綱豊を、にらみつけるようにして、見ていた。
本来なら、我が兄、綱教が、我が父、綱誠が、あの席に座っていたはずなのに…。
と、吉通も、頼方も、恨めしそうに、見ていた。
脇田久次ら、御三家の供の者たちは、その後ろに座って、話を聞くことになっていた。
しかし、正直な話、脇田久次は、堅苦しい挨拶や、式典などは、実は大の苦手だった。
足がしびれる…。そう思った脇田久次は、わざと足をくずし、あぐらをかいてしまう。
「これ!上様の御前なるぞ!」
横にいた加納久通に叱責される。そういう久通は、平気なのかよ、と思ったが、仕方なく正座に戻す。
そこに綱吉が一言。
「こたびは、頼方の紀州藩主就任の報告ということで、
どうじゃ、わしが名を与えるゆえ…。」
御三家や、譜代大名、外様大名といった有力大名たちは、その時の将軍の片諱を、名前として与えられる。
例えばこの綱吉なら、片諱は、「吉」といったように。
3代家光の「光」、4代家綱なら、「綱」といったような感じだ。
つまり、当時の大名の名前に、「光○」「綱○」「吉○」という名前が多かったのは、そのためである。
これは江戸時代の話だけでなく、戦国時代や、そのもっと前の室町時代、そして鎌倉時代に武家政権が始まってからの、古くからのならわしとして、習慣づけられていたことだったのだ。
そして綱吉はしばらく考え込み、
「うーん、何がよいかな…。」
そして綱吉はある名をひらめいたようだった。
「吉宗!吉宗という名はどうじゃ?
わが綱吉の吉と、伊達政宗の宗で、徳川吉宗じゃ!
そなたはこれより、徳川吉宗と、名乗るがよい!」
「ははーっ!これより、徳川吉宗と名乗らせていただきます!」
こうして、松平頼方改め、徳川吉宗が、ここに誕生した。
これが、犬公方綱吉と、鷹将軍吉宗との、再びの顔合わせであった。
犬公方綱吉は、犬などの生類を大切にするようにという、「生類憐れみの令」を公布することによって、その権力を示し、
対して鷹将軍吉宗は、古来より武士の習わしとされてきた、鷹狩りを積極的に行うことで、こちらもまた、その権力を内外に示したのだった。
以上、ここまでのこの文章を書いたのが、祐筆でもある、脇田久次なのだった。
「よしっ!これでようやく、ここまで書き終えたぞ!ふうっ…。」
そして、ようやく堅苦しい挨拶も終わり、脇田久次は、この際だから、江戸市中に遊びに出ようかと考え、市中に繰り出していた。
「ようやっと、用は済んだ!あとは無礼講だ!
さあ、おもいっきり食べ歩いて、遊んで、楽しむぞー!こういう楽しみもなければ、宮仕えの身、とても身が持たん!
…徳川吉宗か…。改めて聞いてみると、まことによい名じゃ…。
わしの喜びは、このお方はと見込んだ人物を、いかに輝かせていくかということ。
それができれば、それがわしにとっての何よりの報酬なのじゃー!」
この日ばかりは、夜通し江戸市中にて遊び回った、脇田久次であった…。