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ASTRAL LEGEND  作者: 七瀬渚
第5章/未来のために
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10.未知〜Unknown〜



正午あたりの図書室は薄明るくも重厚で厳か。古ぼけたような匂いは嫌いじゃないどろかむしろ好きなたぐい。遠くてはしゃぐ声、チャイムの音さえ静寂のフィルターで穏やかな音色に変えてくれるよう。実に居心地がいい。


こんな風に感じるのは今に始まったことじゃない。何度となく通いつめた場所、わざわざこの時間帯を狙って訪れたことだって少なくはない。懐かしく思う反面で逸る意識。新たに掻き集めた本を机の上に山積みにして、伊津美はふぅ、と息を吐く。こうなってしまうといつもキリの良いところを見失ってしまう。昼食は一体何時になることやら。




ーーあの怒涛の卒業式が終わって春休みに入った。約二週間もこの世界を離れていて、やっと戻ってきたと思ったらすぐに休み。学力の衰えが心配だ。ともかく記憶の新しいうちに早急に取り戻さねばならない。立ち止まっている時間はない。もはや言うまでもない、これこそが逸る意識の正体だ。


伊津美は今までにも増して図書館、もしくは校内の図書室に通い詰めるようになった。あと一ヶ月もしないうちに3年生、つまり受験生となる。それから大学、その次は大学院、と進んで研究を重ねる。きっと気が遠くなる程、長い期間と膨大な労力、精神力を要するだろう。2000年に比べたら?確かにそうだけれど、問題は時間の長さより密度だ。惑星大気科学に携わる研究員への道はまだまだ遠い。



しばらく机に向かってペンを走らせ、疲れたら顔を上げた。その都度何度となくため息が漏れた。腕時計を見る…もうすぐ14時。昼時と言える時刻ギリギリと言えよう。カタ、と伊津美はペンを置いた。もうどう頑張ってもこれ以上の情報を詰め込めそうにない。まるまる一週間、みっちりこんな過ごし方をしてしまったのだ、さすがに限界か、と痛む額を押さえ少しばかり反省しながら。


無駄な時間を過ごすのはもっと痛い。今日はこれで切り上げると決めた。こんなときにいくら叩き込んだって身にはならないと知っているからだ。手早く本を戻し始めた。着々と片付いていく、だけど残した、一つだけ。荷物をまとめ終えたところで手に取った。それに視線を落とした。


一度は美咲の代わりに返却した。今度は私が借りることにした、これを。目指す分野とは全く関係がない。しかし、これから進む長い道のりには大いに関係があるように思えた。


一冊残った、それは伝記。戦争経験から得たものを自身の命が尽きるまで世界へ伝え歩いた一人の男。元弱小兵士。



【ライアン・グレンジャー】



本棚の奥まった場所で埃を被っていたのだという彼の物語は、手にする者も数える程度しかいない、知る人ぞ知る代物なのだろう。事実、これまで目にしたどの教科書にもこんな名前はなかった。


名もなき兵士、そして未来を約束した若き恋人同士が犠牲となった悲しい事件は、膨大な歴史の中では呆気なく埋れてしまう程に小さかったとわかる。それでも生き残った彼は語り継ぐことをやめなかった。罪悪感に苦しみ、己の弱さを呪い、傷を抉って激痛に耐えながらも伝えた。そして今もなお、彼の足跡はこうして残っているのだ。それを知る者がどんなに少なかったとしても。



未来を信じる…か。



バッグを肩にかけて伊津美は歩き出した。小さな足跡の記録を連れて、カウンターへ。





今日も優輝は部活に出ていると聞いた。アストラルからの帰還以来、より熱心に。受験勉強に取り組む時間はおそらくないだろう。彼もまた新たな道を歩み始めている。同じ学校へ通わなければ、繋ぎ止めておかなければ、という焦りはもう薄れたのかも知れない。そんな必要はないとの判断であることを、今まさに信じようとしている。


偏差値48から78の高校まだ登り詰めたというのにもったいない…世間一般の解釈はそんなところだろうか。だけど…



そもそも動機が動機だったんだから。



何だか可笑しくなった、伊津美はふふ、と笑みを含ませる。くすぐったく。どんな道を進んだってきっとこればかりは変わらない、大切な彼の姿を思い浮かべて向かった足はグラウンド前で止まった。



サッカー部の練習風景が一望できるベストポジション。そこにはすでに先客が居た。小さな背丈、細い脚、柔らかそうなツインテール。こちらに気付く様子もない彼女は、ひたすら前のめりにグラウンドへ身体を向けている。ユニフォーム姿の男子が二人、彼女をチラチラ見ながら近くを通り過ぎる。声が聞こえてくる。



乃愛のあちゃんだ、可愛いな。


無理無理、あの子が見てんのは昭島だけだぜ?



なるほど。伊津美は頷いた。やはり優輝以外は気付いているのだ、と。『鈍』『感』の二文字が改めて脳裏に浮かんでくる。


ここからでも十分に見える。ここでいい、別に。特にこのまま関わるつもりもなく、ただ練習風景を眺める気でいた。しかしそうもいかなくなった。大人しくグラウンドを見ていた神崎乃愛がそわそわと動き始めたのだ。


彼女の見つめる先を目で追ってみた。鈍感な彼の姿があった。乃愛の後ろ姿が手を振りピョンピョンと跳ねる。伴ってツインテールまでピョンピョン…何の小動物だ、と言いたくなる。伊津美は歩き出した。そちらへ向かって、早足で。



「優輝センパーイ!クッキー食べませんかぁ?」


「優輝!お茶持ってきたわよ!」



冷 た い の 。



最後は特にゆっくりと。隣の黄色い声にしっとりとしたアルトの音色を重ねてあげた。ツインテールが宙で弧を描く。唖然と見上げる彼女の顔に向かって、伊津美は自身の持ち合わせる、より完成度の高い笑顔を惜しみなく放つ。


乃愛がきごちなく笑った。一礼をすると腕に抱えたピンクの袋を守るように身体を丸めて去っていく。伊津美は顔だけで振り返った。彼女の向かう先、見逃さなかった。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



蹴り上げられた空き缶が壁に当たってカン!と音を立てる。


「何よアレ、嫌な感じ!」


クッキーをたらふく飲み込んだ袋をまだ大事そうに抱えたままの、乃愛が呟いている。普段の愛らしい顔が嘘のように険しく歪んでいる。顎なんてしわしわの梅干し状態。何と残念なこと。



「先輩のインフルエンザもきっとあの女が感染うつしたんだわ」


「そうね、感染うつってもおかしくない仲だものね」



でしょ!?と乃愛が声を上げる。いよいよ本格的に軌道に乗ったか、彼女が早口で続きを言う。



「あの女、いつもすましてるけど、見えないところでは優輝先輩にベタベタと…」



……っ。




やっと振り返った、彼女が一瞬にして凍った。腕組み仁王立ち、サディストな漆黒の友にあやかってにんまりと笑う伊津美。



え、え、な、何で?



部室の裏。みっともなくうろたえる乃愛に伊津美は言う。



「面白いものを見ちゃったわ」


「な、何のことですかぁ~?」



乃愛が斜め右上に視線を泳がせる。まぁ、そう来るわよね、と思いつつ伊津美は頷く。しらばっくれることくらい想定内。次の手ならもう考えてある。


伊津美はブレザーのポケットから取り出したものを彼女の前に突き出した。乃愛が顔色を変えて、なっ!と叫んだ。


「何してくれてんのよ、腹黒女!!」


突き付けられたスマートフォンに手を伸ばす乃愛。伊津美はそれをひらりとかわして言う。


「何をされたと思ったの?」


え、という呟き。


「動画だとか?写真だとか?あなたが困るようなもの?は何もないわよ」


見てみる?余裕の表情で聞いてみる。乃愛の身体はしぼむように前方へ傾く。


「騙したわね…」


コンタクトレンズで強調された大きな瞳が恨めしそうに睨み上げる。やれやれ、そんな思いで伊津美はため息を吐く。


「腹黒はどっちかしら?」


そう言った。でも、と続けた。自分だけが知る、あの日の彼女に語りかけるように。



「私、今のあなたの方が好きよ」



可愛らしい顔を台無しにしてしまうくらい素直で、いじらしくて、なりふり構わず優輝を追う。自分と同じ人が好きな女の子。


更に呆気にとられて目を大きくしていた乃愛が、やがて逃げるみたいに目をそむけた。



「別に、桜庭先輩に好かれても…嬉しくないです」



頬を染め、唇を尖らせながら、可愛い仕草で小憎たらしいことを言った。






ーー土埃を舞い躍らせるグラウンド。部室の壁を背もたれに、そちらへ向かって並んで座る女子高生が、二人。練習試合を一つ終えた男子たちは存在感のあり過ぎる光景に釘付けだ。



キレイ女子とカワイイ女子!


最高の眺めだな!



真っ盛りな彼らは色めき立つ。どのような経緯でこの状態に至るのかも知らない…うん、知らない方が、幸せだろう。優輝は肩を組まれて何やら絡まれている様子。



くそ、何で昭島ばっかモテるんだよ!



困惑の表情を浮かべる優輝はこちらに近付いては来ない。仕方がない。



あーあ…



隣から、気だるい声がした。乃愛だった。


「優輝先輩にあげたかったのに。もうどうでも良くなっちゃった」


クッキーを頬張りながら彼女は言う。ヤケになって詰め込んでリスの頬袋みたい。二人の間に置かれたピンクの袋。伊津美もそこに手を突っ込み、一つ取って口に放り込む。焼き加減はまずまずだがやたら甘い。理解するより先に口内の水分が持って行かれた。スポーツをしている人間にこれはどうなのか、と密かに思った。



次の練習試合が始まろうとしている。名残惜しそうに向けられる複数の視線。その半数以上は憮然とした顔で体育座りしている彼女へ送られているようだ。


伊津美は水筒のコップにお茶を注いだ。それを差し出す。乃愛は首を横に振る。仕方なく自分で飲み干す。


うん…受け取られなくて良かったかも、なんて思った。意外とぬるい。張り合って大見得を切るなんて、我ながら柄にもないことをしたもんだ。



ねぇ。



うつむいたままの彼女に声をかける。なかったことになる前からの、一つの疑問を口にする。


「あなた、自分がモテるという自覚があるんでしょ?どうしてそこまで優輝にこだわるの?」


吹き付ける埃っぽいそよ風に肌がざらつく。しばらく風の音だけだった。それから返ってきた。



「わかりません。そんなの、理屈じゃありませんよ」


乃愛は横目で伊津美を見る。すぐに目をそらした彼女はまた、唇を尖らせて。


「桜庭先輩みたいな完璧な才女にはわからないでしょうけど」



彼女の知らない彼女の言葉が脳内でリンクする。



ーー桜庭先輩は綺麗で頭も良くて…ーー



ううん。



伊津美は緩くかぶりを振った。わかるわ、と続けた。乃愛がゆっくりと見上げる。彼女に教えてあげる。




「人は理屈じゃないものにこそ、惹かれてしまうものなのよ」




何故だろうか。何故か、こんな言葉になって出てきた。聞いた覚えは多分、ないはず。乃愛は目を丸くしている。驚いている。



「じゃあ、桜庭先輩も…」



言いかけたところで彼女は口をつぐんだ。何かと葛藤でもするみたいにうつむいた。そしてまた、顔を上げた。強い眼差しをこちらに向けて。



「私、諦めませんから」



「望むところよ」



クイ、と顎を上げる、上から目線。俺様気取りの同志にあやかって見下ろしてやる。きっと他の誰にも知られることのない、小さな小さな戦いの兆しが存在した。



ふふっ…二人は笑った。はたから見ると何のことはない、友達同士のように。



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