9.道〜Road〜
ーー翌朝。
久しぶりの制服に身を包んだ。玄関を出たところで立ち止まった。深く息を吸う。酸素が肉体に行き渡る、キリッと冴えた朝の空気だ。
家の少し先で優輝が待っていた。お待たせ、と声をかけると、憮然とした表情が振り向く。
「…叩くこたぁねぇだろ」
頬に手を当てた彼が言う。伊津美はツン、とそっぽを向く。
「調子に乗るからよ」
冷たく言い放って先を歩いた。不満げな優輝の声がブツブツ文句を言いながら付いてくる。伊津美は前に向かってため息を吐く。
あんな状況でなければ私だって…そんな感じの何かが脳裏に浮かんだ後、顔を伏せた。何を考えているのだろう、と恥ずかしくなった。
伊津美ー!
昭島ーっ!
学校まであと少しというところで背後からの声に振り向かされた。伊津美、そして優輝もそのまま静止した。何ということ…今になって気付いた。全く違うものだと思っていたの彼女と彼女の声、まさかこんなに元の質が似ていたなんて。
メ…
思わず呼びそうになった。あの名の方を。そうしている間に満面の笑みを咲かせた声の主が二人の元へ駆け付けた。
「美咲…」
「おはよう!二人とも、もう大丈夫なの?」
伊津美は何も返せなかった。酷似した二つの笑顔が脳内…いや、しっかり目の前で重なりだす。色の濃い方の美咲が首を傾げる。
「な…何?二人して。私、何か変?」
何も知らない彼女は戸惑いの表情で彼とこちらとを交互に見ている。大きな漆黒の瞳。気のせいなんかじゃない、と悟った。
「ううん、何でもないのよ…」
伊津美は首を横に振った。彼女を真っ直ぐ、見て言った。
「美咲、いつもありがとう」
キョトンとした顔が見つめ返す。当然の反応だろう。それでも伊津美は微笑んだ。横に立つ優輝もうんうん、と頷きながら同じ方を見ている。彼もきっとわかっている。
手がかりになったのは、声。あの星空の空中戦で顔を隠した彼女と初めて会ったはずの彼が気付いた、その時点で間違いはないだろう。思えばあのときもだ。あの世界に導かれることになった第一歩、それを与えたのも彼の“声”だったと気付く。
肉体を纏った魂…私たち。声は単に声帯の振動によるものではないとここで知った。内なる波長を響かせる魂の音。大きくても小さくても、息でもなんだ、って。
「なぁに?改まっちゃって、変なの」
意図せず奇妙な空気に巻き込まれた美咲が引きつり気味に笑う。まだ熱があるんじゃないの、と続けた彼女に、伊津美はそうかも、と冗談っぽく苦笑して返した。
ーー美咲。
これ以上困惑させる訳にもいかない。だから、胸の内で呼びかける。
今までも私たちの心配ばかりして、自分のことはほとんど話さずに、そんなところに何度も救われてきたけれど…
たまには自分のことも見てあげて。大切にしてあげて。それはきっと受け継がれて、いつかあなたの子孫も変えてくれるかも知れない。
「二人してインフルエンザなんてさぁ…」
美咲が言う。
「一体どうしたらそんなにタイミングが合うのさ?」
からかうような口調の彼女は、あのお得意の小憎たらしいニヤニヤ笑いなんかを浮かべていた。
ひらり、と軽いものが鼻先を撫でて、去る。顔を上げると一面の薄ピンクが視界を埋めてくる。伊津美は口を開けたまま魅入った。
「桜だわ…」
「当たり前でしょ」
だって…呆れ気味な美咲が指し示す前に気が付いた。すっかり忘れていた。
「うちの学校、卒業式遅くて良かったね」
確かに、と思った。大多数の学校ならもうとっくに終わっている頃ではないか、と。
校門の向こうにいる何人かがこちらに注目した。昭島!と口々に呼ぶ卒業生たちがわらわらとこちらへ集まってくる。
治ったのか!
インフルエンザになんてかかりやがって…
もう会えないかと思ったぜ。
野太い声と蒸れた熱気に優輝は瞬く間に飲み込まれる。もみくちゃにされている彼の無事を祈りつつ、伊津美はこっそりその場を離れようとした。しかし、事態はそんなに簡単ではなかった。
い…伊津美ちゃん!
ぬ、と立ち塞がった影。それはあろうことかみるみる数を増して広がっていく。伊津美は恐る恐る見上げた。顔が引きつった。瞬時に思った、デジャヴであると。
後でちょっと話が…!
お前、ずりーぞ!伊津美ちゃん、俺も話が…っ!!
顔を赤くした3年男子たちが我先にと伊津美に詰め寄る。その光景はさながら北関東の猿軍団。観光するつもりも戯れるつもりもない、などと思ってみるが、もう遅いというもので。おかしいな…こんな状況下でもまだ何とか保てている、冷静な伊津美が考え出す。
去年はこんなことなかったのに。優輝の失踪だってなかったことになっているはずじゃあ…?
「アンタ、美人なクセに一途じゃん?」
美咲が言う。相変わらずの面白そうな顔で。
「この二年三ヶ月の間に、桜庭伊津美は外見だけでなく内面の評価も着々と上げていった。ただのお高い美人ではないとわかった頃から、この告白大会が予定されていたって噂だよ?砕けるのはわかっていても最後くらい当たっていこうって覚悟なのさ」
何だろう、美咲、こんな話し方だったっけ?あの理屈っぽい口調で聞こえてくる。あんなことに気付いてしまったから脳内変換でもされているのだろうか?
ともかく返す言葉を見失っていた。何か言おうとしても口元がぱくぱくと空回って出てこない。美咲がぽん、と肩に手を置いた。労わるような優しい顔で彼女は言った。
「健闘を祈る!」
やがて遠ざかっていく彼女の手を追うように眺めながら、伊津美は苦行に身を投じる覚悟をした。こんなことを思った。
よもや私の進むべき場所は、宇宙よりか地上の尼寺なのではあるまいか、と。
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空は明るい。暮れるときがちょっと待ち遠しかったけれど、まだ先になりそうだ。
ただ確かめてみたかった。今日、この星のこの世界から見る夕日がどんな色なのか。今はもう遠い、あの世界の、彼の持つ色と似ていたりするのだろうか、と。
伊津美ーっ!
校門前でまたあの声が呼んでくれた。フラフラと吸い寄せられるように近づいて行くごとに、はっきりしてくる彼女の姿。満面の笑みが苦笑に変わっていく過程も、見た。
「だ、大丈夫?伊津美…」
「15人…だからね」
デジャヴよ、悪夢のデジャヴ…そんなうわ言をこぼすと、美咲がえっ、と短く叫んで目を見張る。彼女は言う。
「中学のときもこんなだったの?」
やっと少しだけ、我を取り戻した。中学のとき?いや、そんなはずはない。だけどそう受け取られるのも無理はない。優輝の失踪がなかったことになっている、ということは、あの予約殺到の日々もまた然りなのだから、と今更気付く。
さすがモテるねぇ、伊津美は。
美咲の声がケタケタ笑う。見栄っ張りな女などとは思われたくないから、一応、弁解しておく。
「ごめん…夢の話よ」
幻想的なのに、現実みたいな、夢。
何だか訳のわからない言葉で締め括った。美咲は案の定、訳がわからない、といった顔をした。
「先輩たちの卒業パーティー、伊津美も誘われてるけど、余力ある?」
「頑張るわ」
余力、そんなのとっくに尽きそうだけど、覚悟を決めた。ヤケになっているようで、そうでもない気がした。
この世界を離れていたのは約二週間。だけど実際はもっとずっと長かったように思える。2000年前まで思い出した上に命をかけた戦いを身を投じたんじゃ、こうもなる。なんて何処ぞに力説してみたところで、一体誰が同意を示すというのか。
こっちは久々だ。こんな生活も、17歳としての自分も。だから覚悟を決められた。今しかできないことを今この場所でって、かつては思いもしなかったことを思ったのだ。
それに…
伊津美は校舎を振り返った。そのまま美咲に問いかける。
「優輝は?」
ああ、と彼女が後ろで答える。
「サッカー部の打ち上げの方に行くって。運動部はプチ縦社会だからねぇ」
そう…小さく呟いた。薄く笑った。寂しくはなかった。
誰が同意を示してくれなくたって、彼がいる。この世界の、それもすぐ触れられる場所に…それだけで十分に思えた。
これから始まるのはパーティー。学生のものとは言えどそれなりの装いは礼儀だろう、と暗黙の了解の元、一旦帰宅することになった。舞い散る欠片たちが地に落ち着いていく、ピンクのパーツで埋められた地面ばかりを眺めながら歩く途中、あ、と短く呟いた美咲。
「伊津美、これ先輩から」
彼女はおもむろにバッグを開けて取り出した。可愛い巾着型のラッピング袋に包まれている、中がうっすらと見える、お菓子だ。仲のいい先輩が余分にくれた手作りのクッキーだという。まぁ何と女子力の高い…なんて感心しながら受け取ろうとした。伸ばした手が止まった。
「伊津美?」
美咲の声が呼ぶ。だけど固まったままだった。また一つ、気付いてしまった。彼女のバッグの中身。人の私物を除く趣味なんてないけれど、たまたま、見えてしまったのだ。
「美咲、それ…」
そのままではいられなかった。指で指し示した。ポーチやらペンケースやらの間から覗いている、本を。
ああ、これ。
同じ方に目を止めた、美咲の表情はいつもと違う。何故、それを?胸はいよいよ高鳴りを始める。何か、何か聞き出すきっかけを…思考を凝らしていたとき、また声がした。
「伊津美、ちょっとだけ、付き合ってくれる?」
彼女の方からの提案だった。
帰り道の途中にある公園。あの日、彼の声に導かれた場所。がらんと人気のないそこのブランコに落ち着いた、伊津美と美咲。
私ね…
両足を地に着けたまま、わずかばかり漕いでいる、美咲が切り出した。
「学科、変更しようと思ってるんだ。薬剤師になるつもりでここに入ったんだけど…」
はらりと前に落ちる漆黒のショートヘア。少し寂しげな笑みの横顔は膝の上へ視線を落としている。大事そうに手を添えて、乗っけたものを見ている。
「図書室のなんだ、この本。この学校に入学してすぐに見付けたんだけどすごくマイナーみたいでさ、書店には売ってなかった。ネットでも探してみたけどやっぱり無くて…なのに気になるんだよね、何故か」
伊津美は黙って聞いている。口を挟む気にはなれなかった。これを運命と呼ばないのなら、一体何と表現するのだろう、などと考えてしまって。
見るからに年季の入った古びた本。彼女はそれを定期的に借りては返しを繰り返してきたのだと言う。そんな日々の中で気付いたことを教えてくれた。
「私、やっぱり離れられないんだわ、歴史研究。理系に適性があるなんて言われてその気になって、いつの間にか自分まで誤魔化しちゃってたけど、本当はやりたいんだよね」
この本に出会って、わかった。
最後の言葉は雨だれみたいにそっと、落ちた。ひときわ強く吹いた春風に伊津美の長い髪もまた鬱陶しいくらいに乱される。同時に実感する青臭さ。草木の匂い、花の香り、土埃の煙たさ、いろいろ混じったそれは“青春”なんて呼ばれる17歳の私たちによく似合っているように思えた。自然と、口を開いた。
「それでいいよ、美咲」
顔を上げた彼女に更に言う。
「美咲は歴史、私は宇宙、好きなことしようよ。形は違っても、繋いでいこうよ、未来を」
丸く見開かれた漆黒の瞳が少し光ったように見えた。優しい、黒。あのときみたいに。
やがて吹き出すように笑い出した、美咲。目尻に浮かんだ涙は埃のせい?それとも…
「今日の伊津美、やっぱり、変」
お腹を抱えてそんなことを言う、彼女が小さく付け足した。
でも、ありがとう。
満面の笑みより、ニヤニヤ笑いより、彼女らしいものを見た気がした。魅入ってしまう、瞬きも忘れて。このままじゃあ乾いた土埃が目に入って、私もきっと、泣いてしまうだろう。
お互いに顔を隠してた。埃すごいね、なんて誤魔化しながら、笑いで誤魔化しながら。女だって不器用だ、いや、きっと本当は誰もが…なんて、今更遠い彼に教えてやりたくなってくる。
そろそろ行こっか、そう切り出して腰を上げた漆黒の先祖に
ねぇ、美咲。
一つお願いをした。ブレザーの腕に大事に守られたままのそれを懐かしく見つめながら。




