5.星空〜Starry sky〜
その日の夜、夕食を済ませたところでセレスはマラカイトを外へ連れ出した。懐に納めた地図はレイから貰ったもの。アストラルを去る前に一度行ってみた方がいい、彼はそう言い残して帰っていった。
羽を持たないマラカイトには妖力を送り込んで、手と手を繋いで一緒に夜空に舞い上がった。頬を撫でる夜風はまだ冷たい。それでも満天の星空の中を進んだ。彼と共に目に焼き付けるべきものが、待っているような気がした。
「ここでいいのか?」
「ええ、間違いなくここでしょう」
すでに眼下に広がる光景に目を奪われている彼の隣、確信を得たセレスはその手を引いて降り立った。白く浮かび上がるため息がこぼれた。
ーーここが、レイの教えてくれた場所。孤高の狼の形をした崖の上。今、眼下の深い闇の中でチラチラと息づいている町の灯りはまるで、降り注ぐ星々を飲み込んだみたい。重力さえ忘れてしまう。星の海の中を漂っているようだった。
「夜景なんて比じゃねぇぞ、コレ…」
隣のマラカイトが苦笑いする。
「こんなもん見ちまって、俺はこれから何処へお前を誘い出せばいいと言うんだ」
弱ったような横顔と声色が何だか可笑しくて、セレスはふふ、と笑みをこぼした。
そんなのはいいのに。あなたと居られればいいのに。内側でいくつもの言葉が生まれているのに何故だろう。何か抗えない壮大な存在に声を奪われていくかのようで。
見て、カイト。
やっと、言葉を紡ぐに至った。遠くを見つめながら。
「私たちの居た森よ」
ここへ来て気付いた。今は町へと姿を変えている自分の生まれた場所。原型は残っていなくてもわかるものなのか、と驚いた。同じ生まれの彼もきっと感じているだろうと思った。
今のミラは、あの日の私…
セレスはぽつりと口にした。誰もが深く傷付いたあの事件以来、会うことのできていない彼女の姿が脳裏に浮かんだ。
それは2000年もの歳月を経てなお、鮮明に呼び起こせる自らの記憶と重なる。愛する者を目の前で失う。助けることも想いを遂げることもできないまま。何故もっと素直にならなかったのだろう、自分には本当に、何も、為す術がなかったのだろうか…それはきっと身を引き裂かれる程の痛みに相当する。他人事なとどとは、とても、思えない。
セレスは握る手に力を込めた。マラカイトがこちらを向くのがわかった。
「争いが起こったとき、その終わらせ方はそれぞれに違って、何が正しいのかもわからない」
言った後に緩くかぶりを振った。いえ、と続けた。
「正解すらないのかも知れないわ。争いの意味だって、本当は…」
…うん。
マラカイトが小さく呟いて頷く。セレスは彼を見た。今度こそは、と真っ直ぐに。
「でも、私は再びこの世界へ来て、消し去る以外の方法を知った。それは誰もが変わっていけるという希望になったの…」
少しだけ笑って見せた。
もう大丈夫、私は強くなった。学んだ。悲劇は繰り返さない、と伝えたかった。そこへ彼の声が届いた。
「セレス、すまなかった」
澄んだ黄色の瞳が見つめてくる。透明感が美しい、朝日の色。胸が高鳴った。
2000年前へ遡るかのように速度を増す脈打ちに息が乱れそうになる。それを知ってか知らずか、目の前の彼は容赦もなく言ってくる。
「あのとき、俺は最後まで言えなかったんだ。表向きの立場なんかにこだわって素直になれなかった。だから、生まれ変わったら素直に生きようって、魂に刻み付けたんだ」
目の奥が熱く、甘く、痛んだ。セレスの瞳は揺らぐ水の膜に覆われていく。
ああ、だから“優輝”はあんなに…
長い長い道のりの途中に散らばった破片が今、集まり、繋がったように思えた。優しい笑みのマラカイトが言った。
「セレスタイト…ずっと、好きだった」
視線が絡み付く。もう、持ちこたえられそうにない。ポタポタッといくつもの光の粒を落としながらセレスは笑った。
「それはもう、優輝に言ってもらったわ」
そっか、と苦笑する、そんな彼へ両手を伸ばした。温かい感触がそれに応えてくれる。
「私も、大好きよ…カイト」
瞼を閉じて、背伸びをした。熱く吐息をこぼす柔らかいところへ、自分のそれを重ねた。ほんのわずか、一部分だけの接触なのに、全てが繋がったように思えて、我を忘れた。
今や2000年前よりもずっと遠いものに思える“桜庭伊津美”の頃を思い返した。
若者たちが学びを得る場として通うあの場所では、度々“恋愛”と呼ばれる類の話を耳にした。
誰が誰のことを好きらしい。
誰と誰が付き合った。
告白は?キスは?
その先は、何処まで?
きっとそれは情報として知ってはいても、その身で体験するまでは未知なること。もっと知りたい、踏み込んでみたい、遅れたくはないと、若者たちの好奇心は尽きない。
ただひたすら恥ずかしいばかりで聞こえないフリをした。まさか、自分の中にもそんな願望があるとも知らず。
そして実際に経験を得た。それが思いのほか深く、激しく、時に恐ろしくさえあるものだと、この世界へ導かれて知った。
今、確信に近いものがある。ずっとわからなかった、人が経験を重ねる意味。肉体を必要とするフィジカルが存在する意味。
肉体はきっと、求める者との間に立ちはだかる壁であり、痛みを知る為の手段。それを乗り越えたくて、人は繋がる。物質を超越する、かけがえのない存在を求めて、なんだ。
見つけることができて、良かった。
伊津美から戻ったセレスは彼の胸に額を寄せる。いつか彼がしてくれたように、自分も今ならこの身を投げ出せてしまうだろうと思った。だけどそれをしたときは悲しみが生まれ、時にあらぬ方向へと動き出してしまうのだ。この皮肉を如何にして解決するのか…答えはまだ、見付かりそうにない。それでも目をそらさない、もう決めた。
土と夜露に汚されることも厭わず、二人並んで腰を降ろした。セレス、とマラカイトが呼んだ。
「あのとき、クー・シーに何を言ったんだ?」
セレスはああ、と呟きを返す。あのとき…朝のことを思い出した。
「ミラのことよ」
星を見上げながら答えた。
みんなで花を手向け、厳かな祈りを捧げ、レグルスの渾身の謝罪を見届けた後は、王と王妃の部屋で紅茶のもてなしを受けた。
そこにやがて彼が駆けつけた。全体を見渡したその顔からはみるみる活気が薄れていった。まるで、花がしおれていくようだった。彼女がここにいると期待していたのだろう。
それからいくらも経たない頃、レグルスから彼へ一つのことが告げられた。朗報、と捉えて良いのであろうそれにいくらか瞳の輝きを取り戻した彼だったが、まだ何か足りないように見えた。
レグルスの口から出たある人…彼にとって小さな存在であるはずはない。だけど全ての魂は出逢い、そして変わっていく。今、傍にある大切なものに何よりも意識を奪われるのは、むしろ自然なことなのではないだろうか。
クー・シー。
皆で部屋を後にする途中で、セレスは声をかけた。寂しく丸まった小さな背中へ。
「ミラはきっと大丈夫よ。信じてあげて」
そう語りかけると小さな彼が振り返った。痛々しい程に澄んだ目を見開き、またしても泣きそうに緑の眉を寄せていた。セレスはそこへ笑いかけた。それから言った。
「あなたらしくいればいいのよ、クー・シー」
小さく息を吸い込む音が聞こえた。
ミラの心を癒すのが簡単でないことは十分にわかった上でだった。何たって彼女はたった一人を追ってここへ生まれ、愛し、そして失ったのだから。
この世界での生涯を終えたときは、きっと再び彼を求めて旅立つだろう。何度でも繰り返すだろう。如何なる痛みを伴い、擦り切れようともやめはしないのだろう。
だけど、このままでいいのだろうか。一見すると美しいようにも思える自己犠牲が、悲しみの連鎖に関わっているとしたら?…きっと彼女にはまだ得るべきものがあるのだ。そしてそれを与えられる可能性がある。すぐ傍に。
クー・シー…
真っ直ぐな眼差しの彼を呼んだ。
「あなたの想いがミラを変えるかも知れないわ」
色付いた果実みたいに潤んでいった赤の瞳。ぐすっ、とすすり上げる音の後に、クー・シーは頷いた。きっと精一杯、力強く。再びこちらを見上げたその幼い顔には、何処か救われたように柔らかく、それでいて芯を思わせる笑みが宿っていた。
「ーーあの人の言ったことは気にするなよ」
話を聞き終えたマラカイトが言った。あの人?何のことかすぐにはわからず首を傾げていると、続く彼の言葉が答えを示してくれた。
「こんなに優しいお前が、地球を破壊させるマッドサイエンティストになんて、なるはずがない」
あんなのハッタリだ、と彼は切り捨てる。合点のいったセレスは少し苛立ったような横顔に見入った。それから天を仰いだ。もし、と切り出した。
「パラレルワールドが存在するなら、そこにはいるかも知れないわね。破壊を引き起こす、私が…」
やめろよ、とマラカイトが返してくる。さっきより更に苛立ちと焦りが露わになった声。
「それはきっと、私とは違う未来を信じた私…」
セレスは構わずに続ける。確かな実感の元に、ためらいはない。だから、と隣を向いた。怪訝に眉をひそめている彼に言った。
「少なくとも今の私の未来ではないわ。だって、信じているものがまるで違うもの」
マラカイトが目を見張る。その顔から徐々に強張りが薄れていく。
そうだな…
優しい声が返ってきた。セレスは微笑み、彼の無防備な手に自身のそれを重ね合わせた。空を見上げたのは、同時だった。
少女の姿をした大人の女性も、傷付くことに慣れない無邪気な少年も、心配性で優しい彼も、刹那の破壊力を秘めた私も…
みんな共通するものがある。今世はたった一度。同じものはもう二度と巡って来ない。
もう一つ、思い返した。
クー・シーが駆けつけてくる少し前、導き出し、告げた決意。それは彼も同じだった。すごく勇気のいる、簡単ではないことのはずなのに、揃って宣言してくれた。あの真っ直ぐな目で。
二人っきりの崖の上。すっかり変わったかつての故郷のすぐ側で
カイト…
頭から胸に抱え込んだ、彼に語りかける。優しく。
「いいのね?本当に」
うん…小さく返ってきた。彼の腕がしっかりと背中を包んだ。温かい。
一緒に、風を感じた。宇宙を感じた。
今はただ、それぞれが本当に望む道を見出すことと、繋がる未来を信じるだけ。