2.父親〜Rigel/Sirius〜
ーーレグルス、僕たちにしかできないことがあるーー
耳元の囁きが紡いだのはそんな言葉だった。思わず、え、とこぼした。
わかる気はした。だけど一体どうする気なのか、聞き返すより先に左手に熱を感じた。ふんわり柔らかい光に頬が照らされた。あの力を放つシャウラの手が重なっていた。
「アンタ…」
ゆっくり塞がっていく傷。反して隣の彼の息遣いは浅くなっていく。レグルスは顔を上げて睨んだ。
「こんなときに…馬鹿かッ!?」
やるせなさに声が裏返った。対してシャウラのそれは落ち着いたものだった。
「役目を終えるまでは、死なないから」
「死ぬなんて言うな、この…根暗軟弱!」
小さくかすれた笑い声が耳を撫でた。うるさい、単細胞。そう返ってきた。
スピカ様が…!
クー・シーの声が届いた。レグルスははっとなって振り返った。両側から抱えられおぼつかない足取りで皆の方へ向かっているスピカ。乱れたくせ毛の間から見えた、その表情に胸が軋んだ。
ーー怖いのか?レグルスーー
口にできない程浅い息のシャウラは、代わりに念で語りかけてくる。特徴ある甘く優しい声色が頭に直接響いてくる。
ーーだけど、姫を支えられるのは、お前しかいないよーー
「シャウラ、アンタ…」
レグルスは驚いて彼を見た。こく、と頷きが返ってくる。これから二人で何をしようと言うのか…いや、何をするべきなのか、全て繋がったように思えた。シャウラの声が同意を示した。
ーーお前が破壊するんだ。それから僕が再生するーー
本当に、最小限しか語らない奴だ。それでも何もかも伝わってくるのは同じ血縁の元に生まれたからか、それとも、前世からの繋がりのせいなのか…皮肉なまでに深い巡り合わせを感じずにはいられない。
シャウラの長いコートがなびいた。背中から散っていく赤の欠片が白い宙を彩る。彼はもう目指す場所へと向いている。レグルスは痛みの消えた拳を握った。
ーーこうするしかない。わかりきっているのに悔しさが止まらない。踏み出した足が地面を擦り鳴らした。コンクリートの部分が途切れ、サク、と潰れる霜の感触がした。
ーーエドガー…いや、父さんーー
歩く途中でシャウラの声を聞いた。煤にまみれ、身体じゅう焦がされ、ボロ雑巾のようになったルシフェルがこちらを見上げている。すでに立ち上がる気力もないのだろうか、あれ程堂々とふんぞり返り、悪魔を自称していた男が今では頼りなく、小さく見える。
きっと身体のダメージのせいだけではないだろう。やっと口を開いたルシフェルの言葉がレグルスの推測を確かなものにした。
「私を殺そうというのか、シャウラ…」
ただでさえ苦痛で険しくなった顔が更に歪む。見上げる目は、哀しい色。
「そんなことをしたら、お前は、二度と…」
何が言いたいのかわかった。怒りに駆り立てられたレグルスは思わず前へ踏み出した。
「だったら先にシャウラを治してやれよ!てめぇのその命、全部使ってこいつに詫びろ!それでも死に切れねぇなら、そのときは俺が…!」
ぐっ、と胸元を抑え込まれて、レグルスは口をつぐんだ。暴走を食い止めようとばかりに横から細い腕が伸びている。シャウラが首を横に振っていた。何で、と言いかけたところに彼の声が被さった。
ーー僕を先に再生させたら、父さんの再生が、できない。思い出して、レグルス。
【再生】へ繋がる【破壊】…だよーー
これでいいんだ、と彼は勝手に締めくくった。わかってしまうのが辛かった。レグルスは今度こそ何も言えなくなった。
私のことは、いい…
足元から声がした。ルシフェルが手を差し出していた。
「こっちへ来なさい、シャウラ。その傷を…」
震える皺だらけの指先。優しく深い瞳の色にレグルスは息を飲んだ。もう何年も見ていなかった、遠く懐かしい表情。父親を見た気がした。
シャウラがそっと両膝を着いた。上体をかがめて、ルシフェルの頭を胸へ抱え込んだ。吐息混じりの低い声色が響いた。
ーー蠍の毒針ーー
刹那に変形したシャウラの翼がルシフェルへと向かう。目にも止まらぬ一瞬のことだった。
う、とルシフェルが呻き声をこぼした。抱きかかえるシャウラの腕には更に強い力がこもる。
「やり直そう、父さん」
かすれた声で、彼は言った。
「行き先なら僕も同じだから、独りにはしない。父さんの魂は、僕が、再生させる」
「シャウ…ラ…私の、ことは…いい、と…」
ルシフェルの口調が弱く途切れていく。麻痺しているのだろう。
レグルス、と呼んだそちらを見た。顔だけ上げたシャウラが頷いている。その目は涙で満ちている。
彼は言う。
ーー迷わないで、レグルス。僕の【再生】が残っているうちに…一緒に…ーー
う…
うぁぁぁああぁッ!!
獅子の唸りのような声が喉を突いて出た。レグルスは全身をみなぎらせ、剣を手にした。丸まっているルシフェルの背中に向かって垂直にそれを立てた。唸り声は止まなかった。
二人分、貫いた、確かな感触。その後に、柔らかな声が聞こえた。
ーー父さんーー
レグルスは抜いた剣を放った。ゴォッ、と炎の音を立てて、それは消えた。
ーーありがとう、見付けてくれて。傍に居てくれて…
…愛して、くれてーー
横へ倒れるルシフェルの身体と交差して、前へ傾くシャウラを受け止めた。肩へかかった重み。頬を合わせているはずなのに、息遣いはもう、聞こえない。
シャウラ…
まだぬくもりの残る身体を抱きすくめた。目の奥から熱いものがとめどなく流れ出して、もの言わぬ彼の肩を濡らした。
「馬鹿野郎…ッ!!」
抑えようのない悲しみはよりにもよって、そんな汚い言葉にしかならなかった。
遠くで甲高い悲鳴が響いて、レグルスはやっと顔を上げた。我に返った、表情が強張った。
ドサッと音を立てて倒れ伏したスピカをセレスたちが取り囲んでいた。
ミラはクー・シーの膝の上で、がっくりと首を垂れていた。
夜を終えた空は抜けるように青く、春めいた陽気が凍った全てを溶かし始めていた。