7.声〜Voice〜
喉を突いて出たのは確かに彼の名だった。ここまで誘い出した声が紛れもなく彼のものだからだ。例え、今目の前にあるものが信じがたい光景でも。
伊津美はふらりと歩き出す。おぼつかない足取り。だけど向かう先に迷いはない。
――そうだよ。
彼の声が囁く。一緒に行こう、と続ける。
早く触れたくて逢いたくて、抑えられない想いに身体が突き動かされる。定まらない視点、薄れゆく理性、おぼつかない足取りながらも一生懸命に。
妖しく微笑む人間離れした彼へと伊津美は手を伸ばそうとした。そのとき上から影がよぎった。バサ、という音と共に舞い降りた黒いものに視界を遮られた。
「あ……優輝……っ」
伊津美は蚊の鳴くような悲鳴を上げた。異常な状況に驚くこともなく、立ち塞がる黒いものを何とかどかそうと触れる。
――騙されんな。
低く冷たい声色が伊津美を制した。黒い塊を背負った人型の誰かが振り返る。
街灯の光を拾ってギラリと光るルビー。いや、違う。それは真紅の瞳だった。
鋭い眼光に射られた伊津美がようやく我に返った。素早く息を飲んだ。
「アンタ、今危ねぇんだぜ」
その人の声色はぶっきらぼうな口調と合わさることで絶対零度となる。
黒の正体は蝙蝠のような大きな翼だった。肩まであるセンターパートの銀色の髪。後頭部は逆立って獅子の鬣のようだ。そして鋭利な耳を持つ男。歳は20代前半くらいだろうか。
シルバーグレーのタイトなジャケットに同色のパンツ、直に身につけた黒のベストからは割れた腹筋が覗いている。まるでハロウィンの仮装のような格好だが、それは違和感を忘れるくらい彼には馴染んでいる。
“悪魔”
そんな言葉が伊津美の脳裏をよぎった。
まるで陶器のような肌。声を聞かなければ男性にも女性にも見える中性的な容姿。血の気のない白く美しい顔が恐ろしさを一層煽る。ただの仮装でないことは明白だった。何故なら彼は確かに上空から舞い降りたからだ。骨ばったその翼をはためかせて。
「若……?」
優輝の声が言う。その出処にやっと視線を戻した。
呆然としていた緑の髪の男の顔がみるみる歪んでいった。憎悪。まさにその形へ。
「いや、貴様はまさか……レグルス」
そう言って翼の男を睨む。ほぉ、と声がした。睨まれた彼からだった。
「よく知っているんだな」
ツンと顎を上げて鼻で笑う。好戦的な表情をした悪魔のような男が余裕の表情を浮かべている。
「俺はてめぇのような小者に見覚えはないが?」
「んだと!?」
ジャラ! と金属音が鳴り響く。緑の髪の男が首から鎖を引き抜いた音だった。凄まじい勢いでそれを振り回し一直線に向かって来る。
(……嘘よ、こんなの)
伊津美はもう動くことはおろか、声を発することさえ出来はしない。鎖と優輝の声は容赦なく目前へと迫っていた。
「俺の名はマラカイト。覚えておけ、罪人レグルス!」
一瞬、時が止まったように思えた。そしてまた動き出す。バチバチバチ!! と、けたたましい音に包まれた。
「きゃあああ!!」
伊津美は身を縮めて悲鳴を上げた。鈍い光を放つ鎖がすぐ近くを暴れている。地面を、遊具を、至るところを打ちつける。
ぴちゃ、と何かが跳ねてきた。伊津美は顔にかかった生温かいものに触れる。指先が赤く染まっている。
血液……? 伊津美は起きた事態に気付いて顔を上げた。
伊津美を背中にかばい、防御の姿勢をとる彼の白い横顔が見えた。その額から赤色の筋が伝っている。どうやら鎖が当たったらしい。
しかし彼は落ち着いたものだった。あろうことか微笑まで浮かべて。
「やるじゃねぇか」
そう言った彼の右手が光り始めた。それはやがて長くそり立つ剣へと姿を変えた。
バキバキバキバキ……!!
鎖と剣の一騎打ちが始まった。けたたましい音と振動が続く。
ついに伊津美は自身の身体を支えることができなくなった。靄がかかったような視界から二人の男の姿が消えていく。
おい!
優輝のではない方の声が聞こえたが、伊津美の意識は為す術もなく遠のいていった。