7.追憶〜Reminiscence〜
町から少し離れた土手は、夕暮れ時、子どもたちの溜まり場となっていた。遊び回る幼い子の元気な姿を時折通りかかる大人たちが微笑ましげに眺めるのが変わらぬいつもの光景だった。
その日、一人の少年が泣いてた。行商人と思われる中年の男が足を止め、土手の上から呼びかけた。
「どうしたんだい?」
「大丈夫でーす!」
「ちょっと転んじまったんだけど、怪我してないし…な?」
何人かの少年が口々に答える。揃って見上げるのは無邪気な笑顔だ。中央でしゃがんでいる一人の少年もこくこくと小さく頷いた。土手の上の男は安堵したように笑った。
「そうかい。気を付けて遊ぶんだよ」
歩き出した遠い姿に向かって少年たちははーい、と元気に答えて手を振った。反対側から歩いてきた、赤ん坊をおぶった女性も土手の下を見下ろす。行商人風の男は彼女に何やら話しかけているようだ。二人の大人と一人の赤子が過ぎ去るまでの間、少年たちはじっと静かに上を見上げていた。それから、やがて。
「…じゃあ、続きやろうぜ」
一人の少年がニッと笑った。さっきまでの笑顔とは明らかに違った形、底意地の悪そうな顔で。
「チクったらただじゃおかねぇからな、ライアン」
「こんな弱虫野郎にそんなのできる訳がねぇよ」
恐怖に染まった顔で見上げる中央の少年を何処からか伸びてきた足が容赦なく蹴り倒す。大きく揺れた小柄な身体はカエルのような格好で草むらの上を滑った。周りを囲む四人の少年たちはさも面白そうにキャッキャと笑い声を上げた。
「弱虫ライアン」
「もっと泣いてみろよ、おもしれぇから」
くるくると回り始めた少年たちの中心で泥まみれの小さな彼は起き上がることもままならないのか、地面に伏せたまま肩を震わせている。よっぽど気に入った響きなのだろうか、弱虫、弱虫、とひたすらそればかりが繰り返されていた。誰もが迫り来るたった一人の気配に気付くことはなかった。声をかけられるまでは。
ーーおい、やめろ。
やっと気が付いた少年たちが一斉に声の方を見た。立っていたのは彼らと同じ7、8歳くらいとおぼしき男の子。白いシャツにグレーのベスト、同色の半ズボン、汚れ一つ見当たらない靴下と艶のある黒い靴を履いている。誰が見たってわかる。この場に居る大多数とは明らかに身なりが異なっていると。
「何だ、コイツ」
「気取った格好しやがって」
四人の少年はさもつまらなそうな顔をして、目新しい彼へじりじりとにじり寄る。その後ろで恐る恐る身体を起こした、泥まみれの少年が呟いた。
「ニコル…」
震えがちな声を聞いた一人がへぇ、と言った。その顔に余裕が浮かび始めた。
「ライアンの友達か…大したことねぇな」
「お前も弱虫野郎なんだろ?」
ケラケラと広がり出した高い笑い声も長くは続かなかった。次の瞬間には草むらに投げ出された一人の姿を残る者たちが呆然と見下ろしていた。よりにもよってそれは最も身体の大きな少年だった。その場に居る皆の顔色が変わった。
「コイツ…!」
一瞬ためらったような残りの三人もわぁっ、と声を上げながら駆け出す。彼らもまた最初の大柄な少年と同様に次々と地面に投げ出された。
「…卑怯な奴は、嫌いだ」
そう言って見下ろすおぼっちゃま風の彼は傷一つ負っていないどころか、服装すら乱れていない。さすがに察したのだろう。四人はじりじりと後ずさりを始める。
「コイツ、やべぇぞ」
「金持ちだからっていい気になりやがって…」
ついにいじめっ子四人組はもつれる足取りで反対側へと走り出した。土手の階段を駆け上がる影の中から、覚えてろよ!とお決まりの台詞が上がった。
辺りは静まった。温かな夕日が見下ろしていた。取り残された一人の少年の元へ、整った服装の少年が歩み寄り、手を差し伸べた。
「大丈夫か、ライアン」
子どもらしい高い声色でありながらも落ち着いた口調。余裕に満ちた微笑みは勝者に与えられし称号のよう。涙やら汗やらでドロドロの少年の瞳に羨望と敬意を思わせる輝きが宿った。
「ありがとう…ニコル」
潰れた雑草の破片をいくつもくっつけた濡れた手が伸ばされると、笑顔の彼はためらう様子の一つもなくそれを握り返した。
「ねぇ、ニコル。いつからこっちに?」
帰り道の途中、いじめられっ子の少年、ライアンが聞いた。
「今日の昼に着いたばかりさ。学校は朝だけだったんだ。明日からは休みだしね」
小さなヒーロー、ニコルは小石を蹴りながら答えた。その横でライアンの泥まみれの顔がほころんでいく。心底嬉しそうに。
「じゃあさ、僕と遊んでくれる?」
「ああ、もちろん」
気弱そうな顔が遠慮がちに輝き始めるのを見たニコルは、いかにも育ちの良さそうな品のある笑みを投げかけた。こちらもまた、満たされているようだった。
誰の目から見ても裕福な家の子だとわかるニコル。泥んこのライアンとの組み合わせはあまりにもミスマッチな為か、時折すれ違う大人たちの目を引いた。それでも二人はまるで気付いていないかのよう。いや、気に留める必要もなかったのだろうか。
「いつまでいるの、ニコル。次はいつ来るの?」
いじめられていたさっきまでとはうって変わって、すっかり饒舌になったライアンにニコルはくす、と笑った。その仕草は妙なくらい大人びていて年相応とは言い難い。そんな彼が答えた。
「3日間はこっちにいるよ」
えーっ、という声が上がり、ニコルは少し目を見開いた。恐らく彼にとっては十分な期間だったのだろうが、ライアンにとっては違ったようだ。
緩やかに、歩調が弱まって、やがて二人は止まった。先に足を止めた、ニコルはちょっぴり困ったような顔で。
「またすぐに会えるさ、ライアン。そのときはいくらでも遊ぶし守ってやる。だけど…」
ごわごわしたライアンの髪に降りてきた小さな手…ニコルのものだった。細める眼差しもまた、優しい。
「強くなれよ、ライアン。お前の名前の意味は?」
「…“小さな王”」
「そう、お前は王様だ」
ニコルは納得したような表情で、絡み付く硬い髪を優しい手つきで整え始める。身なりさえ対等なら兄弟に見えることだろう。少し恥ずかしそうに、でもくすぐったそうにしているライアンの姿は、兄を慕う弟そのものだった。
幼い二人はまだ知る由もなかった。これから永遠とも思える長い歳月と止められない争いに引き離されようとは。そして、やっとの再会の場がよもやあのような場であろうとは。
いつ当たるかもわからない銃弾に追われながらライアンは一目散に走った。すっかり成長した身体。でも面影はしっかりと残っている。その顔は涙と泥でぐっしょりとしている。まるで幼い頃のようだった。
はるか後ろで倒れ伏したニコルと彼の腕に包まれたロングヘアの女性はぴくりとも動かない。物言わぬ二人から息の代わりに溢れるのは赤い液体だけ。木々の枝にあちこちを切り裂かれながら走るライアンの口から切れ切れな呟きがこぼれた。
「何で…僕なんかが…僕なんかの為に…っ…」
ニコル…!!
銃声はとっくに止んでいたが、ライアンは気付いていないかのように滅茶苦茶に髪を振り乱し走ることを止めない。すでに彼の意識にはいかなる音も届いていなかったのかも知れない。
待ち望んだ希望が砕かれる音を最後に、何も。
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ーー迂闊だった、そうレグルスは自身を悔やんだ。ルシフェルの挑発に乗せられ、生気を失ったような従兄弟の姿に完全に気を取られてしまった。全ては目の前に立ち塞がる悪魔による巧みな心理戦だ…そんなことはわかりきっていたのに。
がたいのいい魔族の男の手によって、猫のように首根っこを掴まれているセレスとマラカイト。がくりと垂れた顔、一撃を受けた二人は微動だにしない。レグルスは煮え滾る敵意を露わにルシフェルを強く睨み上げる。唸る獣の如く呟く。
「ーーよくわかったよ。てめぇの狙いは最初から俺なんだろ?だったら何で…」
冷ややかな真顔のルシフェルからその横に佇むシャウラへと視線を移していく。未だ宙を見るような目をしているその顔を何秒も直視できず、レグルスは一度顔を伏せた。胸の奥に刻み付けられた遠い日の無念に息が苦しく詰まった。
ーー言葉にするならば…“トラウマ”。これまでにも何度でも何度でも攻めてきたそれを振り払わんと顔を振り上げて力強く言い放つ。
「もうあの頃とは違う。これ以上周りを巻き込んでみろ、ぶっ殺すぞ…!」
わなわなと下から上へ登りつめる武者震いに声も振動した。そこへふっと漏れる息の音が届いた。忌わしい悪魔の薄ら笑いがこちらを見下ろしていた。そいつは言った。
「たかだか君一人捻り潰す為にここまですると…?私の目的はあくまでも“世界”、だよ?」
止まらない憎しみに身震いもまた止まらない。それでもルシフェルは続ける。空気さえ凍らせそうに恐ろしく冷ややかな声色で、びくともせず、問いかける。
「わかるかい?臆病者のライアン君」
再びその名を口にされるとレグルスは一瞬にして凍り付いてしまう。同じく言葉を失くしているクー・シーをやっと腕で守っているだけ、ただ上目で見入るだけ、その差中でリアルな感覚が増していく。
一見冷たそうな紫の片目は今や揺らぐ炎のように見える。焼き尽くすどころか跡形もなく溶かしてしまうくらい、高温の。あのときも、こんな目をしていたのだろうか。恐ろしくない訳はない。それでも言う。あの頃のような無様な選択肢は、もう、ない。
「俺は例え一人でもてめぇと戦う。誰の力も借りるなと言うなら、そうする」
腕の中を少年を更にぎゅっと引き寄せながら。
「だから二人を離せ!もちろんクー・シーにも手は出させない…!」
それなのに、何ということだろうか。返事をしないルシフェルの横で起こった動きにレグルスは目を見張った。気が付いた。哀しき操り人形が頷いたのだと。
合図だったのだろう。セレスとマラカイトを取り押さえている男の手の爪がすうっと不気味に伸びて二人の首筋に食い込んだ。思わず立ち上がった。妙な動きをすれば首を掻くぞ、と主張しているのは明らかだ。やめて!足元にすがりつくクー・シーが悲鳴を上げた。レグルスはもう一度向き直った。前方へ。
「シャウラ…!」
感情の欠片も伺えない彼に呼びかけてみるも変わらない。それどころかシャウラは希望を遮るようにゆらりと背を向ける。レグルスは諦めなかった。諦める訳にはいかなかった。
「目を覚ませよ、シャウラ!アンタの本当の目的は何だ?身を引き裂かれる思いでミラと別れて、こいつの傘下に収まったのはこんなことをする為か?思い出せよッ!!」
背を向けたまま静止している彼の表情を伺い知ることはできない。興奮に息を切らせるレグルスの身体からは徐々に力が失われていく。
正直、疲れていた。次から次へと起こる事態があまりにも目まぐるし過ぎて、ふらつく上半身をやっと足だけで支えている状態だった。残る力は恐らく、祈りから来るもの。
「忘れているはずがねぇだろ…シャウラ、アンタはもう思い出せるはずなんだ。何故いつも俺らの前から消えることばかり考える?何で……」
思うように呂律が回らない。言いたいことは沢山あるのに…あの悪魔以上に自分を呪いたいくらいだ。
遠ざかっていく従兄弟の足音。闇へ溶けていく背中。そのすぐ後に起こった疾風がレグルスの銀髪を薙いだ。顔を上げるとそこにいたはずの二人の妖精の姿が、ない。あのがたいのいい男と共に、多分上空へ飛び去ったのだろうと察した。
ーーレグルス君。
上から降り注ぐ声に気が付いた。背の高いルシフェルが更に高く天を貫く塔のように見えた。彼は言った。
「君が一番逢いたいであろう人を連れてきたよ。よく見ておくといい」
…死ぬ前に、ね。
レグルスの口から、え、と小さな呟きがこぼれた。加速する動悸の激しさに心臓が壊れるかと思ったくらい。じわじわと滲む汗…もう、わかっていた。
自分にとって“一番”という言葉が相応しい人など、この世にたった一人しかいないのだから、と。
黒服の群れが割れて道を作る。さっき見た光景と同じだが、その中を歩く人影はふんわりと柔らかそうな曲線を描いていた。
少しずつ、鮮明に彩られていく姿。星の光を集めて輝くエメラルド。クセを帯びたショートヘアは触るととても柔らかいことをレグルスは知っていた。
「スピカ…」
夜じゅうずっと探し求めていた、彼女に間違いはなかった。しかし、よく知る姿とは明らかに、違う。
見たこともない妖艶な黒のロングドレス。童顔であることを忘れさせるくらい、品位を漂わせた微笑。
…美しいグリーンの目は先程のシャウラの目つきによく似ている。
「てめぇ…ふざけんなよ」
レグルスの拳は自然と強く、固まり出した。沸騰するような熱の感覚に身体はもう耐えられそうになかった。
※※※※※※※※※※※※※※※
ーー僕の未来はもう消えてしまった。だから、お願いです…ーー
涙に濡れた悲しげな笑みを前にした彼は狼のような鋭い目を見開いた。たった今、言葉に出た“願い”…それを誰よりも早く察したのかも知れない。
ーー僕を、殺して下さいーー
ーー駄目だ、ニコル…!!ーー
地に伏せられたままもがく彼を加わった数人が更に上から押さえ付けた。振り払わんとする唸り声はまるで猛獣のよう。
鳴り響いた銃声。彼はやっと動きを止めた。愕然とした顔だった。
彼の見つめる先には、倒れ伏した二つの亡骸。流れ混じり合う血液が乾いた地面をすすり泣くように濡らしていった。
息絶えた青年の腕はナース服姿の女性を包み込んだままだった。まだ若き二人を囲む者たちが一人、また一人とむせび泣いた。
そのとき、物音がした。草むらから飛び出した人影に気付いた彼は真っ先な声を上げた。
ーーあいつだ!あのガキを捕らえろ!!ーー
走り去る人影を数人が追いかけ始めたが、彼はなお地面にねじ伏せられたまま。いくら体格が良くても、大の男数人かがりで押さえ付けられてはさすがにどうにもならない。
許さない…
彼は呟いた。強面な顔が一層険しく陰を増した。
ーー貴様のような弱虫野郎が何よりも悪なのだ…!ーー
殺してやる…
殺してやる…!!
彼はうわ言のように繰り返し続けた。呪う言葉を何度も、何度も。鋭い双眼は人影の残像を見ているかのように、しばらくその一点から動くことはなかった。
ーーそして、見つけた。
気の遠くなる程の時を経て
肉体を脱ぎ捨てた、この世界で。
「こんな形で再会するなんてね…ライアン君」
狼の目の“彼”だった、ルシフェルは言う。
「ニコルもあの娘も君が殺したんだ。罪は償わなきゃ、ね」
落ち着いた声色も微笑も、崩すことなく。しかし、それでも、放たれる視線はよく似ているのだ。殺してやる…幾度もそう繰り返したあの頃のものと。
因縁の相手を前に、彼はひらりと身をひるがえした。宙を踊る闇色のロングコート。振り返った後方に向かって彼は言う。
「誰も手を出さないでね?」
ーー臆病な獅子の首は、私が狩るんだからーー




