6.破片〜Debris〜
目を覚ます頃には部屋が闇色に染まっていた。
いつの間にかベッドの上で布団まで被っている。過去から現在へと意識が戻ったことを知ると同時に、母が帰ってきたのだと気が付いた。伊津美はむくりと上体を起こす。
二月下旬。日が暮れると空気は一層冷え込む。伊津美は身体を震わせ肩を抱いた。今となっては宝物のような日常が壊れたあの日のことを思い出した。
二年生の後半である今年。バレンタインから三日後のあの日。
放課後、優輝が教室にやって来た。美咲は友達とカラオケに行くと言って先に帰って行った。おそらく気を遣ったのだろう。
人気のなくなった教室で二人はしばらくとりとめもない話をした。ふと、優輝が何か思い出したような顔をした。気付いた伊津美は首をかしげた。
「なぁ、伊津美」
彼が切り出した。
「バレンタインのお礼って、義理でも返した方がいいもんなのかな?」
「今までどうしてたの? もらったことあるんでしょ?」
そこは確信があった。今時の風貌で顔も広い彼。経験していないはずはないだろうと。
「名前のわかる子には一応。名前を書かないで下駄箱とかに入れられると何もできないけど……」
「じゃあそうすれば?」
さらりと返すも優輝はうーん、と唸って頭を掻いた。困ったような顔とくぐもった声で彼が続けた。
「神崎の場合はよくわかんねぇんだよなぁ」
伊津美の身体は静電気を受けた瞬間みたいな反応を示した。完全に無意識だった。
――神崎乃愛?
自分でもぞくりとくる程、低い声色が沸いて出た。
「おう、伊津美よく知ってんな」
気付いているのかいないのか、呑気な笑顔で自然に返す優輝。有名だからね、と伊津美は心の中で呟いた。
「あの子さ、いつも大量にお菓子作ってきてくれるんだよ。いつもみんなで分けて俺はほとんど食わねぇんだけどさ。バレンタインにくれたやつもすげぇ量で、あれはいつもの差し入れと思っていいのかなって」
でもチョコだったしなぁ……と彼は独り言のように呟く。伊津美はあんぐりとした。“鈍感”の二文字が脳裏をよぎった。当然だろう。だってこれ以上にしっくりくる言葉なんて無い。
「ってかあの子、何でマネージャーやらないんだろ?」
(女子に嫌われてるからね)
「差し入れもいつも俺に渡してくるし……他の奴だと緊張するのかな」
(部への差し入れじゃないし、それ)
声に出さず突っ込んでいるうちに何やらムカムカとした。伊津美の口調は次第に沈んでいった。
「気になるんだったら何かあげれば?」
ついにはそっぽを向いて言い放った。
「いつものお礼として普通に渡せばいいじゃない」
伊津美? と彼の声が様子を探ってきた。それでも身体が固まって動かない。
「あ……ああ、そうだな」
しばらくの間を置いて彼が伊津美の提案に同意した。戸惑っているような声だと気付いてはいたけれど、どうしてもその顔を見れなかった。
そしてこちらの気持ちには気付かれたくなかった。苛立っているだなんて知られたくない。ここまで来たならいっそ鈍感なままでいてほしいと願ったくらい。
「私、帰って論文やらなきゃ」
「今日は図書室じゃないのか?」
少し寂しそうな彼の問いかけに伊津美はうん、と答えた。そっか、と小さく返って来るとまたしても苛立ちを覚えてしまう。どうしてそんな簡単に納得するの。
「伊津美が中学のときみたいに生徒会やってたら一緒に帰れるのにな」
遠慮がちな笑いの混じった声に胸が軋む。伊津美はやっと彼の方を向いた。
「それじゃあ勉強に集中できないわ」
燻りを胸の奥に押し込めて無理に笑って見せた。
「部活、頑張ってね」
「おう! ありがとな」
教室を出て行く間際の優輝の笑顔はいつもと変わらないものだった。きっと何かに気付いていたはずなのに。
その日を最後に彼が学校に来ることはなかった。拭い去れない後悔が始まってしまった。
“ごめんね”とメールを送ってみる。今日も返事は届かない。
あれから四日。こんなことを何度繰り返しただろう。
優輝が初めての無断欠席をした日の夜、彼の母親から伊津美の元に電話があった。
“昨日から帰って来てないの。あれでも結構真面目でこんなことは今まで一度もなかったのよ。伊津美ちゃん、もしかしたら何か聞いてるかなと思ったんだけど……”
そう話す彼の母親の声は苦しそうに詰まっていた。
実感なんか沸かなくて、聞こえる言葉がやけに無機質なものに感じられた。
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……み……
……づみ……
懐かしい声が大きさを増していく。こちらに向かって。
――伊津美――
「優輝!?」
意識が一瞬にして覚めた。伊津美は布団を跳ね除けて身体を起こした。
頭の中に直接響く声が自分の名を呼んでいる。何度も何度も繰り返している。彼の声が。
伊津美はベッドから飛び降りて部屋のドアを開け放つ。階段を駆け降りて玄関へ一直線に飛び出した。おそらくまだ起きている親に気付かれたかどうか気にも止めなかった。今が何時なのかもわからない。
寝静まった住宅街をパジャマ姿のまま夢中で走った。凍てつく寒さも気にせず、導かれるように、ただ響き続ける声だけを求めて。
息を切らせてやっと立ち止まったのは近所の公園だった。そこに一つの人影があった。
「……?」
暗闇に慣れた伊津美の目がその姿を捉えた。
身長は180センチくらい。全体的にはひょろりとした印象の痩せ型だが、よくよく見ると筋肉質な男。歳は自分より少し上に見える。
トゲトゲと逆立った短髪が街灯に一部照らされていて、その色がグリーンであるとわかる。15センチはあろうかという細長く尖った両耳には複数のピアスらしきものがぶら下がっている。
身体のラインに沿った黒いシャツとパンツ、首から二重に下げられたいかつい鎖。射るように鋭く見つめる黄色の瞳。
言うまでもなく人間とは思えない姿に伊津美は硬直する。唇が震え出す。
「だ……誰……?」
恐る恐る問いかける。男の口角がゆっくりと上がっていく。そこからあの、声が。
「伊津美、俺と一緒に行こう」
優……輝……?
思わず目を見開いた。その声は紛れもなく探していた彼のものだった。