5.実り〜Harvest〜
それから彼、昭島優輝との奇妙な関係が始まった。
いきなり志望校宣言した彼は、パンパンに膨らんだカバンを持って度々図書室に現れては受験に関するあれやこれやを伊津美に聞いてくる。そこにはしっかり帝北の過去問や参考書があった。どうやら本気のようだ。
いつの間にか伊津美が彼に勉強を教える流れができていた。ただの冷やかしなら相手にもしなかっただろうが、ここまでの熱意を見せられては無視することもできない。動機はともかくとしてだ。
その日のうちに解決できない問題があればまた明日、予定が合わなければ近日で都合のいいところを確認した。
そうしているうちに夏休みに突入した。
ここまでみっちり指南してきたのに、夏休みを理由に学力がガタ落ちされたんじゃたまらない。
“図書館と自宅、どっちがいい?”
伊津美は自ら彼に問いかけていた。
基本は図書館。たまに気分転換で音楽やDVDを楽しみたいときはどちらかの自宅というパターンが出来上がった。
もはや当初の目的の枠など超えていることに気付いたのは、お互いに優輝、伊津美、と名前で呼び合うようになっていた頃だった。
――ねぇ、優輝。
自宅での息抜きの日、伊津美は言った。窓の外を眺めながら。
「どうして私と一緒になんて思ったの?」
彼の好きなインディーズバンドのメロディが流れている。ファルセットの効いた歌声の中に、ほんの小さな呟き程度の声が混じった。
「俺さ……」
やけに溜めている。続きを渋るみたいに。彼の口調を不思議に思った伊津美が振り向いたとき。
「後悔したくないんだ。そのとき一番信じられるものを信じたい」
そこにはベッドに腰掛け憂いのある視線を床へ落とす優輝が居た。哀愁の帯びた微笑みなんかを浮かべていて。
「優輝……」
伊津美は時を忘れてそこに魅入る。
いつも朗らかな彼のこんな顔は、もしかしたらすごく限られた人間しか知らないのかもしれない。そう思うと、何か悪いことをしているような気さえして息が詰まった。
しばらくして優輝が顔を上げた。それはゆっくりとした動作で伊津美へと向けられる。焦げ茶色の彼の瞳が三日月形に細まった。
「伊津美といると楽しそうだと思った。それに何でだろう…」
ためらうような照れているか。ごつごつした指先で頰を軽く掻きながら彼は言う。
「お前は頭が良くて強そうなのに、俺が傍にいなきゃって思ったんだ。何故か」
光をたくさん含んだ瞳はあの図書室で見たものと重なる。そう遠くない過去であるはずなのに何故だか懐かしく思えた。
伊津美は遠く彼方へ連れていかれそうな意識を取り戻すべく、あえて視線を逃がしながら何それと返した。
「まぁいいけど。私がどうこう言うことじゃないし」
冷たく突き放すような言葉は何かを恐れ、逃げようとしているみたいだった。少なくとも彼に対する気持ちには気付いていたはずなのに。
そして時が経つのはあっという間だった。
冬休みも二人で図書館に通った。時々部活に顔を出していた優輝もさすがにラストスパートに突入したようだ。
夏と変わったところと言ったら、帰りに毎回どちらかの家に寄ってコーヒーやお茶を飲むようになったことだろうか。最初は様子を伺うようにしていた双方の親もこの頃には微笑ましげな顔で出迎えるようになっていた。
室内に籠るばかりではない。ごく自然にカフェに行ったり公園で談笑したりもした。
誰に気を使う訳でもなく堂々とやっていたものだから、当然目撃者も現れて学校内でも噂になっていったらしい。優輝が友人に冷やかされているところを伊津美は時々見かけた。
“昭島と付き合ってるの?”
恐る恐るといった様子ではあったが伊津美に直接聞いてくる勇者もいた。勇者だなんて大袈裟? いいや、そんなことはないだろう。伊津美の振る舞いはそれくらい周囲を寄せ付けない隙の無いものであったはずだ。
しかしそこは年頃ゆえか。好奇心が勝るという者もやはりいるということか。
それでも家族と優輝以外に素顔を見せられない伊津美は、ただ返答に困って小さくかぶりを振るばかりだった。
やはり一般的には付き合っていると言うのだろうか? 自分が求められている理由も未だに理解しきれていないというのに。涼しげな仮面の内側ではそんなことを度々考えていた。
優輝の学力の成長ぶりは目を見張るものだった。あっという間に学年上位に踊り出て誰もが驚きにざわめいた。
スポーツを得意とする青少年は飲み込みが早く、結果的に学問への適性も現れやすいと伊津美は以前聞いたことがあった。
それにしたってこんなことがあるものだろうか。あまりに早過ぎはしないか。
彼の凄まじい集中力に戸惑いながらも伊津美は胸の内で期待を高まらせた。
2月。
ついに訪れた一般入試の合格発表の日。
厚手のチェック柄のマフラーを口元まで巻いた伊津美は、帝北大学附属高校に来ていた。
推薦入試の伊津美は先月の合格発表を持って帝北生になることが決まっていた。この場にいるのはもちろん彼の合否を確認するためだ。
(お願い、どうか……)
自分のとき以上に騒ぐ胸の不快感を紛らわすようにスマートフォンをいじる。
見て、あの子。
超キレイ! スタイルいい~。
あの子も受かったのかなぁ。
何やら遠巻きに見ている集団がざわついているように思えたが気にしている余裕はなかった。とにかく落ち着かない。何かいじったりしでもしていなければとても持たない。
しかしいざやってみると、SNSを見ようがネットショッピングを見ようが写し出されるものがまるで頭に入ってこないのだ。その時間は永遠のように感じられた。
――伊津美!!
遠くから聞き慣れた声が飛んで来ると伊津美は跳ね上がるようにしてそちらを振り返った。
優輝が息を切らしながら走ってくる。やがて目の前で立ち止まった彼の顔を伊津美が覗き込む。もったいぶったように黙っている彼はうつむいていて表情がはっきりと把握できない。
ねぇ……!
苛立った伊津美は思わず強い声を上げた。彼がやっと顔を上げた。
満面の笑顔。
親指が勢いよく上へ突き立てられた。伊津美は両手で口を覆った。
「本当に……?」
「嘘なんてつくかよ」
優輝が眉を八の字にして笑う。
「伊津美のおかげだ。ありがとう」
「……うん」
「一緒にいられるな」
「うん……!」
とんでもないことを言われたはずなのに抵抗もなく頷いていた。自分の意思ではどうしようもない量の涙が溢れ出した。
優輝が心配そうな顔で覗き込み、おい、と声をかける。伊津美は慌てて両目をこすった。
「ごめん、でも良かった。嬉しい……」
「俺もすっげー嬉しいよ」
優しい彼の声だけがわかる。拭っても拭っても溢れ返る涙のせいで、彼が今どんな顔をしているのかさえ見えない。
強く肩を掴まれる感覚で伊津美はやっと我に返った。涙でぐしゃぐしゃの顔なんて抵抗はあったけれど、彼が見つめている気配がする。ひしひしと感じる。だからためらいつつもゆっくりと顔を上げた。
「好きだよ、伊津美。ずっと一緒にいてほしい」
散々濡れた上にはらりと静かに流れ伝う涙。散々濡れたはずなのに、まるで蓮の葉の上を転がる雨粒みたいにころりと光って際立つ。
視界が少し晴れた。もう泣かなくてもいいよと身体が感じ取ったとでも……いうのだろうか?
雪のようにひらりひらりと宙を舞う桜の花弁の中で優輝が笑っていた。周りの景色がどんなに美しかろうと、伊津美にとっては目の前に在るこの笑顔に敵うものなど何も無い。
スキ……好き……
ああ、そうだったんだ。
「私も……」
傍にいればホッとして、でも近付き過ぎると甘く痛い。その正体を知った。伊津美の口から飾らないありのままが紡ぎ出された。
「優輝が、好き」
声に出して間もなく両腕で強く引き寄せられた。あまりの締め付けに伊津美は小さな悲鳴を漏らした。
痛い。でもすごく心地いい。優輝の匂いがした。ずっとこの腕に包まれたかったことを今更のように知った。
周囲がどよめく。今、かつてない程大胆で恥ずかしいことをしている。それでも伊津美は身を預け続けた。周りが見えなくなるってこういうことなのかなと実感しながら。
身体を離すと今度は手を繋いだ。くすぐったい感覚に額を合わせていつまでも笑っていた。
――昭島?
何分か経ったであろうときに女子の声がした。二人は一緒になって振り返った。
「昭島じゃん! 何してんのこんなとこで……」
張り上げられた声の語尾が消えかかって行く。呆然とした顔で見つめる漆黒の瞳の彼女の表情がにんまりとした笑みへ変化した。彼女はへぇ、と呟いた。やがて親友となる美咲との出会いだった。
後の話で美咲は昔優輝の家の近所に住んでいた幼馴染だと知った。伊津美と同じく推薦入試ですでに受かっていて、この日は友人の合格発表を見に来ていたと言う。
一年はクラスが三人とも一緒になって会話も増えた。
「二人はいつから付き合ってるの?」
あるとき目を輝かせた美咲が聞いた。伊津美はしばらく考えて答えた。
「多分、合格発表の日から」
「え! マジかよ」
突然優輝が声を上げたものだから、伊津美は訳がわからずキョトンとした。
「ちょっと待ってよ、去年の5月からじゃねぇの?」
もうすぐ来る1年記念日を楽しみにしていた俺って……と彼はうなだれた。オロオロする伊津美。美咲がお腹を抱えヒーヒーと笑った。
「やだねぇ、思い込みの激しい男は」
美咲が涙を浮かべてからかった。それを優輝が恨めしそうに睨んだ。
(……本当はね、ずっと前から一緒に居たような気がしていたの)
伊津美は口には出来ない想いを自身の胸の内だけで呟いた。