10.悪魔〜Lucifer〜(後編)
白く眩い陽がこの世界の形状を示すみたいに青々とした天高くまで登っていく。頂点へ達する正午を迎えようとしている、今日はカラッと乾いた春の陽気。
温かなそれは厚いカーテンの隙間から細く降り注いでいる。身体を丸めて探る彼女の手元をいい具合に照らしている。
…メイサ?
不意に届いた声に彼女がぱっと顔を上げた。カーテンの閉まった暗い部屋と差し込むわずかな陽の逆光とでグラマラスなシルエットくらいしか伺うことができない。
「おう、ミラか」
デスクの引き出しを閉じたシルエットが立ち上がった。ドアの側に立っている小さな彼女の元へと近付いていく。廊下側からの明かりで徐々にいつもの笑顔が浮かび上がってくる。
「ごめんね、勝手に開けたりして。何度か呼んだんだけれど返事がなかったから…」
取り込み中を訪ねてしまった負い目なのかミラが申し訳なさそうに上目で様子を伺う。それに対して足を止めたメイサはううん、とかぶりを振って一層笑った。いつもの口ぶりでまた話し出した。
「で、どうしたんだ?昼メシか?」
「それもあるけど、えっとね…」
ミラが後ろ手に持っていたファイルから一枚を取り出した。これ、と言って前へ差し出した。
「メイサのでしょう?私のところに紛れてたんだけど筆跡が全然違うし、イニシャル【M】って言ったら他にメイサくらいしかいないから」
ふふ、と可笑しそうに微笑むミラ。小さな手に持った一枚の紙は先日行われた沈黙の会議のときのもの。彼女が口にしたイニシャルとすでに何ヶ所か書き込まれた跡がある。
「ああ、悪りぃな」
照れたように頭を掻いたメイサが片手でそれを受け取った。しげしげと眺めて、確かに私のだ、と眉を寄せて呟いた。
…もう、作戦の準備が始まっているのね。
ぽつり、とこぼれたのはミラの声だった。書類を二つ折りにしたメイサがん、と視線を落とした。
「そうだな。レグルスとセレスも朝から庭で訓練してるしな」
「うん…」
細い声と同様に小さくうつむいているミラ。しばらく黙って見下ろしていたメイサがやがてやれやれと言わんばかりの苦笑を浮かべた。手を伸ばし、薄桃色の頭を荒々しく撫で回した。きゃっ、と声を発した彼女へ言った。
「なぁに、心配すんなって。アイツらなら大丈夫だよ」
…兄貴を傷付けたりなんかしない。
愛しい者の身を案じ打ち震えている少女姿の彼女の目が乱れた前髪の間から覗く。水に同化しそうなアクアマリンの瞳が。
「もう少しだよ、ミラ。もう少しで…アンタも楽になれるんだ」
こく、小さく頷いたのを見届けたメイサは同じように頷いてから踵を返した。陽を遮る厚いカーテンが覆う窓へと歩き、シャッと軽快な音を立てて一気に開け放つ。
開けない方が良かったのではないかという程、散らかった女性のものらしからぬ室内が明らかになる。ミラはふふ、と口元を抑えて笑った。今更引くようなこともない、慣れた者だからこその反応だ。
書類と得体の知れない機材、むしろガラクタにしか見えない山の中で振り返ったメイサが言った。実に堂々とした立ち姿で。
「先に食堂に行っててくれ、ミラ。私はちょっくら片付けものをしてから行くからさ」
ニカッと白い歯を見せつける彼女を前にミラは一層可笑しそうに目を細めて返した。
「そう言っていつも片付けないじゃないの」
参ったな、とこぼして後頭部を掻くメイサを名残惜しげに見つめてから部屋を後にした。
温かな春の陽気は長い廊下にも所々から差し込んで照らしてくれる。静かな足取りで進むミラがふと足を止めた。力なく垂れ下がっていた小さな手へ視線を落とした。
身体に似合わないくらい大振りなブレスレットの下にはいつかの傷痕がある。そこを透かして見ているようにもう片方の手で触れている。
痛々しい痕を残した腕の方がすっと上へ伸びた。薄桃色の髪のおだんごへと。
シャウラ…
きっといつ、何時、何をしていても離れないのであろうその名を呼んだ。常に肌身離さず付けている、花の髪飾りを撫でていた。
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ーー訃報は突然訪れた。
思いがけない出会いから約一年のある日、研究所を訪れたシャウラを迎えたのは人の気配さへ何処かへ失せたようなひたすらの静寂だった。
戸惑ったような表情と足取りで白く冷たい廊下を進んでいく彼の元へようやく一人が姿を現した。
「…ナナさん?」
すでに互いを認識し合える仲となっていた後ろ姿に声をかけた。振り返った彼女、その腕の中には眠っている一歳を迎えたばかりのミラ。
「みんなは…何処に?」
ゆっくり歩を進める彼が二人のすぐ近くまで迫ったときだった。
「シャウラさん…っ!」
悲壮に顔を歪ませた彼女がまるで緊張の糸が途切れたみたいにわぁっ!と叫んだ。驚いたミラが丸く目を見開きそれから激しく泣き喚いた。
アインさんが…!!
ただ事ではないと察するには十分な光景にシャウラは表情を固まらせるばかり。ミラを抱いたまま崩れていくナナをやっと腕だけで支えていた。
通夜には視界が捉えきれないくらいの大勢の人々が訪れた。そのほとんどが声を詰まらせてむせび泣いていた。今は亡き朗らかな彼の人望の厚さが容易に伺えた。
「…アイスエレファントは大人しいはずなのに…何で…」
身を隠すように過ごしていた日々さえ忘れレグルスが近くを通ったことさえ気付かず、ただ呆然と立ち尽くしていたシャウラ。その横で拳を握り締めたレイが悔しそうに呟いた。ほんの数日前まで希望に満ちていた青空のような目はすっかり暗く虚ろなものになってしまっていた。
アインが息を引き取った日の晩、レイはシャウラに自分の知っていることを話した。
絶滅危惧種発見の報告を受けて真っ先に現場へ飛び立ったアイン。危険性の高い動物じゃないから応援は急がなくても良いと言い残していた。その言葉を信じたレイがまず先に近場の森の査察から始めていたときだった。
ーーまずいことになったーー
突如入った無線はアインからのものだった。保護することになっていた絶滅危惧種の動物・アイスエレファントが暴れ回って、今まさに町へ迫ろうとしている、と。
レイは即座に応援を集め、小型機を飛ばして現場を目指した。できる限り急いだはずだった。
しかし到着した彼らを迎えたのはあまりに悲惨な光景だった。
破壊された町、氷付けになった建造物。止むを得ず射殺されてしまったと見られるアイスエレファントの亡骸。
目を覆いたくなるその中に凍ったまま墜落した一つのひしゃげた小型機があった。アイスエレファントの放つ冷気に制御不能になったといったところか。
レイは誰よりも先に走って機体にすがり付いた。炎上しなかった機体の中で探し求める姿を見つけ出すのは容易だった。
氷のように冷たくなった身体。顔の損傷こそ少ないものの首はあり得ない方向へ向いている。
ーーおい、何無茶してんだよ。起きろよ、ミラが待ってる。
よせ、レイ!もう無理だ…!
呼び止める仲間の声さえ耳に届かないのか、レイはなおも叫んだ。口調は次第に激しく、荒く…
ミラを守るって言ってただろうが。こんなところでくたばるタマじゃねぇだろ!なあっ!?
レイ、もうやめてくれ…!レイ…レイ…ッ!!
仲間数人に無理矢理引き剥がされてやっと現場を去った。過呼吸を起こした為かその後の記憶は曖昧になってしまった、とレイは言う。そしてほんの気休めばかりに落ち着いた頃、仲間内での考察が始められたそうだ。
襲われた町では怪我人こそいたものの命を落とす者はいなかったことが救いだった。町人を逃がして彼だけが残った。そこに暮らす人々の大切な住処と暴れる程に苦しんでいるアイスエレファントを守る為に…
異議など欠片も上がらなかった。アインだったらそうするだろう、と誰もが口を揃えて言ったという。
通夜から数日程でアインの墓が建てられた。花をたむけに訪れた皆が帰ってなおその場を動くことができないレイ。哀しげな夕日が照らす丘の上のその場所に彼だけが居ることを確認したシャウラはやっと近付いて傍に残った。何も言わず。
…なぁ、シャウラ。頼みがあるんだ。
やがてぽつり、ぽつりとこぼれるレイの声が言った。
「ミラの家族になってやってくれないか?」
「え…」
見開かれた紫の両目が困惑に揺らいでいる。その持ち主の肩へレイは手を伸ばした。強く、掴んだ。
「ミラの兄貴としてあの子を育ててほしい。それが…アインの最後の願いだったんだよ…!」
「僕が…ミラを…?」
いかにも現実味が沸かないといった風なシャウラにレイは力強く頷く。彼はなおも言う。
「無線で連絡をもらったとき、アインが言ったんだよ」
ーー私に何かあったときは、ミラをシャウラ君に…ーー
「大袈裟だよって、笑い飛ばしちまった…何であのとき、俺…」
目を閉じたレイがきつく唇を噛み締めた。更に深く刻まれていく眉間の皺。痛々しげなその姿に見入っていたシャウラがやっと口を開いた。
「僕なんかより、レイと一緒にいる方が…」
小さな呟きのような声にレイの眉がぴくりと動いた。開かれた悲しそうな色の目が絡み付くように隣の彼を捕らえる。
「嫌…か?」
か細いその問いかけにシャウラが首を振った。横に。
「僕じゃ駄目だよ」
だって…
レイのものにも劣らない悲壮に満ちた顔を伏せた。そこから一気に悲鳴のような声が上がった。
「僕は犯罪者の息子だ…!悪魔の血を引いてるんだよッ!!」
……っ!!
レイの目の奥で何かが滾った。吊り上がる勢いに集まる皺。そこからは一瞬だった。
パンッ…!
そっぽを向いた…いや、向かされたシャウラが赤く染まった頬を押さえていた。いかった肩を上下させていたレイがやがて自らの目元を手で覆った。
「…悪りぃ」
動きを忘れて見上げているシャウラにばつの悪そうな声でまず詫びた。それからまた手を離した。現れた瞳に宿っていたのは強く刺すような光だった。
「お前が今までどんな苦痛を強いられてきたのか…全てを知ることなんてできない。本人じゃなきゃきっとわからないと、思う」
だけど…
確かな眼差しを取り戻したレイが続けた。
「ミラと一緒に居てほしいんだ…お前の為にも」
「僕の…為?」
呆然とするシャウラの肩をレイの手が再び掴んだ。ガクン、と激しく揺さぶられた彼の足元がふらついた。
「これだけはわかるんだ。お前は何処かで変わらなければいけないって。ミラはきっとお前を変えてくれるって…!なぁお前、このまま一人で生きていく気か?親父さんの呪縛に取り憑かれたまま家族も持たず?本当にそれでいいのか…!?」
くしゃくしゃに皺の寄ったレイの顔から飛び散った温かいものがシャウラの冷えた頬を打つ。熱く滾る感情に支配された声はなおも続く。
「お前もレグルスみたいに生きていいんだぞ?堂々と名乗って、前を向いて生きていいんだぞ…!」
かつての表情の薄さが嘘だったみたいにシャウラがぎゅっと目をつぶった。そこからいくつもの雫を落としていく。
……っ!!
声を詰まらせ、顔を伏せ、ついに細い両手がレイの胸元を握った。確かな感覚を受けたレイはすぐにすがる彼の身体を引き寄せた。
ずっとずっと寄り添って泣いていた。やがて浮かんだ満天の星空にほんの少しの安らぎが戻るまで。
ーーあまりにも悲しい始まりだった。だけど色付いていく新しい生活。かつて犯罪者の家族となった親子が逃げ込みひっそりと暮らしていた場所に新しい兄妹はいた。
お兄ちゃぁん!
パタパタと軽い足音が響く。玄関の段差に座って靴を履く彼が振り返るより早く追いついた少女がどん、と背中に飛びかかる。
「今日は何時に帰るの?」
円らな瞳で覗き込む。少し寂しそうな顔で。見つめ返すシャウラは苦笑した。もう少年のものではない、いくらか大人びた優しい声色で言った。
「ごめんね、この頃帰りが遅くって」
ぷう、と頬を膨らましている幼い妹。そうよ、と主張しているつもりなのだろうか。シャウラは口元に手を添え可笑しそうに笑った。更に頬を丸くさせていく姿についにはお腹まで抱えて。
すっかり大きく成長したミラはもう5歳。いつの間にか背中まで伸ばした髪をおだんごに結うのが気に入っている。新しい髪飾りを付けてこの頃は更にご満悦な様子だ。
「今日はなるべく早く帰るよ。そうだね…5時半、くらいかな」
「本当?じゃあ間に合うね!」
…?
不思議そうな顔のシャウラにミラはキラキラ輝く表情で言う。
「ミラの育てたお花を見せたいの!この間牧場の近くで見付けたんだけど、満月の夜に咲くんだって!今夜、二階の窓に置くんだぁ」
「そっか、楽しみにしてる」
得意気に笑うミラの髪へシャウラの腕が伸びた。絆創膏がいくつも巻かれた細い指先が髪飾りの位置を直す。
「うん、可愛い。よく似合ってるよ、ミラ」
そう言って微笑む兄をミラは少しくすぐったげに身をよじりながら上目で見つめた。それから言った。
「だって…お兄ちゃんが作ってくれたんだもの」
えへへ、と嬉しそうに髪飾りをいじっている。そんな妹を名残惜しげに見ていたシャウラはやっと腰を上げた。靴を履いてから玄関を出るまで実に30分。毎日こんなことを繰り返している二人は必然的に早起きとなっていた。
20歳を迎えてなおシャウラが前世を思い出すことはなかった。成人の男らしい体力もそれ程つかず、ただ細いままの身体がひょろっと縦に伸びたくらい。
それでも労働を終えて夕暮れの帰路を辿る彼の表情は穏やかなものだった。まだちょっぴり猫背がちだけど気配を消そうとするような臆病な姿勢はいくらかマシになっているようにさえ見えた。真っ直ぐ前を向かせてくれるこの日常がいつまでも続いてほしいときっと願っていたことだろう。
しかし変動はすぐ傍まで迫っていた。因縁を思い起こさせる無情なものが。
ーーシャウラ。
人気のない田舎の細道、背後からの声に彼は振り返った。それからしばらく静止していた。
夜を迎える前の空のような目が大きく見開かれるまでにはある程度の時間がかかった。14年もの時を経ているのだ、聞き覚えなんて都合の良いものなどあるはずもなく。
「久しぶりだな。元気にしていたか?」
「父…さん…?」
身体ごと振り返ったシャウラにそう呼ばせたのは紛れもない姿だった。同じ紫の瞳と鋭利に伸びた耳、いくらか白っぽくなっているものの陽を反射する薄い銀色の長髪。姿さえ見てしまえばなんのことはない、最後に会ったあの日と比べてもそれ程大差はなかったのだから。
「お前を迎えにきたよ、シャウラ」
「何を…言っているのですか?今更…」
決して歩み寄ろうとはせず一定の距離を保っている、異様なものを見るような目つきのシャウラを向かい合うその人はあくまでも静かに見据えていた。懐かしむような何処か哀しげな目さえして言う。
「新しい世界の創造の為に、お前の力が必要なんだ」
カリ、小さな音が鳴った。シャウラが唇をきつく結んでいた。
「…あなたのすることに興味なんてありませんよ」
細い肩をいからせ、ぎゅっと両の拳を握り締める。すっかり目を鋭く尖らせた彼は言い放った。
「帰って下さい」
低く冷たい声色に今度は父の方が静止した。音も空気の温度も失せたような長い時が向かい合う父子の間に流れた。しばらく続いていた。やがて沈黙を破ったのは、父の方だった。
ーーミラ・F・フォーマルハウトーー
……っ!!
突き付けられた一つの名にシャウラは凍り付いた。一瞬で見開かれた双眼が瞬きさえ失っている。ただでさえ頼りなさげな華奢な脚がかすかに震えていく。
「可愛い妹ができたのだな」
「ミラに…何をする気だ…ッ!!」
上目遣いで睨み付ける息子を前に父は困ったような顔で笑う。それから言う。
「人聞きが悪いな。悪いようになどしないさ」
…お前が、付いて来てくれさえすれば間違いなく、な。
ついにシャウラの足元がフラ、と揺らいだ。立っているのもやっとのような彼に父はなおも言った。絡み付く蛇のような視線で容赦もなく。
「私のことはこれから【ルシフェル】と呼びなさい、シャウラ」
ルシフェル…
脂汗を滲ませたシャウラの口からこぼれた響き。ゆっくり近付いてくる姿が彼に陰を落とした。身動きも取れないまま呟いた。
堕天使…いや…
「…悪魔」
強く睨み上げ憎悪を放ち、やっと最後のそれだけをはっきりと口にした。
まさに苦肉の策だった。
形ばかりの父親である【ルシフェル】が狙うのは王宮に身を隠す姫。あの忌まわしい事件がきっかけで王宮従事者は寮に住み込みとなり、セキュリティは一層強化された。今や誰もが知るその事実は、返って何処よりも安全な場所であると追い詰められたシャウラに判断を下させた。
レイには言わなかった。アインの死以来、身体ばかりでなく内なるものまで目まぐるしく変化していった彼。昔とは比較にならないくらいの行動力と実積、まるでアインの遺した軌跡を辿るように。
年々険しくなっていく表情にもう泣きじゃくっていた少年の面影は見られなかった。こんな話を聞いたら何をし出すかと想像してみたのか、はたまた更なる巻き添えが出るのを恐れたのか、シャウラは最後まで口を閉ざしたまま再び自身の影を潜めた。
天高くへ登った陽。眩しさに細まったシャウラの目がちら、と横を見た。
「…それでも君は、僕を見付け出したけどね」
「あ?何だよ?」
聞き取るには難しい程の小さな声にレイが怪訝な顔をする。シャウラは薄い笑みを浮かべてううん、とかぶりを振った。
革命軍と自称する組織【ルナティック・ヘブン】の管理部に身を置いてから半年ぶりにあの家へ戻ったシャウラをレイが待っていた。妹ととの思い出が詰まったこの場所にアイツならきっと戻ってくる…そう信じて仕事帰りに毎晩立ち寄っていたのだと彼は言った。
複雑な面持ちながらも今度は手を上げなかったレイは、代わりに自身の拳を壊れそうなくらいに固く握り締めて言った。
ーー俺を頼れ。お前の抱えているものが簡単なものじゃないことは、もうわかっている。ただお前が壊れていくのを見たくないんだ。話してくれ。それでお前の心が少しでも解放されるならどんなふざけた話だっていいーー
「お人好しなんて次元を超えてるよ、何なのもう、レイ…」
深いフードに顔を潜めたまま、シャウラは薄く笑んだ声を漏らした。隣のレイはすっかり厳格に育った強面をわずかに染めて頭を掻いた。ぶっきらぼうな口調で彼は言った。
「今日も恋愛相談じゃなかったのか?夢の中の彼女、の」
そう、行動の制限こそないものの何処で監視されているかわからない身であるシャウラが組織の話を出すことなどない。レイも同じだった。それが故なのか、話題と言うと大半はそのことになってしまうのだ。
「…彼女が誰なのか気になる反面、知ってはいけない気もするんだ。まぁそもそも僕の妄想の産物かも知れないけどね」
「………」
組織の囚われとなった頃から、シャウラが毎晩のように見るようになったという、夢。恋愛相談とはあくまでもレイの茶化しに過ぎない。実在するという根拠すらない。
ーー所詮は夢だ。
シャウラはぽつりとこぼす。自嘲的な笑いと共に。フードからサラサラとなびく銀色だけが覗いている。そこを静かな目で見つめていたレイがやがて口を開いた。
「…そうかなぁ」
「え?」
乱れた銀髪の中から恐る恐る向けられた目をレイは射るように鋭く見つめ返す。
「俺は、彼女が何か蓋をこじ開けようとしているように思えるんだけど」
「蓋…?」
そう、とレイは頷く。彼は更に言う。
「お前一人では到底持ち上げられない漬物石みてぇな蓋だ。彼女はお前がその下で窒息寸前になっていることを…知っているんじゃないか?」
何か思うところでもあるのか、漬物石という比喩が微妙に伝わりづらかったのか、シャウラが首を傾げてうーん、と唸る。
「そんなもの、あるのかな?」
問いかける彼にレイはさあな、と素っ気なく返す。しかし鋭いラインに囲まれた青の目は落ち着きなく何処かを彷徨っている。
「…ミラは元気、なの?」
同じように何処か彷徨うような目のシャウラが言った。もちろん本当は知っている。しかしそれはあくまでも仲介役のメイサ、そしてミラだけとの秘密。例え友人であっても知られる訳にはいかない。それでも話を出したのは、妹の身を案じる兄としての自然な反応を示したかったからなのか。
「ああ、元気だよ。レグルスにも懐いているし、顔色もだいぶ良くなってた」
眼下の景色を見つめたままのレイが答える。良かった…そうシャウラは返す。互いに目を合わせない、いや、合わせられない、双方の表情が寂しげだった。
「もう、僕を兄とは思っていないだろうな。ミラはしっかりしているから…」
「ああ、お前をお兄ちゃんと呼ばなくなったからか?」
ちら、とやっと視線を向けたレイにシャウラが小さく頷く。それからまたうつむいていく。
はぁ…かすかなため息の後にそれは続いた。レイの声だった。
妹以外のものとして、見てほしいんじゃね?
え、とこぼして目を見張ったシャウラ。そのすぐ上の眉が八の字に下がり悲しげな表情を作り出していく。
「妹以外って…他人、とか?」
消え入りそうなその返答に呆然としていたレイがやがてはぁーっ、と先程よりも深いため息を落とした。うんざりしたような面持ちの彼が言った。
「どうしてそうネガティブなんだ。俺も鈍いって言われるけどお前はそれを上回る超絶ニブチンだな」
「…??」
困った顔でまごついているシャウラをレイはやれやれと言った表情で見下ろす。それから言う。
「安心しろ、シャウラ。ミラが今でもお前を大好きなのは間違いねぇ。じゃなかったら危険をおかしてまであの家に帰ったりするかよ」
びっくりしたように見上げていたシャウラの顔が徐々に穏やかになっていった。ミラ…愛おしげな甘い声色で呼ぶ彼が続けた。
「僕ならどうなったっていいんだ。ミラさえ元気でいてくれれば…」
いつか誰かに息の根を止められても、消え失せても…
おい、とレイの声が鋭く上がった。いつかみたいに焦燥に強張った彼がいつかみたいに細い肩を掴む。
「それ以上言うな…殴るぞ?」
きっと精一杯にドスを効かせたつもりなのだろう。しかし見上げた顔に恐れはなかった。そしてあろうことかこんなことまで言った。
「どうなってもいいって、言ったでしょ?」
いいよ、レイの気が済むなら…好きにして。
弱々しくも確かな声。閉ざされた空間で書物ばかりが情報源だったせいなのか相変わらず使いどころを誤ったような言葉。そこに答えが返ることはなかった。きっと照れた訳でも引いた訳でもなく。
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凍える早朝から続くそれに身体はすっかり火照っていた。陽が登り、春めいた陽気を落とし出してなお、暑い。
大丈夫ですか?と心配そうな顔をしたトレーナーに尋ねられる度に、レグルスとセレスは揃って大丈夫です!と返した。いちいち声がシンクロしていた。
ルナティック・ヘブンの大半は魔族だからと、一度対戦形式が取られた。手加減しないで、と言う何処か好戦的とも見える笑みのセレスにレグルスはためらいを振り払って向かった。
潜在的な能力は否が応でも現れるもの、それは知ってはいたけれどまさか2000年の歳月を経てなおここまで健在だとは驚いた。ましてやつい最近まで肉体を纏いフィジカルの人間として生きていたなど嘘ではないかと思う程に。
正午を示す太陽の位置を見据え、そろそろ休憩が言い渡される頃だと察しがついた。広大な緑が占める王宮の中庭、まるでこんなときの為にあるかのような木陰に腰を下ろして息を整えた。同じ木の反対側の面でセレスも疲れ切った身体を預けていた。
「喉乾いたろ、セレス」
「…レモネードがいいわ」
「ああ、俺もだ」
当然のように要求してきた彼女にやれやれと思いながらも火照った身体を立ち上げた。あれを好んで飲んでいる者はもう一人いる。メイサだ。
これだけ水分を消耗している。分け合ったって足りるはずもないと想像がつく。ちょうど二本あればいいが…なとど考えながら歩き出したときだった。
ーー待って、レグルス。
ふと呼び止められた。まだ呼吸の浅い声に。
レグルスは振り返った。瞬時に胸の奥がドク、と唸った。日を追う毎に確かになっていく、手に取るようにわかる、彼女が何かとてつもないことを発しようとしていることも、また。
セレス…
引き返した身体をかがめた。木にもたれたままの彼女の前で。恐る恐る、問いかけた。
「アンタ…何を言う気だ?」
見開かれな青の目。それはすぐに落ち着きを取り戻して元の形へ細まっていく。
「もう察したの?さすがね、レグルス」
やがてほんのり笑みを滲ませていく、彼女が言った。
「お願いがあるの」
あなたにしか頼めないことよ。
ごくり、と喉を鳴らして構えた。何を言い出すかはわからない。それでも感じていた。
今から放たれるものが衝撃を孕んでいるであろうことを。
誰もが手を休める昼食時、人でごった返す食堂に辿り着いた。すでにそこに居た見慣れた姿の一人がこちらに手を振った。
「おう、レグルス。アンタも飯にすんのか?」
メイサの大音量が言う。続いて嬉しそうに身体を立ち上がらせるクー・シー、微笑むミラの姿が目に映る。とりあえず手を振り返した。それから言った。
「ああ、今訓練を終えたところだ。セレスと一緒にすぐに行くよ」
早くしろよー、というメイサの声を背に食堂を後にした。タイミング良く残っていた二本のレモネードの瓶を抱えながら。
再び中庭のすぐ前まで戻った。トレーナーはすでに休憩に向かったのだろうか。だだっ広いそこにはもう、一人しか居なかった。
レグルスはしばらく立ち尽くしていた。遠い晴れの空の彼方を見つめている、横顔。その名をぽつりと口にした。
セレス…
つい最近、メイサに耳打ちされた言葉を思い出した。
ーーアンタら最近、距離感…近くね?別に責めはしないけど…ーー
ーーはっきりしないんなら、怒るぞ?ーー
ばーか。脳裏で響く声に向かって言ってやった。そういうのじゃねぇよ、と苦笑しながら。その反面で妙に納得してしまう自分に気付いた。そんな風に見られるのも無理はないだろう、と思えた。
ーーいつからか何となく気付いていた。それが怖かった。
言わんとしていることは手を取るような感触を覚え、口を開けば可笑しい程にシンクロする。何か近いもの…いや、波動が同じ方向へ進んでいる。
認めざるを得ない。ここまで同調できる者など他にいなかったと。今互いになくてはならない存在。そして有るべき形ならもう見付け出している。手助けは他でもない彼女がしてくれた。戸惑っていた自分よりも先に答えを見出した、彼女が。
だからって…
レグルスは顔を伏せた。指に挟んだ瓶を強く握った。眉を寄せ歯を擦り鳴らし、やっと奥から、こぼした。
こんなのって…あるかよ、セレス。
拒めなかった自分を悔やんだ。かと言ってそうしたらそうしたでまた同じように悔やんだのだろうとわかってしまうことが辛く、奥深くをきつく握り締めていく。
レグルス…?
呼びかける声にやっと顔を上げた。いつの間にか見ていた彼女が意地悪っぽく笑った。
「もう、遅いわよ」
「うっせ、礼くらい言え」
あえてぶっきらぼうに言ってやった。進み出す足取り、その差中で半ば無理矢理に誓った。
受け止めよう。それができるのは、俺しかいないはずだから、と。