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ASTRAL LEGEND  作者: 七瀬渚
第3章/魂たちの傷痕
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9.悪魔〜Lucifer〜(前編)



挿絵(By みてみん)


町から遠く高く離れたその崖はまるで獣のようだと言われている。弧を描いて移動する太陽と月の明かりで色を変える。時に勇ましく、時に哀しく、遥か彼方の何者かへ向かって吠える狼のような形状だ。


太陽がまだ冷たげな色をとどめている早朝、この場には今二人しか居ない。眼下の町をぼんやりと眺める二人の青年だけが。



…まだあの夢を見るのか?



一つの問いかけに対し、フードを深く被ったシャウラが頷く。その隙間からサラ、と銀色の髪のサイドが数束流れ落ちる。無理矢理に巻き付けられた長いマフラーがバタバタと風になびかれて泳いでいる。



「僕、やっぱり頭おかしいのかな?」


「さあな」


「もうレイんとこの研究所で飼ってよ。さばくなり何なり好きにして」



僕を、好きにしてよ…と相変わらず使いどころを誤ったような意味深な発言をこぼすシャウラ。これは本当に故意ではないのか、と誰もが疑いそうなものだが、隣であぐらをかいている彼の姿勢は落ち着いたものだった。呆れたような顔で高い位置から見下ろしながら返す。


「そんな研究してねぇし。っていうかお前、ネガティブなオーラがやべぇぞ」


まるで慣れたやり取りのようだった。




レイことレイモンド・D・オークは【稀少生物研究所】の生物保護班なるものに所属している。限りなく190センチに近い180センチ代の長身、ブルネットの短髪に眼光の鋭い青の瞳、眉間が縦に割れた強面。筋肉質で締まった身体を持つ男。


真逆とも言える要素ばかりを持つシャウラはいつかマラカイトに向けていたものと同じような視線で彼を見ている。隣の芝生は青い、とでも言ったところだろうか。


今やアストラル全域を震撼させているルナティック・ヘブンの若頭である彼とこの逞しい研究所職員との奇妙な関係が始まったのは7年前、ひょんなことがきっかけだった。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



清潔感漂う白い廊下にはちり一つなくて代わりに薬品の苦い匂いが占めていた。曲がり角の部分、小走りに近い早足で進んでいた彼の身体は曲がり切る前に呆気なく跳ね飛ばされた。とん、と軽い音のしりもちをついた。床に散らばった納品書を無言で掻き集める彼に一つの声が降りた。


「おい、大丈夫か?」


まだ幼さの残る顔立ちながらもそびえる壁のごとく大柄な少年。そこから伸びた長い手が四つん這いの彼へ帽子を差し出している。


すみません、と小さく言った彼は素早くそれを受け取って顔まで押し付けるみたいに深く被る。そしてまた無惨に散らばった紙の群れへ両手を這わせる。おぼつかない手つきを見かねたのか大きな少年も一緒になって拾い始める。


帽子の彼は更に顔をうつむかせていった。それはきっと焦燥の表れだったに違いない。しかしそんな必死の抵抗も無駄な足掻きで終わってしまった。少年が、ん、と呟いて手を止めたのだ。



「お前…?」



……!!



ひょいと帽子を奪われ、呆気に取られた顔が露わになった。後ろで束ねた銀の髪、白い肌、見下ろす少年の顔色が驚きに染まった。



「レグルス!?」


大きな声を張り上げてぐい、と銀髪の彼へと顔を近付ける。そしてただでさえ鋭い目つきが徐々に怪訝そうに細まっていく。



「いや…違うな。お前、誰だ?」


「配達員…ですけど」


「じゃなくて名前だよ、名前!いくら何でも似過ぎだろ。レグルスの弟か?」



少年の最後の言葉のあたりで見上げる彼の表情が変わった。すうっ、と落ち着いていく紫の瞳。まるで観念したかのように、ゆっくりと。



「…従兄弟、です」


「従兄弟って…え…?」



見開かれてなおシャープな青の瞳には困惑が伺える。しかしすぐに何か悟ったみたく落ち着いていく。


やがて拾い集めた納品書を手渡した彼は言った。


「来いよ、腰を打っただろ?」


湿布を貼ってやる、と言って立ち上ったブルネットの髪の少年。すでに170センチはあろうかという高さに明らかに圧倒されている銀髪の少年。


「取って食う訳じゃねぇんだからよ、付いて来いって」


相手の怯えに気付いたのだろうか、少年の強面がニカッ、と白い歯を主張して笑う。対する彼がやっとのようにおずおずと立ち上がる。


「あの…」


「ん、何だよ?」


「帽子…」


「ん、あぁ!悪りぃ悪りぃ」


少年はおらよ、と言って銀髪の上に帽子を被せる。すかさず目深に押し当てる様子を前に彼は困惑したようなため息をつく。


「あの…」


「何だよ、まだ何かあんのか?」


高い位置から床へ視線を落とす少年。拾い忘れを探している様子の彼へ帽子の隙間から上目で見上げた彼が言った。小さく、消え入りそうに。



「あの…湿布ということはつまり…」



尻を出せ、ということですか?



小動物のように震え頬を赤らめている、そんな姿を前に少年の強面がポカーンと口を開いた。


「そこかよ!!」


当然の如く、突っ込みが上がった。




施設内の救護室。一層薬品の匂いが濃いそこに半ば強引に連れ去られた方と連れ去った方とが二人で居た。


「俺さ、壁みてぇにデケーからよくぶつかられるんだよなぁ」


救急箱の中をいじる少年の方がカラッと笑う。手当てを受けた方の彼はもそもそとズボンを引き上げる。うつむいたままの白い顔の頬のあたりだけが色を帯びている。


「お前まだ恥ずかしがってんの?女みてぇだな」


「…よく言われます」


静寂の部屋にははは…と響く豪快な笑い声。その主はなおも言う。


「ナナの姿を見たとき、お前本気で逃げようとしたもんな」


そう、この救護室を辿り着いた二人を始めに出迎えたのは20代半ば程の女性だった。ナナというのは彼女のことらしい。そしてすかさず踵を返した臆病な患者を俺がやるから!と少年が言って引き止めたのだ。


「…初めて会う女性に尻なんて見せられませんから」


椅子にちんまりと座ってボソボソとこぼす姿を前に少年がまた呆れたようなため息をつく。それから少し笑みを浮かべる。



「で、お前、名前何ていうんだよ?」



救急箱を閉じた彼が投げかけた問い。それにはしばらくの間があった。気まずそうに伏せられた瞼から再び紫が覗く頃、答えが返った。



「…シャウラ・ネーヴェ・L・ガルシアです」


「おう、シャウラか!俺はレイモンド・D・オークだ。レイって呼んでくれ!」



嬉しそうに笑う強面へ奪われていく双眼。目の前の光景に驚いている、そんな様子で。


「…レイさんは研究所で働いて長いのですか?」


ぽつり、とこぼれてきた問いにレイという少年は照れ臭そうに笑う。


「物心ついた頃にはもうここに居たんだけどよ、本格的に働き始めてからはまだヒヨッ子だ。今13だから…えっと、もうすぐ3年か」


「えっ、年下ですか?」


「えっ、お前年上!?」


呆然とした銀髪の彼・シャウラの顔色が更に白く、いや、青く移り変わっていく。13歳より年下に見えてしまう15歳、そうなるのも無理はないと言えよう。



「まぁでも…幼く見えるのは仕方がないのかも知れません」


やがて薄い笑みを浮かべたシャウラが言った。必死に引きつり笑いを貼り付けていたレイが、ん、と首を傾げた。



「レグルスとは一つ違うだけだけど…僕、まだ前世の記憶がこれっぽっちもないんで。そういう未熟さが滲み出るんですよ、多分」


「え!覚えてねぇの?少しも?」


「少しも、です」



前世の記憶が戻るのは15歳前後。その過程は一気にではなく徐々に、だ。大抵の者は13、4あたりから断片的に得ていくもの。16、7あたりで完全となる。


すでにいくつかなら取り戻しているであろうレイが驚くのも、15歳の時点で欠片も得ていないシャウラが戸惑うのも実に自然なことだった。アストラルの世に生きる者なら誰もが知る常識が故に。



「でも俺、知ってるよ?そういうの」


「え…?」



しばらくの沈黙を破ったのはレイの方だった。驚き見上げるシャウラに対して彼の表情は何処か余裕すら伺えるものだった。


「【前世喪失】っていうんだよ。稀少生物研究所ではそういう研究もしてるんだ。珍しい例ではあるけれど治った前例もちゃんとある。ましてやお前はまだ15だから取り戻せる見込みは十分にあるよ」


自分はまだ13のくせにそんなことを言っている。しかしシャウラの視線は完全に好奇心に乗っ取られていた。遠慮がちに、それでも身を乗り出して問いかける。


「何が…原因なんですか?」


レイはうーん、と一つ唸った。それから口を開いた。


「トラウマ…かな」


「トラウマ…」


オウム返しに呟いたシャウラに小さな頷きが肯定を示した。


「記憶ってのは必要に応じて封じることができる。そうしなければ精神状態を維持できないときに、人は無意識にそうするんだ。前世で深い傷を負ったか、もしくは…」



ちら、と目の前を一瞥してまたそれる青の目。シャウラはまた問いかける。さっきまで怯えていたのが嘘みたいに真っ直ぐ見上げながら。



「何?レイさん…言って?」



逃れようのない射るような眼差しを受けたレイはごく、と喉を鳴らした。眉間の縦皺たてじわを更に深く刻みながらも観念したように、言った。



…今世、幼い頃に何かがあった、か。



重い意味を持つそれに双方の顔色が陰っていく。当分続きそうだったそれをシャウラがまた流れを変えた。こういうところはやはり年上故なのか。



「…レイさんは、レグルスと仲がいいのですか?」


ほっ…そんなため息が聞こえてきそうにいくらか緊張を緩めたレイがああ、と答えて笑った。


「生態系報告の件で王宮に行ったときに会ったんだ」


「王宮…?」


「ああ、最近働き始めたばかりだって言ってたよ。親衛隊の新入りなんだってさ!面白い奴だな、アイツ。すっげー話しやすくてよ…」



饒舌になりつつあったレイの口調が消えかかった。憂いを帯びた儚げな笑みを目の前にして。



シャウラ…?



彼はその顔を覗き込む。ここに居ながら何処か遠くを見ているような目に何も感じないはずもなかったのだろう。


「もしかして…レグルスに会っていないのか?」


限りなく無に近い表情が問いかける彼の方をゆっくり向いて、それからうん、と頷いた。血の気のない唇が静かな声色を紡ぎ出した。




…9年前からずっと。



そうか…アイツ……




何か思い出すような表情が薄く笑む。自嘲的な色を滲ませる。


突如、レイの長い腕が座ったままの彼の両肩を強く捕らえた。まるで駆り立てられたみたいだった。



シャウラ。



突然のことに掴まれた彼は目を見張って静止している。上から真っ直ぐな視線を落とすレイは一瞬ぐっ、と噛み締めた唇を開いた。いいか?彼は言った。



「お前はお前だということを、忘れるな」



……!



ものを詰まらせたみたいに細い喉を隆起させ更に目を見開くシャウラ。レイは続けて言った。


「レグルスは親父さんと同じ親衛隊になった。でもただ真似をした訳じゃない。アイツは“レグルス”という一人の人格を信じて前へ進んだんだ」


「レイさん…」


掴む手に力がこもっていく。きっと痛いだろうという程に。だけど等のシャウラはそんな素振りも見せはしない。ただひたすら自分に向けられる言葉と真摯な目線に目を奪われるばかり。



「正直、肩身の狭いときはあると思う。犯罪者の親族というレッテルは簡単には振り払えない…」



シャウラ、お前もそうなんだろう?



真っ直ぐだった紫の瞳が深さを増した。更に奥へ、遠くへ意識を運ぶように。





ーー何で?レグルスは行くって言ってたよ?ーー



悲しげな顔で訴える幼いシャウラの頭を父は優しく撫でた。7歳以上じゃないと駄目なのだよ、わかっておくれ、そう言いながら。


だけどそれは6歳の少年を説得するには不十分だった。いや、返って羨望の思いを駆り立ててしまったのかも知れない。


母は体調が優れず薬の効果によって深く眠っていた。一人の時間が多く本が好きな少年にとって文字を読むことは難ではなかった。


翼を広げ飛び去る父の方向を確認できれば十分だった。条件が、揃ってしまった。



ーー姫が行方不明だと!?ーー


ーー町へ兵を送るんだ!早く!ーー


ーー悪魔だ…悪魔が全て壊していった…!!ーー



バスに乗り辿り着いたシャウラを迎えた光景は誰が見たって異様なものだった。崩れた門、駆け回る人々、鉄っぽい生臭さと焼け焦げた匂い。


悲鳴、泣き声、怒号が飛び交う中、小さな少年の足はふらりと吸い込まれるように凄惨な光景の中へ進んでいく。すぐ側で出処のわからないいくつかの声が確実に会話を行っていた。




銀の長髪、紫の目…



蝙蝠コウモリの翼の男…




目を見開き強張っていく少年のその顔は何処からかの声を余すことなく捉えたことを示していた。



ーーボク、何をしているんだ!?こっちに来なさい!ーー



か弱げな彼の姿に気が付いた鎧姿の青年が面を外して腰をかがめる。手を差し伸べ心配そうに見ている。



…父さんを…探さなきゃ。



パパなら僕らが探してあげるからとにかく来なさい!ここにいては危ないよ!



安心させようとしているのか優しく微笑みかけているその人の手をじっと見つめていたシャウラは、やがて振り切るように激しくかぶりを振って叫んだ。



父さんは…



父さんは僕が探すんだ…!!



それから無我夢中で走った。待ちなさい!と呼びかける声に振り返りもせず人混みに紛れ遠く向こうを目指していった。


行き先なんてきっとわからなかった少年の足は導かれるように闇へと進んだ。鬱蒼うっそうと茂った森の中へ。




ーー思いがけないあの出逢いが待っていた。


名前を尋ねてきた少女に何を思ったのか偽りを伝えたシャウラは、一人残った森の木陰に腰を下ろし力尽きたみたいに意識を失くした。



どれくらい経った頃か次に目を覚ましたのはスモークガラスに守られた薄暗い車内、そして母の膝の上だった。


ーー母さん…ここは…?ーー


蚊の鳴くような小さな問いに母は答えなかった。代わりに赤く染まった目を細め、静かに首を横に振っていた。



ーーもう少し眠っていなさい。大丈夫よ、母さんはここに居るから…ーー



うん、とだけ答えたシャウラが目を細めていった。瞼を閉じた拍子に納まりきらなくなった冷たいものがつうっ、と頬へ流れ落ちた。





「…母さんは、元気なのか?」


レイの問いかけにシャウラは首を横に振る。


「去年、死にました。元々病気がちだったから覚悟はしていましたが…」


「…そうか」



淡々としたやり取りながらも空気は確実に重く淀んでいく。手当てをしてくれた上に身の上話まで聞いてくれた少年へシャウラの心はいくらか開かれたようだ。当初の待ちの姿勢ではなく自分から語っていく。



「母さんと僕のところには仕送りが送られてきたけれど、母さんはそれを自分の治療費に当てようとはしなかったんです。悪行で得たお金で生き長らえることなんてできないって」


「それでお前が一人、汗水流して働いてたって訳か」



うつむきがちなレイの前、シャウラは少しだけ笑った。それから言った。



「命がけで僕を守ってくれた母さんの為、ですから」



夜に近い夕空みたく沈んだ瞳が伏せられた。






ーー漆黒の車体に乗せられた親子は名も知れぬ森の奥でのっぺりと佇むコンクリートの建物へ連れられた。今日からここで暮らすのですよ、湾曲した角の男にそう言われて中へ案内された。


何処までも殺風景な箱のような中身。その一室に父が居た。



「ねぇ、父さん…嘘だよね?悪いことなんてしてないよね?」



シャウラは迫って問い詰めた。何も答えない父に向かって。



「シリウスの叔父さん、死んじゃったって…本当?僕、聞いたんだ。蝙蝠コウモリの翼の人がやったって……父さんじゃないよね!?」


「シャウラ…!」



もの言わず背を向けた父にすがり付く息子を母が止めようとした。それでも彼はまるで気付かないみたいにやめようとしなかった。



父さん…!!



小さな手が長いジャケットの裾を強く引っ張ったときだった。



…シャウラ、何故……



低く地から沸くような声色に少年はびく、と身をすくめた。やっと振り返った顔と見下ろす冷たい、目。



「何故付いて来たのだ?待っていろと言ったのに…!」


「だ…だって……」



紫の目は静かに、でも確かな怒りに見開かれている。同じ色を持つ息子は完全に動きを封じられてしまっている。


やがて一つのため息が落ちた。父・リゲルからだった。


「…まぁ過ぎてしまったことは仕方がない」


そう言ってひらりと身をひるがえす。掴まれていたジャケットの裾が逃げるように宙へ舞う。


「俺はこれから忙しくなるが、母さんと一緒に待っていてくれ」


いい子にしているんだぞ、と再び優しい顔で息子を頭を撫でて一方的に去っていく。立ちすくむシャウラの両の目からとめどなくこぼれ落ちる涙。


嘘だ、嘘だ、と繰り返す彼を母が力強く抱き締めた。自らも止まらない震えに耐えている、一見細く儚げな彼女が動き出したのはそれから一週間後の深夜だった。




ウーッ!ウーッ!



遠くでサイレンの音がけたたましく鳴り響いていた。闇が埋め尽くす森の中を夢中で駆け抜ける二人が元居たやかたの方からだった。



シャウラ、急ぐのよ…!!



青ざめた母の顔は大量の汗に濡れている。今にも途切れそうな弱い息を漏らしながらそれでも息子の手を引いて進みゆく。無防備なネグリジェ姿、プラチナブロンドの長い髪は後ろで束ねてあるだけ。立ちはだかる野犬をスタンガンで蹴散らしていく、まさに火事場の馬鹿力という表現が相応しい振る舞い。


やがて開けた木々の間から覗いた二つのライトが疲れ切った親子を明るく照らした。母は迷わず後部座席のドアを開いて息子と共に中へ雪崩れ込んだ。


「カフ!シャウラ!!」


前方から二人の名を呼ぶ年配の男。はっ、と息を飲んだシャウラはそこへ身を乗り出した。


「おじいちゃん!母さんが…!」


「落ち着け、薬ならある。シャウラ、母さんにこれを飲ませるんだ!」


しわだらけの手が差し出した薬の瓶と水筒。蒼白した母の顔からは今にも意識が遠のきそうになっている。シャウラはおぼつかない手つきで大きな瓶の蓋を回していく。


「いくつ飲ませればいいの…あっ…!」


焦燥と共に問いかけたちょうどそのとき、車体が低い唸り声を上げた。


「3錠だ!悪いがもう発車する。シャウラ、母さんを頼んだぞ!」


「うん…!!」


三人を乗せたワゴンが不揃いな地面に波打ちながら動き出した。運転席の祖父は背を向けながらも時折、頑張れよ、カフ、とうわ言のように呟いていた。遠いサイレンはなおも往生際悪く続いていた。





ーーガラッ!



突如鳴り響いた引き戸の音にシャウラとレイは同時に振り返った。デカデカとした足音と体格、そして声が近付いてくる。



「おう、レイじゃねぇか!ちょうど良かった、手当てしてくれねぇか?膝を擦りむいちまってよぉ…」


「えーっ、子どもじゃないんですから…」



新しく現れたその人は冷てぇなぁ、とぼやきながら、かと言って遠慮する訳でもなくドカッと腰を下ろす。いかにも重そうな体重を受けたパイプ椅子がギシッと悲鳴を上げていたがきっと気付いてさえいない。


波打つ癖毛の金髪にアクアマリンのような水色の瞳。びっしり生えた太い眉毛、広めの顎が割れている。歳の頃は30代半ばといったところか。


いかにも男らしい風貌のその人はレイと親しげに会話を交わしている。口調は共に砕けたもの。おそらくは限りなく友達に近い上司と部下の関係だと見て取れる。


「で、レイ」


上司らしき男の目がちら、と動いた。向かい合うレイをすり抜けて。


「そこのかわい子ちゃんは誰だい?何処かで見たような気がするんだが…」


「いや、コイツ男だし……って、うわ!お前何気配消してんだよ!一瞬空気かと思ったわ」


レイの突っ込みとごめんごめん!と叫ぶ男の声、そしてガハハという豪快な笑い声とが実にやかましく混じり合う。少し顔をしかめていたシャウラが姿勢を正す。



「…配達員のシャウラ・ネーヴェ・L・ガルシアです。怪我をしたところをレイさんに助けて頂いて…」


「ガルシア?え、もしかしてレグルス君の…?」


「従兄弟です」



へぇーっ!とオーバーな反応を示す金髪の男。彼はおそらく自慢なのであろう顎をツンと突き出し、これ見よがしに白い歯を見せつける。


「そうか、シャウラ君か。私はアイドクレース・フォーマルハウト…」


ビッ、と太い親指を自分に突き付け更に眩しい笑顔を決めて言う。



「研究所一の色男とは私のことさ!!」



………



「…えっと…あれ??」



表情一つ変わらないシャウラが遅れて返す。



「あっ、はい。色男なんですね」


「やめて、その反応!何か悲しい!!」



困り果てた男の顔と頭上に大量のクエスチョンマークを飛ばすシャウラを前にしたレイがぷーっと吹き出した。痙攣けいれんするお腹を抱えながらいかつい男の方に言う。



「悪い、コイツ多分こういうノリに慣れてないから勘弁してやって」


「あ…ああ!なるほど!シャイボーイなんだね、シャウラ君は」



ん?と首を傾げつつも未だ肩を震わせ続けているレイ。お調子者の色男とやらも元の調子を取り戻しつつあった。取り残され呆然とした様子のシャウラにいくらか落ち着いたレイが笑いかけた。



「この人は俺の所属する生物保護班の隊長だ。アインと呼んでやってくれ」


「…宜しくお願いします。アインさん」


「ああ、宜しく!」



差し伸べられた大きな手。そこへおずおずと細い指が伸びて触れる。ぎゅっ、獲物でも捕まえるみたいに強く捉えられたシャウラは少し痛そうに顔を引きつらせた。伺うような上目遣い、それでもうっすらと笑みをこぼした。




アインさーん、アインさーん!



少し開いたままの引き戸の向こうから若い女性が中を覗き見て、いたいた、と声を上げた。彼女の視線はすぐに一ヶ所で止まった。


ちんまり大人しく椅子に座っている人形のような少年の姿に目を奪われている。頬を染め惚けているようにさえ見える。いつもの配達員だとはまるで気付いていない様子だ。


しばらくそうしていた彼女はやがて我を取り戻したようにアインの方へ向き直った。困ったような笑顔で話しかける。


「お嬢様が泣き止まなくって。やっぱりアインさんでないと…」


「おお、そうか!すまない、今行くよ」


立ち上がって足早に去っていくアイン。開かれたままの戸をシャウラとレイがぼんやりと眺める。


「…ご令嬢でもいらっしゃるのですか?」


「ぷっ…違うよ。お嬢様ってのはな…」


レイが可笑しそうに言いかけたとき、それは迫ってきた。ズカズカと重い足音、それから猫のような鳴き声…


いや、わずかに違うようにも聞こえる、それは…




お~、よちよち。パパがいるからもぉ~大丈夫でちゅよぉ~。




気色悪いくらいのやたら甘ったるい声を放つアインが姿を現した。緩み切った表情筋、瞳が見えない程に細められた彼の目は腕の中でしきりに泣き続ける赤ん坊に向いていた。



「アインさん、抱き方悪いんじゃないんですかぁ?」


レイが呆れ顔で言う。


「おかしいなぁ、昨日はすぐに泣き止んだのに…」


オムツは?ミルクは?などと言いながらあたふたとしている大柄な男二人。ふとアインの顔が動きを止めた。腕の中の赤ん坊を食い入るように見ている少年の元で。



「見るかい?私の娘だよ」



得意気な笑顔で歩み寄っていく。腕の中にすっぽりと納まっている赤子を間近に近付けられたシャウラは一層興味深げに見入った。


触れずともわかるマシュマロのように柔らかな頬、ぽちゃぽちゃとした小さい手足。整った球状のラインを描いた頭には薄桃色の産毛が生えている。



あ…あれ…?



まずアインが驚きに目を見張った。続いてレイも締まりなく口を半開きにした。



いつの間にか訪れていた、静寂。現れた円らな瞳は父親と同じ色。数秒前までぐずっていたのが嘘のように澄んだ色。


潤んだアクアマリンの瞳が真っ直ぐとシャウラを見つめている。今この瞬間、初めて顔を合わせたはずの彼に泣くことをやめた赤子はまさに天使と称するに相応しい愛らしい笑顔を咲かせた。



「すごいよ、シャウラ君!何で?何したの!?」


「いや、別に何も…」



そう、とりわけ目立ったことはしていない。それはここに居る誰もが見ていたはずだ。しかし確かな変化がここにある。


興奮を抑えられない様子のアインは、何で?えっ、何で?とうわ言のように繰り返している。自問自答…いや、答えの出ない自問ばかりを続けているその顔は少しばかり悔しそうでさえある。


呆気にとられていたシャウラが視線を落とした。引っ張られる感覚に気が付いて。


掴む小さな手。握られた服のしわの寄り方から赤子のものとは思えない強い力が込められていることがわかる。幸せそうな笑顔で見上げるあまりにも小さな女の子。



「あーあ、すっかりシャウラを気に入ってんじゃん。どうするよ?アインさん」


ニヤニヤと意地悪っぽく笑うレイ。対してアインはうう…と低い唸りを漏らす。無念、とでも言うような表情で彼は言う。


「まさか生後3日目にして強敵が現れるとは…!」


「…え?」


シャウラがキョロ、と視線を泳がせる。アインの言う“強敵”とやらを探しているのだろうか。自分のことだとは微塵も思っていないその様子にアインとレイはマリオネットの如く揃いも揃って顎を落とす。



ぷっ…!



どちらからともなく吹き出したが最後、タガが外れたみたいに大音量の笑い声が起こった。理解をしていないシャウラだけがびくっ、と飛び上がった。笑顔の赤子に掴まれたまま呆然と見渡している、その状態はしばらく続いた。



ーー名前、どうしようか悩んでいるんだよね。



「…まだ決まってないんですか?」


ベッドですやすや穏やかな寝息を立てている赤ん坊を穴が空く程眺めていたシャウラがやっと顔を上げた。困り顔のアインがああ、と答えた。


「何度かいろんな名前で呼んでみてるんだけど、イマイチ気に入ってないみたいなんだよねぇ」


「…奥様は、何と?」


シャウラがごく自然に投げかけた問い。そのすぐ後にアインの瞳が色を変えた。悲しげに。



「妻はお産のときに亡くなってしまったよ。名前ならきっと考えていたと思う。だけど私は忙しさにかまけて妻に十分な時間を費やしてやれなかった……駄目な夫なのさ」


「…そう、ですか」



ばつが悪そうにうつむいたシャウラにアインは再び晴れやかな笑顔を向けた。悲しみの消えないその顔は何処か誇らしげなようにも見えた。彼は言った。



「この子は妻が遺してくれた宝物さ。だから私はもう二度と仕事を言い訳になんてしない。必ずこの子を守ってみせる…命に代えても、ね」


愛おしそうに娘の寝顔を見下ろしている。


「なーに、クサいこと言ってんだか」


すかさずレイが茶々を入れる。だけど優しげな目をしている。シャウラはただそこに見入るばかり。



「ねぇ~、名前どうしよう?一緒に考えてよ~!」


本題を思い出したのであろうアインがただっ子のような声で言う。30代のしかもいかつい男のそんな様子は…言うまでもない。すでにありありと現れている、二人の少年の深妙な顔から伺うことができる。


「どんな名前を考えたのですか?」


問いかけた片方の少年、それはシャウラの方だった。アインは待ってました、とでも言わんばかりに咳払いを一つ鳴らした。それから語り出した。


いや、羅列した。




セシル、カペラ、リリー、アルストロメリア、エミリー、オリビア…




唖然と固まっている二人の少年をよそに彼はうっとり恍惚とした表情で名前の羅列を続けていく。



クロエ、アダーラ、アーデルハイド、タマキ、マドカ、レイチェル…



横目で助けを求めるような視線を送るシャウラにレイが同情と思われる視線で答える。絶え間なく続く名前の羅列がただの“音”になりつつある頃、突然頭を抱えたアインが呻いた。そして叫んだ。




どうしよう!どの女性も素敵過ぎて私には選べない…っ!!



…!?




助けを求めるように振り上げられた彼の顔は至って真剣だ。明らかに困惑しているシャウラにレイがそっと耳打ちをした。


「…どれも過去に惚れた女の名前なんだぜ」


「…随分と多いのですね」


ひそめたはずの二人の会話はアインの耳にも届いたようだった。彼は髪を掻き上げ、ふっ、と困ったように笑った。


「そう…恋したレディは数知れず、愛したレディも数知れず…そんな私はまさに女性を守る為に生まれし騎士ナイト…!」



「つまり、その…アレだ」


「何となくわかります…アレ、ですね」



おぉい!そこ!!



恍惚と自分の世界に浸っていたアインがやっと声を上げた。いかつい顔を朱に染めて意義と思われるものを二人の少年へ放っていく。


「アレとは何だね、アレとは!別に浮気とかやましいことはしてないよ?ただそのときそのときで常に本気なだけさ。断じてそのようなふしだらなたぐいでは…!」


必死の弁解を繰り広げている。そんな中、シャウラは至って冷静に視線を移動させる。


そして止まった。辺りを占める騒がしさを一つの響きが遮った。



ーーミラ。



「え?」



レイとアインがぴたり、と動きを止めた。二つの視線は放たれたばかりの声の方へ集まった。



「ミラ、がいいと思います」



自ら口にしておきながら何処か驚いているようだったシャウラ。見つめる片方の表情がみるみる晴れていく。


「いいよ【ミラ】!すごく素敵だ!!いいセンスしてるよ、シャウラ君!」


目をランランと輝かせたアインが名付け親の彼に詰め寄る。身長180センチはあろうかという男のあまりの迫力に固まっているシャウラをよそに、当のアインは潤った瞳で娘の寝顔を見つめて言う。


「そうか、ミラか…ミラ…なによりも可愛いこの子に相応しい…」


感慨深げな笑みで何度も何度も、噛み締めるようにその名を呟く。しばらく同じことを続けた彼がやっと顔を上げた。名をくれた人へ穏やかな眼差しを真っ直ぐに向けて、言った。



「ありがとう、シャウラ君。名付け親である君はこの子の…お兄さんだ」


「兄……僕、が…?」



困惑を滲ませて揺れる二つの瞳。アメジストみたいな紫色。


アインは笑っていた、ずっと。戸惑う少年さえも受け入れる海のような深い眼差しで、見つめていた。



ーー随分と時間が経った。本業を思い出して焦燥したのか、素早く立ち上がったシャウラに二人の男は言った。



「また遊びに来なよ、シャウラ君。名付けてくれた礼としていつでもミラの姿を拝ませてあげよう!」


「何で上からなんだよっ!」



ふざけ合う二人は言葉を交わしたばかりの配達員を門の手前まで見送りに出てくれた。目元まで覆う帽子のつばを少し引き上げたシャウラは静かな眼差しで見つめ返した。



「…ありがとうございます、アインさん、レイさん」



慎ましやかな言葉を受けた片方、レイがわずかに唇を尖らせた。彼は言った。


「っていうかさ、“レイさん”ってやっぱ違和感あるんだけど。遠慮しねぇで呼び捨てにしてくれよ。お前、年上だろ?」


強面に不器用な苦笑を滲ませる。対するシャウラも困ったように微笑して返した。それはあまりにも哀しい言葉だった。



「ごめんなさい、レイさん。僕、人の名前を呼ぶこと自体、ずっとしてなくて…だからまだ慣れていないんです」



少し、悲壮の混じったレイの顔。アインも太い眉を寄せて同じ方を見ている。



でも…




細く甘い少年の声が、すぐに次の言葉が返った。まだ遠慮がちながらも一歩前に進んだみたいな明るさの見えるものだった。




「あなた方となら、いつかそんな間柄になれそうな気がします」




きっと精一杯だったのであろう、この日最高の笑顔を血の気のない顔に花開かせながら。



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