8.彼方〜Far away〜
ーー空が白みを帯びて間もない早朝だった。キィ、と開く扉が軋みを立てた。訪れた彼を既に準備を整えた二人が迎えた。
「おはよう、レイ君」
「悪いな、レイ。こんな朝早くに」
扉が閉まる。特設の広いデスクに向かって待っていたレグルスとウェズンに深々と一礼した彼はいかつい強面にニッと満開の笑顔を咲かせて言った。
「気にしないで下さい!早起きなら慣れてます」
誰もが見上げざるを得ない長身、すらりと長い脚で大股に歩いてあっという間にデスクの前へ腰を下ろす。
「君も忙しいだろう。早速始めさせてもらおう」
ウェズンの切り出しに元気よく頷いた彼だったが、すでにスタンバイされた分厚い書類の束に視線を落とすなり渋い顔でひぇーっ!と悲鳴を上げた。
「言葉を交わしてはいけない会議…予想はしてたけどここまでとは…」
そんなことを呟きながらパラパラと冊子状にまとめられたそれを眺めていく。常時刻まれている眉間の皺がますます深さを増していく。
はは…とウェズンが低い苦笑を漏らした。ちら、と横へ視線を送って彼は言う。
「レグルスと同じ反応だね」
横目で見られたレグルスは余計なことを言うなとでも言わんばかりの不機嫌な視線を返す。鋭く細められた赤の双眼の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。傍らにはいかにも濃度の濃そうなブラックコーヒー。やっと起きている、といったところか。
「体育会系には辛いところだな、レグルス」
「…アンタもだろ」
憮然とした返答を受けた長身の彼はししっ、と悪戯っぽく笑って、ごもっとも、と呟いた。
「他にも書類が配られるから受け取ったらすぐに名前を書いてくれ。誰のモンだかわからなくなっちまう」
「おう!これでいいんだな?」
冊子の表紙にデカデカと書かれた“R”の文字にレグルスが顔をしかめる。
「それじゃあ俺と同じじゃねぇか」
「えー、しょうがねぇなぁ…」
渋々とペンを走らせる彼を呆れ顔で眺めるレグルスがぼやき出す。
「全くメイサといいアンタといい、何でこうも面倒臭がりなんだ…」
「ほらほら喧嘩しなさんな」
パン、パン、と両手を軽く鳴らしてウェズンが言う。皺の寄った顔に浮かぶ笑みはまさに子どもをなだめるそれと言える。王室内最年長の彼からしたらもはや孫の域なのだから自然なことだと言えよう。
沈黙の会議が始まった。内容の大半は昨日のものと同じだが、所用した時間は更に長く約2時間にも及んだ。わざわざこの王宮に足を運んだ彼、レイと共有しなければならない特殊事項があった為だった。
やがてウェズン一人を残して部屋を後にしたレグルスとレイ。二人の向かう先、廊下の奥からパタパタと軽い小走りの音がした。姿を現した彼女の細い足が止まった。嬉しそうな笑顔を咲かせながら、水色の目に映ったその人の名を呼ぶ。
「レイさん…!」
「おう、ミラ!久しぶりだなぁ!」
づかづかと威圧的に迫る彼にミラは動じずむしろ自分からも歩を進めていく。例え大多数が怖がるような容姿でも恐れる必要など彼女にはないのだ。かつては生活のほとんどを共にしていた間柄、強面の彼の人となりならよく知っている。
「大きくなったなぁ、お前。将来は間違いなくいい女だぞ」
慈愛に満ちたような彼の優しい表情の下、大きな手で頭を撫でられるミラは恥ずかしげにほんのり頬を赤らめる。上目で見上げながら彼女は言う。
「お茶でも飲んでいきませんか?レイさん」
うん、と頷いた彼。しかしすぐに切り返す。
「そうしたいところなんだけど…悪いな」
薄桃色の髪に乗せていた手を離して横をすり抜けていく。振り返った穏やかな強面がまた言う。
「行くところがあるんだ」
深いブルーの瞳が柔らかく細まっていく。それはやがて眼下の彼女からその奥へと移行していく。
ミラの後ろに立つレグルスと視線を交えた彼は一度、頷いた。レグルスもまた頷き返す。何処か意味のありげなものだったことに気付かないのか、ミラは下から明るい口調で返した。
「レイさん、忙しいですものね。無理はしないで下さいね」
ありがとな、そう答えた彼は立ち去りつつ長い腕を大きく降った。歩いても歩いても遠のく気配すら感じさせない大きな後ろ姿は曲がり角のところでやっと消えた。
庭に置かれた白の小型機が唸り声を上げる。乗り込んだ彼は慣れた手つきで操作し、機体と共に遠く空まで舞い上がった。前を見据える両目に空の色を映しながら風を切って進んで行った。凄まじい速さだった。
15分程は経ったであろう頃、機体はゆっくりと速度を落として舞い降りた。遥か下の街の景色を一望できる崖の上、その先端に座っている後ろ姿へと歩み寄る。長いマフラーを宙に踊らせながら、やはり大股で。
「待たせたな」
彼が言うと小さく身をかがめた黒の影が振り返った。目深に被ったフードの間から流れ出た銀の毛束が揺らいでいた。
…シャウラ。
レイは呼んだその名を持つ人へ、自身から引き抜いたマフラーをフードの上から有無を言わせずぐるぐると巻いていく。ほとんどが埋まった少し苦しそうな白い顔。唯一覗いている紫の瞳を見つめながら彼は隣へと腰を下ろした。
束の間の休息の如く天を仰いで息をつき、言葉の一つもなくしばらくそのままでいた。
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凍える寒さで目覚めた。大して眠れはしなかったな、と思いながらも身体を起こして布団から出た。隙間から入り込んだ冷気に横たわるクー・シーの小さな身体が更に縮こまる。セレスは巻き付けるように布団をかけなおしてやる。
朝の空気を取り入れたいところだがそういう訳にもいかない。目覚めたのが早過ぎた…いや、眠りが浅かったのだから仕方がないと思った。
とりあえずはデスクの側の椅子に腰掛けてぼぉっと天井を眺めていた。目まぐるしく流れて行った日々と流れ込んできた事実。時にそれは現実感を失わせて、一方でセレスタイトとも桜庭伊津美ともつかないような“自分”が目覚めていくようだった。
待ってはくれない変化に幾度となく戸惑う中で数々の存在に支えられてきたことを実感する。とりわけ彼には、と。
何もかも見透かされてしまう空恐ろしさはいつしか通じ合える信頼へと変わっていった。赤の瞳。強く美しくいつまでも眺めていたくなる程に引き込まれる…この感覚は何?とまた戸惑っていた。だけど見つけられそうな気がした。今背中を押さなければと思って、離した。
後ろめたささえ感じる、こんな回想の中でも覆い被さるように浮かんでくるもう一つの姿。
草原のようなビリジアングリーン、小麦色の顔を鮮やかに飾る黄色と赤。凛々しくも何処か不器用な表情……
「マラカイト…」
久しぶりに口に出して呼んだ気がした。
2000を超える時を経ても、新たな事実を知っても、未知の自分が目覚めつつあっても決して消えることはないその存在を宙を彷徨う指先が指し示す。
人の心は変わるもの。いくつもの出会いがあるなら無理もないこと。だとしても…
「変わらないのよ、やっぱり」
あなただけは。この手に取り戻したい。もう一度共に生きていきたい。
例えこの先何度転生しても、変わっていく差中でいつか終わりが来るのだとしても、同じ世に生まれた今は…と手繰り寄せるように両手を握り締めた。ただ伝わってくるのが自身の体温だけであることが、悲しい。
一つ、決意があった。こうして目を覚ます前、再び見てしまった2000年前のあの夢がそれを更に確実なものにした。もう変わらないと思えた。
あなたには話すわ。お願いをするわ、レグルス。
胸の内で呟いた。きっと前面から否定などしない、彼ならば、と。
何もかも見透かされてしまう、通じ合える、私を変えた人。彼に出逢えたことをこんなにも尊く思う日が来るなんて、と天を見上げたままのセレスは一人、笑った。