4.優輝〜Yuki〜
人気のない廊下に吹奏楽部の演奏がかすかに響く。現在から遡ること約2年9ヶ月前。5月のことだった。
ゴールデンウィークが終わり数日が経った頃、一年生の書記と会計はようやく仕事に慣れてきて、受験生で副会長である伊津美を気遣うだけの余裕を持ち始めた。
あとは自分たちがやりますから!
そう言われて生徒会室を後にした伊津美は、その足で図書室に向かった。そこには誰も居なくて心地の良い静寂が流れている。タイミングがいい、なんて密かに思っていた。持参した参考書と過去問をカバンから出し、必要な本をかき集めて席に着く。
この中学での二年間、生徒会と勉強にみっちり時間を費やしてきた。その総仕上げが今年にかかっている。
よし、と呟いて伊津美はペンを取った。ちょうどそのタイミングで引き戸が開く音がした。
最初は見向きもしなかった。
静かな図書室を自習部屋に選ぶ受験生は少なくない。何も珍しいことでもなければ、特に着目する要素もない。
伊津美は構わずペンを進めていく。足音が近付いていることになどまるで気付かなかった。
――桜庭じゃん。
自分の名を呼ばれて初めて顔を上げた。しばらく表情が固まった。
「昭島くん……」
すぐ間近で立ち止まった男子が居た。同じクラスの昭島優輝だ。
歳の割に背が高く、顔のつくり自体は大人びている。浅黒の肌も根元から明るめな短髪の色も日焼けの為だろうか。特に不良などという噂は聞いたことがない。
サッカー部のユニフォーム姿に首からタオルを下げて見下ろす彼の姿を目の当たりにして、伊津美は驚きを隠せなかった。体育が全般的に得意でスポーツマンとして知られている。つまり最も図書室と縁がなさそうな人物だったからだ。
「桜庭、生徒会の後まで勉強してんの?」
「……そりゃあ、受験生だから」
何を言っているんだろう、と伊津美は思った。ちょっぴり眉をひそめてしまった。
彼はふぅん、と呟いて本棚へと歩き去って行く。その後ろ姿を目で追っている自分に気付いて、伊津美は慌てて我を取り戻そうとした。
気配すら感じなくなる程、遠くまで進んで行った彼。冷静さが戻っていく気配にホッとため息をつく。
再びペンを取って机に向かった。そこへまた素早い足音が近付いて来た。ガタッと向かいの椅子が鳴る。伊津美は反射的に目を見開き、顔を上げた。
よいしょ、と言いながらぶちまけるように大量を本を置いた彼が当然のようにそこへ着く。一体何故。
(他にも席は空いているのに……)
伊津美にとっては彼の行動がただ不思議で仕方がない。
そんな彼を何故か直視することはできず、仕方なく乱雑に積み上がった本の山に目を止めた。そこにある共通点を見つけた。
「スポーツ医学?」
思わず呟くと、彼からああという返事が返ってきた。手に取った一冊を忙しなくめくりながら彼は言った。
「選手の一人が靭帯痛めちまってさ、次の試合は無理だろうけど何とか早く治してやれないかと思って探しに来たんだ」
伊津美は首を傾げる。
「……それは医者に任せればいいんじゃない?」
「いや、そうだけどさ……」
「それに三年生はもう引退の時期じゃあ?」
「時々顔出してんだよ。っていうか……」
彼は少し呆れたような顔をした。何故かため息まで吐き出しながらこんなことを言う。
「そんな冷たいこと言うなよ。仲間が怪我してんだぜ? 何とかしてやりたいって思うじゃん」
伊津美は真っ直ぐな彼の顔に目を奪われたまま静止した。
そういうものなの? 何とかって?
私、悪いこと言ったかしら?
聞きたいことがいくつも頭をよぎったけど、口にしない方がいいような気がして黙ってしまった。
「桜庭、宇宙飛行士になんの?」
しばらく後に唐突な問いを投げつけられて伊津美は思わずぽかんとした。
「その本」
彼が顎でそれを示す。ここでやっと気付いた。
彼のかき集めたものに負けないくらい大量に積み上がった本。先ほどの自分と同じく共通点を見つけたのだろう、と。
「そういう訳じゃあ……」
伊津美は小さく口ごもる。反対に彼は今までにも増して声を大にシフトしていく。
「じゃあ宇宙関係のナニか? すげぇな!」
ついに彼は前のめりになった。伊津美はつい身を引いてしまう。それでも対する彼はお構いなしのマイペースっぷりだ。
「桜庭、こういうのに興味あるんだ? ほんとすげぇ」
好奇心がひしひしと伝わる満面の笑顔。その瞳はやけに綺麗で……
(満天の星空、みたい)
(……って、やだ。何考えてるの、私)
何だか急に恥ずかしくなった伊津美は彼から目を逸らした。本の山を隠すように両手で整える。
「別にすごくないよ」
やっと口に出来たのはかなりぶっきらぼうな口調だった。もちろん悪気はない。ただいつもこんな調子だから大抵の人間は寄り付かなくて、奇跡的に関わりを持ったとしても打ち解けるまでには何年というレベルの時間を要する。
そんな風にいつしか伊津美自身の中の常識と化したものが今まさに崩されようとしていた。
いやいやいや! と、お調子者じみた声を上げる彼に伊津美は呆気に取られた。彼が言った。
「すげぇだろ。宇宙に関わるとか壮大じゃん! 桜庭、頭いいもんな」
――そうだ!
閃いたような声が高らかに上がった。着いていけない。
「いつか宇宙に行ったら、土産話聞かせてよ」
「えっと……」
伊津美は戸惑いがちに返した。
「私がやりたいのはそういうのじゃなくて……」
「え? じゃあ何やるの?」
普通ならここでつまらなく思って引き下がるだろうに……伊津美は視線を泳がせる。
無邪気な顔を直視することなんて出来なかった。今すぐにでも逃げ出したいのに、彼の満開の好奇心が離してくれないのだ。
伊津美は観念せざるを得ないと腹を括り、静かな調子で告げた。
「……惑星大気科学」
「ワクセイタイキ??」
「惑星の天気の研究」
マジで!? と彼が興奮を露わにした。これ以上の盛り上がりはないだろうというくらいに。やっと満足したかと伊津美は胸を撫で下ろす……のは、まだ早かったらしい。
「じゃあ宇宙のお天気お姉さんか!」
(ん? んん〜??)
「そ、それは違うような……」
「違うのかよ?」
「平たく言うなら惑星の研究者」
「ああ、そっち!」
どっちだと突っ込みたくなった。彼の暴走はまだ続いた。
木星ってでけぇよな!
あれって地球の何倍あんの?
あ、でも太陽の方がでけぇか。
……ああ、駄目。内心の伊津美が頭を抱えた。
「太陽系の外には、太陽よりも大きい恒星もあるわ……」
「え、マジで言ってんの?」
駄目よ、私にそんな話をしては……
耐えようとしたけど無理だった。平静の仮面で覆っていた伊津美の内なる情熱がついに湧き出してしまった。それはもうとめどなく。
「ええ、例えばオリオン座。見たことあるでしょ? 一等星のベテルギウスは太陽の位置に置くと木星軌道まで達するわ。あ、ちなみに木星は地球の約11倍ね。それから二等星のリゲル。これももちろん太陽をはるかに上回る大きさだし、明るさで言えばベテルギウスより上よ。これまでで確認されている最大の恒星はおおいぬ座VY星と言われてるんだけど、最新の説ではこれも……」
ひとしきり喋ったところで伊津美ははっとなった。
目の前の彼がポカーンと口を半開きにして固まっている。誰がここまで言えと? きっとそう思っているに違いない。
再び顔中に熱が込み上げた。いよいよ本気で逃げようと思い始めたときだった。
――すっげぇ……
彼がボソッと呟いた。直後、恐れていた眩しい笑顔が咲いた。伊津美の顔は引きつった。
「お前、本当に宇宙が好きなんだな。桜庭がこんなにイキイキとしゃべってるの初めて見た! ラッキー!」
伊津美は今度こそ本当に頭を抱えた。本当に仕草として、だ。
調子が狂う。ラッキーって何? 何がそんなに嬉しいの? そして何故こんなに顔が熱いのだろう。もはやいっぱいいっぱいだったと言えよう。
なるほどね、と彼が呟いた。だから何が……なんて、内心で毒づくより前に続けられた。
「それで帝北大付属を目指してんだ?」
我に返った伊津美は顔を上げた。彼の手にあるものに目を見張る。すぐ傍に置いていたはずの過去問題集だった。
「帝北は理系が強いし、高校生の論文発表にも力を入れてるから……」
言いながら伊津美は立ち上がった。椅子がガタッと音を立てた。
「私、もう帰るからそれ返して」
彼から半ば強制的に冊子を取り上げる。そちらを見ることは出来ず、ただ黙々と荷物を片付け出した。本も棚に戻してカバンを肩にかけたときだった。
――なぁ、桜庭。
彼の声がした。
低い声色。愛想の悪さを怒るのだろうか。
それならそれでいいとさえ思った。これ以上深入りするよりはよほどマシだと。
しかし予想は呆気なく裏切られた。彼の声が予想もしない形で続いてくる。
「俺でも帝北行けると思う?」
理解するまでにしばらく時間がかかった。さすがに無視できずに振り返る。
「……偏差値、いくつ?」
「48だ!」
「無理ね」
えええ!! と大声を上げた彼がオーバーに机に伏せる。伊津美はそちらへ向き直ってため息混じりに言った。
「帝北は偏差値78よ。それより何、急に。昭島くんの志望校?」
うつ伏せた彼が顔だけ上げて見つめてきた。伊津美の心臓がドクンと跳ね上がった。
さっきまでの無邪気な表情とは真逆と言えるくらい気だるい。執拗に絡み付いてくる妖艶な雰囲気。
(え……な、何……? これ)
伊津美は考えた。体育会系でも色っぽい人はいくらでもいるだろう。しかし目の前の彼が放つそれは……それは……そればかりではない! 伊津美の脳内から珍しく語彙力が消失していく。
そんな最中で彼の唇が緩やかに動いた。
「今……」
何かとんでもないことを告げられる。そんな予感に伊津美は目を見開いた。そして見事に的中してしまう。
「今、志望校になった」
こんなのはさすがに予測できなかったが。
「い……今って、何で?」
恐る恐る聞いてみた。夕焼けのせいか彼の顔が心なしか赤く見えた。
「同じところに行きたい」
その言葉は時間を止めた。
ほんの数秒だったのだろうが何分にも感じられる沈黙が二人の間に流れた。
「え、え、ちょっと待って、なんで?」
伊津美がもつれる口調でやっと切り出したとき、彼はすっかり元の表情に戻っていた。あっけらかんとした無邪気な顔。
「なんでって、駄目か?」
「志望校の選択は大事よ。昭島くんにだって将来の夢とか……」
「サッカー選手だ!」
「だったらサッカーの強いところに行けばいいじゃない!」
思わず大声で言い返してしまった。彼の言葉の意味がまるで理解できなかった。何故、高校進学に自分の存在が絡んでくるのかどれだけ考えてみてもわからない。
「それは何とかなる、多分」
自信満々に彼は言い放つ。
「サッカーならやめろと言われたってやり続けられるし、諦めた訳じゃない」
彼は得意げに顎を上げてVサインを突き出す。伊津美は長いため息と共に目元を手で覆った。ありえない、信じられない、なんなのこの人……!
「そんな理由じゃ駄目か?」
(……でも、私にそんなこと決める権利なんて無い)
「そういう理由で志望校を決める奴、桜庭は嫌いか?」
「嫌い……なんかじゃ……」
「じゃあ興味ない?」
射るような声色で彼は言う。恐らく声と同じ真っ直ぐな目をしているのだろう。直視なんて出来ない。ただ、想像してみるだけでも貫かれてしまいそうで。
「そんなの……わからないよ」
この異常な状況も、彼から送られるものもまともに受け止められないまま、伊津美は細く消え入る声で答えた。
聞きたいことなら一つあったけど、この場で口にすることは出来なかった。