5.迷子〜Lost child〜
ゆっくりと瞼を開いた。差し込む陽が眩しく、暖かい。きっと昼の陽気。いつの間にか眠ってしまっていたようだと気付く。
……ずっ。
何がすするような音がすぐ上から。紅茶の香りはしない。飲み物では、ない?そもそもこの柔らかい感触は…
ポタ、生温かいものが頬を打った。レグルスはやっと我に返った。身体を起こしたのは薄紫色が包む膝の上、慌てて顔をそむける、彼女。
「スピカ…!?」
泣き顔を隠そうとする彼女の腕を無理矢理掴んで広げる。露わになった涙まみれの顔を誤魔化すみたいに彼女が笑って言う。
「レグルス、昨日熱があったって聞いたから…大丈夫かなって…」
ドク、と奥深くが脈打った。すぐにわかった。
体調の悪さなんて自分でも気付かなかった程、昨日一日そんな素振りは見せず自然に振舞っていたはずだ。それを知っているのはただ一人。実際に肌で感じ取った、彼女だけ。
「スピカ、アンタ…」
「セレスが教えてくれたのよ。生姜湯を作って早めに休ませた、って。」
ふふ、とこぼしながら笑うスピカ。実際に見たわけではない。セレスもわざわざ言いはしないだろう。しかし安心などできるはずもない。直接目にしなくとも彼女は確実に何かを感じ取っている。今もなお笑顔を濡らし続けているものが示している。
レグルス…
彼女の鼻声が言う。
「あなたは私と一緒に居る方がいいと思っていました。愛する人の子孫を残したい…ここに居る限り、それはきっと確実なものになると…」
小さく震える腕を掴んだままのレグルスの動きは完全に封じられていた。ただ切なげな彼女の微笑みに見入るだけ。
でも…
彼女の声が一度、詰まった。鼻をすすった彼女が言った。
「もう私に縛られなくても良いのですよ、レグルス。私は知っています。ずっと一緒にはいられないって。あなたはきっと光の仕事人…いくつもの出会いを重ねて光と愛を広げていく魂。だけど私はこの世界にしか生まれることができない」
次に生まれ変わるときは離れ離れなのです…間違いなく。
「スピカ…」
握る手から力が抜けていく。笑顔を保てなくなったのか、彼女がまた解放された腕で涙を拭う。だから、とそこからまた声がこぼれてくる。
「あなたには自由でいてほしいって今は思います。もっと素敵な出会いだってきっとあります。ウェズンだってきっとわかってくれる…こんな料理もまともにできない世間知らずの私なんかより…」
セレス、みたいな…
ついに彼女の口からその名が出てしまった。レグルスはごく、と唾を飲み込んだ。乾き切った喉が中途半端に潤され、返って痛い。
彼女の言っていることならわかる。だけど今なら自信を持って言えると思った。つい昨夜まで恐れていた感覚、その正体ならもう知っている、と。
違う…
口を開いた。奥に閉じこもってしまった彼女の殻を崩すみたいにかすれた声で、言った。
「違うんだ、スピカ!それは…違う…!」
それは作られたばかりの殻をわずかに突いたようだった。崩れた隙間、腕の間から彼女の見開かれた目が覗いた。レグルスはそこへ入り込むように近付き首を傾いで言う。
「アイツ…セレスは確かに俺の世界を変えた。この感覚は何だ、って何度も戸惑った」
「自然なことだわ、レグルス。あなたはずっと私の傍に居てくれた。今までは私の存在があなたの視野を狭くして…」
「だけど、違う」
弱々しい彼女の言葉を遮った。力なくほどかれていく茨の絡んだ腕をまた掴んだ。真っ直ぐ見据えた。
スピカとはまた違うかなわないものをセレスに感じていたことを思い出す。自然に意図せず近付いていく距離が時に怖くて、まさか…と一つの可能性が脳裏をかすめるなり詰まる息苦しさを感じた。罪悪感そのものだった。それでも…
「守りたいものは変わらなかった。俺も、アイツもだ」
こういう形で繋がる相手じゃない。それが答えだった。彼女がどう捉えるかはわからない。それでももう目をそむけるつもりはなく思うままに告げていく。その差中でやっとのように知った。手を緩めて今度は腕を伸ばした。
彼女が重く抱えてきたもの、それを包み込むように。
「王族のアンタはこの世界でしか転生できない。俺の…ガルシア一族の血が混じることでそれもいずれ変わっていくかも知れない」
だけどそれはずっと先の未来。彼女の転生する頃にはきっと間に合わない。いずれは離れてしまう。そして次に生まれるときはお互いに別の出逢いをするのだろう。
ーーウェズンは知っていた。ルシフェルことリゲル・グラディウス・ガルシアが巻き起こした恐怖によって失われた、信頼。このまま自然に任せていてはガルシア一族はいずれ衰退してしまうと。
それを防ぐ為の苦肉の策だったに違いない。姓は残らなくとも能力は引き継がれる、方法。
親衛隊長に昇格したのは実力だと誰もが口を揃えて言ってくれる。それは真実だとありがたく受け止めていたい。だけど王、王妃不在の中で着々と進んでいった彼女との結び付き…そればかりはさすがに違うのだと大人になるに連れて知った。
「レグルスが好きならその想いを隠してはいけない…そう言われたの」
彼女の言葉はすんなりと内側へ流れてきた。やはり、と思った。当然のように理解した。彼女に入れ知恵をしたその者なら明白だ、と。
抱き締める腕に力を込めた。彼女の細い鳴き声がすぐ傍で響く。自身の唇の隣へ、彼女の耳元へかすれた声で囁く。
「…求め合う気持ちに嘘はない。例えレールの上であっても」
そう、これは政略結婚だ。ただありのままの想いで繋がったはずの二人は知らず知らずのうちにその波に乗せられていた。巧みに。
それを仕組み、導いたであろう者…ウェズン。だけど一体どうして彼を責めることができようか。幼く未熟な自分の代わりに崖っぷちの一族を守ろうとした、彼を。
ただ言葉もなく抱き締め合う。外の世界を知ることができない彼女と、振り切れない因縁を背負った、自分。ずっとずっと共に翻弄される迷子だったのだと知る。そしてきっととうの昔から気付いていた彼女は絶えない笑みの内側で絶えない痛みに耐えていたのだろう、と。
「この先俺が何処へ行こうと、これが仕組まれたものだろうと、今は考えなくていいはずだ。今は…」
アンタを、精一杯に愛したい。
そう言うと背中に添えられた手が更に強く締め付けてくる。ねぇ、レグルス…彼女の声が言う。
「この王室で昔、病気の為に幼くして亡くなった姫がいるって、知ってる?」
「…ああ」
「あれは私なの。私はその一度しか前世を経験していないの」
それは初めて聞く事実だった。ああ、それで…とすぐに納得がいった。かつて触れるのも恐れてしまったあの感覚は単に高貴な者だったからではない。何処までも無垢で己の欲望にさえ怯えていた彼女。その理由も。
「それでもここまで魂を成熟させた、アンタはすげぇよ」
「でも…世間を知らないわ。フィジカルさえ見たことがない…」
「これから知ればいい」
「きっと、お荷物よ?」
「いいと言っているだろ」
何故…と思った。こんな弱い自分を何故ここまで、と。
一つの新たな決意が固まった。レグルスは口を開いた。
「それなら一つ、聞いてほしい。フィジカルの話だ」
無様な男の、無様な話。そう続けた。彼女が小さく頷く感触を肩に覚えた。レグルスは語り出した。
長い長い道のり、その中で重ねたいくつもの出会い。そしてここへ生まれる一つ前、目の当たりにしてしまった悲劇が鮮明に蘇って、泣いた。
俺は…
消えないもう一つの罪が内側で大きさを増す。声を詰まらせて言った。
「親友を見殺しにしたんだ。アイツは命がけで俺を守ってくれたのに…俺はアイツを見捨てて、逃げたんだ」
そして今世でも、性懲りもなく…
身体を離して向き合う姿勢になった。スピカはずっと手を握っていてくれる。情けなく赤くなった目でそちらを見る。恐る恐る彼女へ問う。
「…呆れたか?」
彼女がかぶりを振る。もう一度問いかける。
「アンタこそ…いいのか?こんな、俺で」
レグルス…
彼女の声が届いた。
「私は経験が少ない。愛というものもよく知らないまま、あなたと出逢いました」
握られた手に強い圧力を感じた。ぴく、と小さく跳ね上がったレグルス。そこへ彼女が柔らかく微笑んだ。でも、と続ける彼女が言った。
「知らないからこそ見えるものがあるのです」
私にはあなたが必要です、そう言って首元にしがみ付いてくる。じゃれつくみたいに頬まで寄せながら。
「私には見えています。あなたのその輝きも、過去と向き合い乗り越えようとする勇敢さも、愛おしくて…離したくない」
「スピカ…」
ずっ、とすする音がまた耳元でした。なおも擦り寄ってくる彼女がこぼした。
「本当は怖かったのです。あなたが何処かへ行ってしまったらって…それがもし愛するあなたの願いなら受け入れようって覚悟はしていました…でも…だけど…っ」
やめてくれ、と胸の内で呟いた。何て恐ろしいことを抜かすのだ、と。
レグルス…
細い声が鳴く、彼女の肩の上。レグルスはぱっと赤い目を見開いた。目覚めてしまった。
彼女を取り巻く薄暗い茨。挑発するかのようにうねって視界に入り込むそれを強く睨んだ。そして思った。
こいつを焼き払ってしまいたい。だけど、それで彼女を傷付けてしまうのなら、せめてこいつよりも深く、彼女に近付きたい。
刹那のうちに沸き上がった衝動にレグルスの身体はついに奪われた。彼女の小さく息を飲む音さえ傾ぐ勢いに倒された。
「レグルス…?」
ソファの上に散らばった栗色の髪。目を丸くして見上げるスピカ、その両サイドを細くとも筋肉質な腕が固めている状態。
何か悟ったみたいに彼女が頬を染め落ち着きなく目を泳がせる。時折ちらちらこちらを伺う。そんな仕草が更に高ぶらせるのだとも知らずに、震える唇からか細い声なんかを漏らす。
「レグルス、お願い、待って…」
耐え切れないとばかりに固く瞼をつぶる、彼女の無防備な手首をがし、と容赦なく掴んだ。
まだ潤っている視界で彼女が妖しく揺らぐ。レグルスは鼻をすすり上げた。自分でも嫌になる程の鼻声で言った。
「…もう遅い」
……っ!……っ!!
無垢というのは恐ろしい。改めて実感していた。こんなに身を小さくしていながらも強い引力で引き込んでくる。熱い息まで漏らして見つめてくる。これがわざとでないのが驚きだ、そんなことを思いながらレグルスは顔を近付けた。もう抑えなんて効かない。
小さく震え何か言いかけようとしている彼女の唇へ、今は言葉なんて要らないと塞ぐように自分のものを重ね合わせた。永遠でなくたって、敷かれたレールの上だっていい。今はこれでいい、そう思えた。
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白いベンチの上で彼女は火照った身体を冷ましている。グラスに刺さったストローを咥えると中の液体がすーっと滑らかに管の中を駆け上がっていく。流れ込んだ冷たい感触が心地良いのか、飲み下した彼女がうっとりと目を閉じる。
「ミラーっ!腹減ったろ?飯行くぞ、飯!」
遠くから手を振りながらやってくるグラマラスなシルエットが呼ぶ。楽しみにしていたエステを終えてツヤツヤの肌を手に入れた彼女、メイサの顔は実に満足気だ。子どもの姿である自分よりも無邪気なその姿が面白いのか、ミラがくすっ、と含み笑いを漏らす。
「メイサったら、まだお昼前よ?」
「えーっ!だって朝早かったじゃねぇかよぉ」
子どものように唇を尖らせるメイサ。ちょっぴり苦笑しているミラはいいわ、と答え、グラスを持って立ち上がった。ひらりと浮き上がる腰の生地をもう片方の手で押さえている。彼女にとっては今世で初めて身に付けた水着。落ち着かないのも無理はない。
腰周りがヒラヒラとしたスカート状になっているものの、しっかり上下がセパレートされたタンクトップビキニ。出来るだけ露出の少ないものを選ぼうとするミラの思惑に反して、これがいい!とメイサが猛烈に推した一着だった。
一方メイサは黒のビキニに薄手のパレオ姿。形の良いバストをつん、と上向きに、スリットからは美脚を覗かせて颯爽と歩く彼女をミラは喉を鳴らし食い入るように見ている。羨望の眼差しと言ったところか。
「ミラ、どうした?おせーぞ」
後ろを振り返ったメイサは気付いた。何やら浮かない表情をしているミラに何だよ?と言いながら顔を近付ける。呟きのような声が返ってくる。
「私、栄養剤の発注、忘れずにしたかしら?」
「アンタなぁ~っ」
メイサは呆れ顔ではぁーっ、と長いため息をつく。それさえ気付いていないのか、なおも独り言を続けているミラの頭をわしゃわしゃと乱暴に撫で回す。びっくりしたミラからようやくきゃっ、という声が上がる。
「いいんだよ、今日くらいは何も考えなくたってさぁ。私らが今するべきことは食う!遊ぶ!寝る!そんだけ!」
でも…とミラが呟いたところでそれは発動した。メイサの得意技、ニヤニヤ笑いが。
「休むときは休まねぇと。ストレスは身体の発育を遅らせるんだぜ?アンタだって身体は育ち盛りだ。いいのかよ?」
……?
ポカン、とした顔で首を傾げるミラにニヤニヤ顔のメイサが続けて言う。
「いつか豊満ボディになって兄貴を悩殺するんだろ?」
なっ!と不意を突かれたミラが声を上げた。その顔がみるみる紅潮していく。それはもう、面白いくらいの早さで。
「メイサっ、私そんなこと言ってな…」
「じゃあ顔に書いてある」
「……っ!」
反論の言葉を探しているのか口をぱくぱくさせているミラ。しかし動揺のあまりそれは出て来そうにない。対してメイサはあくまでもマイペースに脳内で練った計画を得意気に語り出す。
「黒いドレスもいいけどあえて清楚な白のワンピースで攻めるのもいいな。誘うときの妖艶な表情とのギャップ…男にとっちゃたまらな…」
「メイサーーっっ!!」
彼女の思い描いた白いワンピース姿の自分を掻き消すようにミラは両腕をぶんぶんと振り回す。そのままの流れできゃっきゃと騒ぎながら追いかけっこを始める二人。
彼女たちは知らなかった。16年の時を経て練られた計画がいよいよ動き出そうとしていることも、留守にした王宮内で形を変えた絆も、
くしっ…!
大丈夫っスか、若!風邪っスか!?
そんな会話が敵側で行われていたことも。