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ASTRAL LEGEND  作者: 七瀬渚
第3章/魂たちの傷痕
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4.誤解〜Misunderstanding〜



セレスー!セレスー!!



何やら女子練の方向が騒がしい。声の主なら明らかだ。彼は導かれるように角を折れる。


「おはよう、クー・シー」


やがて開いたドアから慌てたような顔を出した彼女がどうしたの?と問いかけた。急かされてやっと着替え終わったというところか、ただでさえ露出の多い上半身の胸元部分をまだ整えている。何と無防備なのだろう。


くるくるとせわしなく宙を行き来していたクー・シーがすぐに彼女の傍へ飛んで行って言う。


「あのねっ、ミラちゃんがいないんだけど…知らない?」


問われたセレスは視線を斜め上に、小さくうーん、と呟いている。記憶を呼び起こすように。それからすぐにああ、と声が上がった。彼女は言った。


「ミラなら休暇中よ。メイサと一緒にスパに行くって」


さらっと流れてきた言葉にクー・シーがええーっ!と叫び声を上げた。後ろからでも容易に想像がつく。不満にしかめられた渋い表情が。


困り顔でふふ、と笑みをこぼしていたセレスはやがてこちらに気が付いてはた、と表情を止めた。ぶつくさぼやいているクー・シーはまだ気が付いていない。



「ずっるーい!僕も誘ってくれればいいのに!」


「女の子と一緒にスパで戯れたいとは随分とエッチだな。それにお前はもうちょっと働け」



ぎくり、そんな音が立ちそうな程わかりやすく肩を跳ね上げたクー・シー。レグルスさんっ!と声を上げる。驚き振り返ったその顔がみるみる紅潮していく。


「僕はそのぉ…強くなる為に忙しいだけだしっ、それに僕、えっちじゃないもん!」


「やーい、えっちー、えっちー」


「レグルスさぁぁん!!」


表情一つ変えずに囃し立ててやると、真っ赤な顔のままポカスカと腕を振り回して向かってくる。からかい甲斐があるとはこういうことだと実感してしまう。


気が付くとセレスが笑っていた。細く抉れた腹を抱えて実に可笑しそうに。この女も随分と変わったものだ。あのクール美少女・桜庭伊津美とは一体何だったのかと思わせる程に今では次から次へといろんな表情を見せてくれる。


「もういいよっ!レグルスさんも食堂行こ!」


綺麗な3の字を描いているクー・シーの口元を見て、レグルスも思わず吹き出した。それから返した。


「ふてくされながらも誘ってはくれるんだな。お前はいい奴だ。」


だが悪い。


続けて言った。今日は付き合えない、と。案の定、クー・シーがええーっ!と不満気な声を張り上げた。宙で地団駄を踏んでいる、上下しているその頭をポンポンと軽く叩いてやる。


「今度キャッチボールでも付き合ってやっからよ。まぁ機嫌直せ、な?」


ふくれるクー・シーの目がちらっと見上げる。小さな声が言う。


「…約束、だよ?」


「ああ、男同士の約束は固いからな。安心しろ」


レグルスはニッと思いっきりな笑顔で返した。細く狭まった視界がやがてその後ろを捉えた。


彼女が見ている。真顔に戻ってじっと静かに、そしてその中に一抹の驚きのようなものが見える。



ーー行くのね?



そう尋ねるような目線に頷いた。確実に受け取った様子のセレスが薄く微笑んだ。


「いーよ、いーよ、そうやってみんなで僕を仲間外れにしてさぁ…」


またぼやきだしたクー・シー。そういえば単純だと思っていたコイツもそろそろ一次反抗期か?などと思ってみる。


「今日は私がずっと一緒にいるから…ね、寂しくないでしょ?」


「う、うんっ!!」


セレスの余裕漂う言葉と優しい笑みに、拗ねていたクー・シーの表情がみるみる晴れていく。やっぱり単純だったか。



ひと段落したのを見届けたレグルスは歩き出した。途中、一度振り返った。遠目からだが凛としたセレスの表情がわかった。促すみたいに頷いてくる。固い拳まで作って。


まるで戦場に赴く友を見送る姿みたいだと思った。その感覚はあながち遠くもない。彼女の与えてくれる力、そして昨夜の言葉を胸に閉じ込めるようにしながら先を進んだ。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



例の如く扉が開かれるなり、満開の笑顔が出迎えてくれた。レグルス!高らかにそう呼んでくれた。朝から二人の時間を過ごせる、それがよほど嬉しいようだ。


部屋に入るとテーブルの上に二人分の食事が用意されていた。そこへ視線を落としたレグルスは思わず小さく笑ってしまった。


今目の前に並んでいる料理はいつも彼女の元に運ばれているものとは明らかに違う。茶色っぽいトースト、艶のないスクランブルエッグに縮んだベーコン…つまり全体的に“焼き過ぎ”なのだ。その理由ならもう知っていた。


扉が開かれる前、いそいそと近付いてきたメイドの娘が含み笑いと共に教えてくれた。直接キッチンまで訪ねてきたスピカが、今日の朝食は自分が作りたい、とせがんだのだという。


改めて目の前のもの、彼女の涙ぐましい努力の結晶を眺めた。これではさぞかし危なっかしかったのだろう、と。くすぐったくて表情筋がだらしなく緩んでしまう。



しばらくは他愛のない話を花を咲かせていた。最近読んだ面白い本、新しく覚えた料理、クー・シーのドジ話にメイサのムカつく話…


その合間にゴムのようなベーコンとパサパサのトーストをかじり、乾いた喉を塩辛いスープで一時的に潤した。自分のものよりも先に空になった皿を見てスピカは嬉しそうに笑っていた。


食器が片付けられた後、食後の紅茶をすする。呼ばない限りは執事もメイドもやって来ない。今度こそ二人っきりとなった空間。


レグルスはひたすら噛み締めていた。料理や紅茶ばかりではない、今ここにある時間を、惜しみながら。



スピカ…



小さく口を開いた。微笑みを残したままの彼女がこちらを見た。


澄んだ瞳を前にまだ声さえ出せない口元が空回ってしまう。握った両の拳は情けなく震え、ついには優しい微笑みを直視することさえ叶わなくなっていく。



ーー話があると言っていましたね?



ついに彼女から助け舟を出されてしまった。どうしたのですか?と彼女は問う。


ぎゅっと目を閉じた。自分に苛立った。覚悟が決まったか何だかわからないうちに半ばヤケになって立ち上がった。ガタ!と鳴り響いた椅子の音に彼女が目を見開いた。


「レグルス…?」


見上げる円らな瞳は驚いてこそいるもののまだ恐れは見えない。いくらも直視できないままレグルスは彼女に見えるよう一歩ずれてひざまづいた。



スピカ…いえ、殿下。



重い口をやっと開いた。



「貴女にお伝えしたいことがございます」


ゆっくり、スピカが立ち上がったのがわかった。レグルスはこうべを垂れた状態のまま続けた。



「…俺の罪についての話、です」


「罪…?」



深く息を吸った。鼓動よ、鎮まれと願った。覚悟は決めたはずだ。どんな結果になろうとも受け入れると、固く。もうその場しのぎは許されない、と自分に言い聞かせた。



「言って楽になるのは俺だけかも知れない。でも、貴女には全て知っていてほしいんです」



伝えたい。例え、彼女が二度と俺に微笑んでくれなくなったとしても、もう隠したくない。



ーー16年前…



その一言は何か力を持った呪文のようだった。ためらっていたのが嘘みたいに次の言葉が引き出された。



「あの日、貴女を助けた少年は“レグルス”ではありません」



ここまで言ってしまえばもう戻ることはできない。今更になって迫ってきた実感にまた喉元が震えそうになる。何というザマだ。もう一度深呼吸をして何とか乗り切ろうと試みる。


「俺は確かにあの場に居ました。でも争いのさなかで気を失ってしまった。貴女にレグルスと名乗ったのは…俺の、従兄弟です」


「従兄弟と言うと、もしかして…?」


スピカの声がやっとした。レグルスはこく、と小さく頷いた。


「恐らくはお察しの通り…アイツはルシフェルの息子です。アルタイル様とベガ様、そして貴女に呪いをかけた男の。だから名乗れなかった。それでとっさに俺の名を…」


絶えず迫り来る恐怖心の中、レグルスは意を決して顔を上げた。ぴくりとも動かない、ただ驚いている様子のスピカの顔がその目に映った。真っ直ぐ見据えて一気に言った。半ば叫びのように。



「貴女が誤解しているのを知っていながら俺はそれを隠し続けた…それが俺の罪です。許してほしいとは申しません。ただ謝りたかった。何から何まで自分勝手だった。くだらないプライドなんかに支配されていた、こんな俺をもう俺は許せない…」



本当に…申し訳ありません…!!



床に着きそうな勢いで頭を下げた。全身に無数の針が突き刺さるような張り詰めた空気と沈黙が占めた。それは何分、何時間もの時に感じた。


やがてそれを破ったのは小さな小さなスピカの声だった。



「ーー私を助けて下さった、その方の名前は…何というのです?」


レグルスは固く瞼を閉じた。予想していた反応に胸が苦しく詰まった。それでも答えた。



「ーーシャウラ・ネーヴェ・L・ガルシアです。ルナティック・ヘブンの現若頭…」



顔を上げられないまま虚ろに考えていた。口にしたばかりの名の持ち主、その姿を思い浮かべながら胸の内でこぼした。



ーー俺はアンタが、怖い。


自分には何もないなんて一体どの口が言う。彼女の傷はアンタにしか癒せなかったというのに、と。


スピカにとって必要なものも、ミラにとって必要なものも、持っているのはいつだって自分じゃないと知っている。そんな自分自身もかつて同じ者に救われたことを覚えている。はっきりと。


俺は逃げたんだ、前と同じように。今度は大切な彼女さえ裏切って…



ーーレグルス、それでは…



彼女の声が届いた。少し震えている声色、無理もないだろうと思う。きっと自分以上に無傷では済まないと想像が付く、彼女の声が続けて言う。


「シャウラ様にはあの日のお礼を是非伝えておいて下さい。本当に感謝しています、と」


「かしこまりました、殿下」


伝えると言っても会う訳にもいかない。テレパシーで送るしかないか。アイツ自分の立場も忘れてすっ飛んで来るんじゃねぇか、などと思いながら更に頭を深く沈める。


そのとき音がした。すうっ、と吸い込む息の音。


「もう一つ、命じます」


「はい、殿下」


きっと内心では烈火の如く煮え滾っているであろう彼女は次にどんな難題を突き付けるのか、はたまた顔も見たくない、と泣き叫ぶのか、そんなことを考えていた差中だった。



その他人行儀な呼び方をおやめなさい、今すぐに。



「えっ…」



レグルスは顔を上げた。今度は自分が息を飲む番になるとは思わずに。


目を奪われた。両の目に涙をいっぱいに溜めたスピカがいた。



「呼び直して下さい。今すぐ、スピカと…!」


「どう…して…?」



いつまでもいつまでも、呆然と見上げていた。絶えずこぼれる涙を両方の袖でしきりに拭っている、彼女。薄紫色の袖の生地に濃い染みが点々と出来上がっていく。


「レグルスの罪は私が許します。理由なんて聞かないで…私が生涯を共にすると決めたのは、あなたよ」


「スピカ…」


彼女は怒っている。それは予想していた。なのにその口から続くのは予想もしていなかった言葉ばかりだ。



「これ以上、あなたを愛する私の気持ちを踏みにじったら許さないんですからね…!!」



ボロボロと絶えず雫を落とす彼女を見つめているうちに目の奥深くが熱く熱を帯びていった。今更のように知った。何てことだ…内心で呻いた。


全てを失う覚悟で打ち明けた言葉こそが何よりも彼女を傷付けていたのだ、と。


悔やむ中であの冷静な声色が脳裏に蘇ってくる。



ーーここへ来てから今までの間、彼女の傍にいて誰よりも彼女を知ることができたのは…きっと、あなたよーー



だから言ったでしょ、そう続けて言われたような感覚を覚えた。波のように溢れてくる、熱。レグルスはとっさに目頭を押さえた。



スピカ…


食いしばった奥歯がカタカタを震える。当てがった長い指先が湿ってくる。こんな姿見せられたもんじゃねぇ…残ったプライドが顔を上げることを許さない。


ゆっくり近付く彼女の足元が見えた。すぐに柔らかい感触に包まれた。



レグルス…



心配そうな声色で呼んでくる、彼女の腕の中で耐え切れずくっくっと笑みをこぼした。


「心配ねぇよ、スピカ。ただ、ちょっと安心しただけだ。アイツにアンタまで持ってかれちまうんじゃねぇか、なんて考えてちまってよ…」


全く…


笑いが止まらねーー…



彼女の腕が更に強く締め付ける。きっとありったけの力で。無意味だよな、と思った。


こんな強がり、すぐに見抜かれてしまうってわかっていたはずなのに、と。




ーーそれからしばらく後。


広々としたソファに場所を移した二人は揃って泣き腫らした瞼を冷ましていた。



聞かせて、レグルス。



スピカがおもむろに切り出した。あなたはどうしたいの?と。レグルスはびっくりして隣を見た。まだ少し赤い、それでも凛とした彼女の瞳があった。彼女は言った。


「あなたはきっと、遅かれ早かれ私に打ち明けてくれたでしょう。問題は何故それが今だったのか。何があなたをそうさせたのか…理由があるのでしょう?それを聞かせて、レグルス」


同じく赤い、いや、いつもにも増して赤いレグルスの目が見開かれた。参ったな、胸の内でこぼした。


タイミングを計らなくても次から次へと察してくれる。かなわない、と苦笑しつつも導かれるままに口にする。



「…あの馬鹿野郎を助けたい」


「ええ」


「アイツはあの日からずっと囚われの身なんだ。堂々と名乗ることさえ許されなくなった。自分のことをまるで語らない奴だけど、今の状況を良くは思っていないはずだ。それだけはわかる」



レグルスは思いを馳せた。今ならわかる気がした。偽りの名が持つ意味が。それを彼女に伝えた。



「あの日は多くの犠牲が出たと同時にシャウラ・ネーヴェ・L・ガルシアが自分自身を殺した日…俺の名を名乗ったのはきっと、覚えていてほしかったからだと…思う。それが本当の名じゃなくてもアンタの心に記憶として刻まれることを願って」



本来の自分を捨てざるを得なかった、そんな絶望の中で出会った憧れの王女。そのまま消えていくのはあまりに悲しかったに違いない。


アイツもスピカも俺もそう。罪も何もない子どもだった俺らが、何故。そう思うとたまらないやるせなさが込み上げる。原因であるあの男に対して。


優しかった叔父。まさかこんな悪魔に変貌するなんて。


奴の計画は周到だったと後になって気付いた。一日二日で思い付くものではない、周囲はもちろん、家族さえもずっとあざむいていたのだろうと。


その現実を受け入れるのはもちろん簡単なことじゃなかった。子どもだった自分に気付けるはずもなかったことなどわかりきっている。それでも慣れない力なんかをぶら下げて生まれ変わった意味を思い返すと自分の無力さ呪わずにはいられない。



ぎゅっ、と不意に温かい感触と圧力を片手に感じた。いつの間にかきつく握り締めていた拳を包み込んでいる細くしなやかな指に視線を落とした。その持ち主がまた少し寄り添うのがわかった。


「助けましょう、必ず」


柔らかくも力強い声に顔を上げる。確かな意志を瞳に宿したスピカが曇りのない表情で言う。


「呪いをかけられたのは私だけじゃない、シャウラ様もそしてレグルス、あなたもよ。私は助けたい。アストラル王室を継ぐ者としてこの世界に生きるもの全てを」



一人の人間として、あなたとあなたの家族を。



目の前の光景にレグルスは目を奪われた。薄暗い茨を携えた姫君。しかしそれすら装飾に見えてしまうくらい、彼女は眩しく輝いている。目が眩んでしまう。


「考えましょう、みんなで。力を合わせればきっと救い出せます」


「ありがとう…スピカ」


何て美しいのだろうと思った。彼女がアストラルの中で最も女神に近いと称される所以がひしひしと全身に伝わってくる。今更、本当に今更ながら、恐れ多い。



それからね…



今や光の塊にしか見えない彼女がこぼした。


「私も…あなたに謝りたいことがあるの」


「え…?」


レグルスは動きを止めた。ためらっているような彼女の表情。想定外の言葉がまたしても、届いた。



「私は…知っていたのです」



あなたがあの日会った“レグルス”じゃないって。



………



「えええぇぇぇ!?」


少しの間を置いてレグルスは大声を張り上げた。みっともない程にあんぐりと開いた口はまたしても発する言葉を失って空回る。


スピカが少しうつむいた。申し訳なさそうに彼女は言った。


「覚えてる?あなたがクーちゃんを保護してきたとき…」



マジかよ。そんな前から…



続きを聞かなくたってわかる。あの言葉を受けた自分はそれ程までにわかりやすく動揺していたのか、と。


はぁーっ、と深いため息をつきながらレグルスはついに頭を抱えた。恥ずかしいやら情けないやらで、もはや限界状態のところへ彼女はなおも丁寧に解説してくれる。


「あなたの反応を見て私も何か勘違いしてしまったのかと思って、それ以上は何も言えなかった。ただそれからしばらくの間、あなたが思い詰めたような顔をしていたのが気になって、だから私何ヶ月もかけて記憶を呼び起こして…それでやっと、思い出したの」


覆い込む自身を腕を緩めて、レグルスは顔を上げた。もう隠すことも叶わない、実に情けない表情で。


スピカは優しい笑みで見ていた。痛みを伴ったであろう回想の中で見つけた、矛盾。それを彼女は言った。



「あの男の子、確かにあなたに似ていた。だけど瞳が紫だったの。あなたのものとは違う」



スピカの腕がしなやかに伸びた。頬に当てがわれたその手はひんやりと冷たい。



私の方こそ、ごめんなさい…



目尻のあたりを撫でる指先。愛おしいものを見るその目にはきっと艶めくルビー色が映っている。彼女は言う。


「私は気にしていないからといって自己完結させてしまった。あなたがこれ程までに苦しんでいることも知らずに…」



いいんだ、とレグルスはやっと答えた。彼女の折れそうに細い手を握った。



ーーどういうことだ、レグルス。


僕に構うなとあれ程…!



責め立てる声の錯覚を覚えた。慣れない強気な口調なんかを使っている。内面を映し出したみたいなあんな甘々しい声をしていながら。


そうもいかねぇだろ、レグルスは見えない彼へ呼びかけた。16年前の事件から一度目の再会。その日へと意識を旅立たせていた。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



ーー幼い竜魔族の子、クー・シーを保護してから三日目の日。


二人が落ち会ったのは王宮の裏側。人気ひとけのないあの森の中だった。



「…何のつもりだ、こんなところに呼び出して」


木に寄りかかり憮然と睨み付けてきたシャウラ。幼い頃よく女の子のようだといじめられていた従兄弟のいくらか大人びた声と鋭い眼光にレグルスは目を見張った。元々外見だけはよく似ていたけれど、離れていてなおこうも似るものなのかと思ってしまった程だ。



…来ると信じてた。



沸き上がる複雑な感情を抑えながら少し笑って見せる。反してシャウラはばつが悪そうに目をそむける。


「早く用件を言ってくれ。聞きたいことがあるのだろう?」


彼の横顔が冷たく言い放つ。心を閉ざした者特有の陰った目の色。遠い日の叔父を思わせる口調にレグルスの奥歯が軋んだ。それでも耐えて、問いかけた。


「最近さ、竜魔族の子を保護したんだよ」


不自然に明るい声色のせいか、遠回しな切り出しのせいか、シャウラが怪訝な顔をする。


「そいつ、相当やつれててひでぇ怪我しててさ…」


「…おい、世間話に付き合う気はないぞ」


低くも鋭く言い放つ彼をレグルスはまぁ聞けよ、となだめた。いや、本当は自分に対してだったのかも知れない。すぐ傍まで迫っている本題に恐れている、自分に。


「そいつを見たときスピカが言ったんだ。…傷を治してやれって」


「……」


そっぽを向いていたシャウラの顔から険しさが消えた。彼方を見つめ、何かを思い出すような静止した表情がいよいよ確信を覚えさせてくる。レグルスは一歩、前へと踏み出して問う。


「おかしいよな?俺にそんな力はないのに。治癒能力は極めて稀だ。王宮の中にもそんな力を持っている奴はいないんだよ。」



少なくとも俺は二人しか、知らない。


………



しん、と静まっているシャウラの表情の一部だけが揺らいでいる。目は口ほどに物を言う、とはよく言ったものだ。


「なぁ、アンタ、さ…」


目も合わさずだんまりを決め込む彼を前にレグルスはすでに限界を感じていた。もう一歩、進んで正面から見据えた。そして言った。



「あのとき…スピカに会ったのか?」



目は口ほどに物を言う…それは相手だけではなかった。いつの間にか自身もそれに浸食されていることにレグルスは気付かなかった。


やがてふっ、と小さな息の音が聞こえた。レグルスの瞼がぴく、と反応した。呆れたように薄く笑ったシャウラの姿が映った。


「まだ気にしていたとはな。あの日、姫に会えなかったのがそんなに悔しかったのか?」



嘲笑うような口調を耳にしたその瞬間、脳天で弾ける音が響いた。



「会ったのかと聞いてるんだッ!!」



内側で騒ぎ続けていたものが凄まじい勢いで吐き出された。意識する間もなく伸びた腕がシャウラの背中を支える木を激しく叩いた。


ギャア!という声を上げて飛び立った数羽の鳥の影。二人の間に舞い落ちる木の葉。大きく見開かれた紫の目が徐々に落ち着きを取り戻していく。



「ーーやっぱり、貴様馬鹿だろう」


「あ?」


肩に落ちた葉を払いながらシャウラは真顔で言う。


「こういうのは女性を口説くときにするものなんだろ?前に本で読んだ」


「アンタどんな本読んでんだよ」


思わず突っ込んでしまった後、レグルスは我に返った。目の前の男のマイペースに流されまいと頭を振ってまた睨む。


「てめぇがどんなモンを読んでいようがムッツリだろうがこの際関係ねぇ。とにかく馬鹿はてめぇだと言いたい」


「心外だな」


のらりくらりとかわそうとする彼にいよいよ突きつけた。大部分は感情に覆われて叫んだ。



「何故俺の名を名乗った!?どういうつもりだ、大馬鹿野郎!!」



シャウラは顔を伏せたまま動かない。銀髪の旋毛つむじだけがこちらを向いている。そこへ向かって更に言う。


「初めてスピカに会ったときから何か変だと思ってたんだ。俺を知っているみたいだった。きっとレグルスという名と俺の姿に何の疑問も抱かなかったんだ。俺とてめぇは虫酸が走るくらいよく似てるもんな!スピカが見た治癒能力、俺と似通った容姿、俺の名を知っていたこと…全ての状況がてめぇを指し示している。てめぇ以外にいねぇんだよ…!!」



………



相変わらずぴくりともしない相手にレグルスの苛立ちはますますつのる。


「おい、シャウラ!」


「……」


ついにもう片方の手がシャウラの肩に伸びた。


「何とか言えよっ!!」


薄い両肩を引っ掴んで激しく揺さぶるとようやく彼が顔を上げた。レグルスは息を飲んで、止まった。


少し低い位置から見上げるシャウラは背筋が凍る程冷たい目をしている。それはあの日の記憶とリンクした。父を助けようと立ち向かった幼い自分を見下ろした、叔父の目と。


「貴様が何を怒り狂っているのか、理解できない」


やがてシャウラが言った。薄い唇から淡々と続けていく。


「ならば聞く。貴様の名を借りたから何だと言うんだ。馬鹿正直にかたきの息子だと言えば良かったのか?両親を奪われたばかりの彼女に?知っているよ、今貴様は姫と親しい仲なのだろう?全て上手くいっている貴様が何故怒る。むしろ自分の手柄として彼女に記憶されているのなら…」


「ふざけるなっ!!上手くいっている、だと?俺が怒っているのは…てめぇが嘘をついたからだ!」


わなわなと武者震いの収まらないレグルスにシャウラは乾いたため息を落とした。そして乾いた声で言った。



ーー違うだろ。



その一言にレグルスの心臓はドクン、と不快に跳ね上がった。射抜かれたような感覚に全身からじわりと汗が滲んでいく。


「何が…違うって…?」


「貴様がさっきから並べているのは取って付けた綺麗事だ。本心じゃない」


やめろ…胸の奥が細い悲鳴を上げる。向けられる無の表情もそこから抑揚なく放たれる言葉も、実に破壊的なものだった。


「…プライドが傷付いたからだ」


「……っ」


ついにシャウラが前に踏み出した。薄い笑みに軽蔑の色を滲ませながら容赦もなく覗き込む。


「彼女を救ったのも彼女が求めているのも、実は自分じゃなかった…そう思っているんだろ?そして臆病な貴様は認めることを恐れている。…違うか?」


「て…っ…めぇぇええ!!」



それまで必死に保っていた“理性”の二文字がいとも容易く吹っ飛んだ。気が付いたらシャウラを地面に叩き付けて拳を振り下ろしていた。夢中で叫んだ。


「てめぇみたいな根暗軟弱に何がわかる!スピカを騙しておきながらよくもヌケヌケと…っ」



ミシッ…!



何が起きたのかわからなかった。でも確かに聞こえた嫌な音。後から押し寄せてくる、痛み。



「僕が根暗軟弱なら…」


…!?



いつの間にか立ち位置が逆転していた。じわじわと痛みを増していく頬を押さえながらレグルスは仁王立ちの彼を見上げた。



「貴様は単細胞だ!!」


「んだとぉ!?馬鹿シャウラ!!」


「馬鹿馬鹿抜かすなクソレグルス!!」



カッと最高潮に熱くなった後はただひたすら殴り、殴られの繰り返しだった。魔力なんか使わない、いや、要らない、フェアでないと意味がなかった。それはさながら縄張り争いをする獣のようだった。




一体どれくらいの間そうしていたのだろう。


お互いが力尽きる頃、レグルスとシャウラは並んで仰向けに寝そべっていた。傷だらげの泥だらけ、久しくこんな姿になったことはない。運動の一つもままならそうな隣の男ならなおさらだ。



「…ねぇ、レグルス」


「あんだよ?」


「綺麗な空だね」


レグルスは渋い顔を隣へ向ける。心底嫌そうに言ってやる。


「てめぇも相当な馬鹿だな。そういう台詞は女を口説くときに言うもんだ。本で読まなかったのか」


「いや、こんなのなかったけど…?」


「だからって俺に言うな、気持ち悪りぃ」


へっ、と鼻で笑うと、シャウラも苦々しく笑う。空へ視線を戻し、今度はレグルスが話し始める。


「なぁ、シャウラ」


「うん」


「アンタが読んでるのって官能小説だろ」


「…そんな訳ないだろ」


「ムッツリ」


「…馬鹿じゃないの」


「うっせ、馬鹿」


何故だか無性にどうでもいい話がしたかった。友達とするみたいな緊張感のない、どうでもいい話を。


「…シャウラ」


「今度は何?」


「アンタ、本当にそれでいいのか?」


ん、という呟きをこぼして隣のシャウラの顔が向くのがわかった。レグルスは変わらず天を仰いでいた。目を合わせる気になれなかった。


「それを聞いてどうするの?姫を譲る気なの?」


譲れるの?とシャウラの声が問う。レグルスは黙り込んだ。自分でも何が言いたいのかわからなくなって戸惑っていた。本当はサディストなんじゃねぇの、コイツ…そんなことを内心で毒付いていたときだった。



ーーそれでいいよ。



少し笑みの入ったような声に振り向いた。目に映ったのは横顔だった。


「姫だって一人の人間だよ。当たり前に意思もある。譲ったり譲られたりするものじゃない」


「アンタ…」


見入るレグルスにはお構いなしにシャウラは静かに語っていく。陽の光に細められた目にもう陰りは見えない。澄んだアメジストのようだった。


「中途半端な想いなんて、要らない。ましてや妙な同情なんて彼女を守る上で邪魔になるだけだ」


「…ロマンチストかよ」


クサイ台詞を吐くようになったもんだ。だけど妙に深い説得力を感じた。



それにね…



彼がまた口を開く。意外な言葉が続いた。



「レグルスは…何か誤解してる」


「え…」



思わず目を見開いた。何のことだかわからずに。答えとおぼしきものが返ってきた。


「姫は…素敵だと思うよ。僕も好きだよ。だけどレグルスのとは、違う。もっと遠くて眩しい人だ。違うんだよ、多分…」



僕には、探している人が…



……!



「シャウラ…?」



聞き捨てならない言葉を逃しはしなかった。レグルスは思わず跳ね起きて見下ろした。紫の目と視線がぶつかった。


「…悪い、忘れて」


シャウラはすぐに身体ごとそっぽを向いてしまった。胎児みたいに丸まっている。髪の間から覗く鋭利な耳がわずかに、赤い。もどかしさに唇を噛んだ。


18歳になった今でも前世の記憶が戻らない。それはある者からの情報で知っていた。そしてたった今耳にした言葉、“探している人”。


きっと間違いないと心当たりがあった。だけど伝えることはできない。許されないとまた知っている。



レグルス。



向こうを向いたままの彼の声が呼んだ。穏やかな口調だった。


「罪悪感なんかに惑わされないで、今守るべきものを守りなよ。過去に縛られてばかりだと小さい男に成り下がるだけだ」


記憶がない者とは思えないその言葉は見事に的を得ていて、レグルスの奥深くを鋭く貫く。すっかり水分を失くした喉から自嘲的な笑いがこぼれた。



「てめぇに説教される筋合いはねぇよ、馬鹿シャウラ」



止まない痛みを紛らわすみたいにまた一つ、強がりを言ってみせた。



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