24.従兄弟〜Cousin〜
ーー続く16年前の回想。ここから先の話の中にある人物から引き出したものがあるとレグルスは言う。
彼が言葉を濁す“人物”…その人の察しならつく。隣の彼を含む多くの人々に深い傷跡を残した事件に、一体どう絡んだというのか。その場にいるはずのなかった【彼】が。
セレスは身を委ねた。心を重ね合わせ沈めていくように。
高くそびえ立つ木々に光の大半が遮られていた。小さな彼女は初めて足を踏み入れた。予想していた以上に不気味だったであろうその場所、鬱蒼と茂る森の中を何度も何度も足を取られながら走った。
足首に負ったまだ新しい傷が鋭利な枝や草に切り裂かれてますます広がっていく。流れ落ちる鮮血が土に点々と染み込み黒となる。もう、限界だった。
スピカはとうとうもつれるようにして倒れ込んだ。痛みに耐え切れなくなったのだろう、涙に濡れた顔で天を仰いだ。
空を見せてはくれない木々、占める深い孤独感の中で彼女は叫んだ。
おじいさま、おばあさま…
「私は、どうすれば…!」
もうこの世界にはいない天界に召された人、決して手の届かない遠い場所へと思いを馳せるようにむせび泣く。その世界からは何も出来ない、手が差し伸べられることはない事実を幼い彼女は知っていたのだろうか。
外に放出するのも追いつかないくらい溢れた涙が鼻の奥を抜けて喉へと流れ込む。間違いなく苦しい現象に彼女は何度もむせ返った。
救いのない音だけがあった。あおられる木々のざわめきと小さな鳥の声だけ。きっとこの場所での日常は変わらない。それが何かしてくれる訳でもない。
ふとスピカが涙に濡れた顔を上げた。何か気付いたように恐る恐る振り返った。
感じた気配のする方へ。
ーー何してるの、君…
細く響いたのは、まだ幼い声。少年の声色。
スピカの二つのエメラルドはそれを映し出していた。大きく見開かれた。
いつの間にかその場に立っていた。見下ろす少年は彼女よりか少しばかり歳上に見える。
驚いたような顔の彼が視線を落とした。ある場所で止めた。彼が小さな叫びを上げた。
足が…!
瞬時に血相を変えた少年がスピカの元へ駆け寄った。しゃがみ込んで真っ赤に染まった彼女の足首を心配そうに見ていた。
わずかに触れた、手。スピカの両の目が再び潤いに満たされた。ぷつり、と何かが途切れたみたいに彼女は動いた。
わっ…!
伸びてくる細い両腕。驚きにのけぞるも間に合わず、少年はのしかかられた重力のまま仰向けに倒れた。
胸元で泣いている少女。細い首にしっかりとすがり付いている彼女を彼は呆然と見下ろす。
ドロドロに汚れてなお、質の良さを感じさせる薄ピンクのドレス。少し癖のある栗色のショートヘアにちょこんと乗ったシルバーのティアラ。エメラルドグリーンの円らな瞳。
少年の目が見開かれた。何かに気付いたように、大きく。
「君…もしかして…?」
恐る恐る伸びた白い小さな手。それが濡れた彼女の頬に触れた。小さく息を飲む音、まだ怯えているような目。そこへ少年が問いかける。
「名前、は…?」
揺れる瞳が言葉以上に訴える。散らばった銀色に包まれて、幻想的なくらいに。
彼女は口を開いた。強い引力に導かれるみたいに、戸惑いもなく。
ーースピカ。
弱々しくもその名を放った。きっと誰もが知っているその名を出逢ったばかりの少年に。
下から見開かれた目、しばらく後に少年が言った。甘さのある独特な声だった。
「足を、見せて」
「え…」
スピカの両腕が緩んだ。今更のように戸惑いを露わにしている。待ちきれないと言わんばかりにそっと身体を起こした少年が彼女の足元に周り込んだ。
動かないで。
怯えた目をした彼女に、彼は言った。今、治すから、と。
その声のすぐ後、広がり始めた光。それは月明かりみたいに青白い。冷たげな色と反する温かいものが傷付いた足首を覆って輪郭をぼかしていく。
眩さに耐え切れずつぶられたスピカの目はしばらく後に開いた。そこに映った滑らかな肌。あるはずのものがもう、ない。
硬直したスピカの口元だけがぱくぱくと空回る。いくつも浮かんだであろうものを発することも出来ない中、やっと一つだけが言葉となる。
す、すごい…!
目を疑うような光景にはふさわしいと言える、一言。足首を見つめていた少年が顔を上げた。動きを止め、驚いている目の前の彼女をじっと見つめた。
哀愁を帯びた表情に気付いたのか、スピカが顔を上げた。ごめんね…少年は言った。
「こっちは、治してあげられない」
まだ…と続いた語尾。スピカは不思議そうに見つめ返す。力を奪われる感覚がもうない為なのか、もう忘れている。
自らを取り巻く薄暗いものを。
ーー戻ろう。
少年が立ち上がった。未だためらった様子のスピカを見下ろしながら、多分もう大丈夫、そう言う。
「え…でも…」
治ったはずの彼女の足元が震える。再び潤み始める目がおずおずと見上げる。
応えるみたいに少年の瞼が細まる。象られたそれはやがて血の気のない顔全体を占めた。微笑みが彼女へ降りた。
「奴ら…もう、いないから」
「本当…?」
聞き返す声に彼はうん、と頷く。少し下がり気味の銀の眉。寂しげでありながら柔らかいそれは安心感を与えるものだったのか、のそのそとした鈍い動きでスピカが立ち上がった。
言葉もなく、森の外へと歩き出した小さな二人。時折案ずるように振り返ってくれる彼の細い背中をスピカはじっと見ていた。
ねぇ…
やがて彼女は口を開いた。ずっと聞きたかった、何よりも気になっていたであろう問いを後ろから、投げた。
「何ていうの?お兄ちゃんの、名前…」
少し速度を緩めた歩調。銀の髪の少年は振り返らなかった。ただ一つ、声だけが届いた。
僕は……
秋を感じさせる涼しい9月の風に乗って流れ込んだ。小さな彼女の耳に、生涯忘れられない響きとして。
※※※※※※※※※※※※※※※
開いたばかりの霞んだレグルスの目に映ったのはのっぺりとした白い壁。いや、天井か、と思い直すなり記憶が駆け巡る。
あれは去年の暮れ、高熱で病院に運ばれたときもこうしていた、と。苦い匂いの漂う部屋の硬いベッドに寝かされた。腕に針を刺された。そこから繋がった管の中を透明の液体が下っていた。
そう、ちょうど今のような…
レグルス…!!
聞き覚えのある声が呼んだ。その方へ顔を傾けた。定まらない視界に揺らいでいても、わかる。いつも傍にいるその姿なら。
「母…さん…」
かすれた声で返すと大粒の雫を絶えず落とし始める母。布団に潜ったままの小さな手を痛いくらいにきつく握り締めてくる。
「良かった、レグルス…やっと気付いた…」
本当に…と繰り返しながら泣いている。ぼんやりとした意識でしばらく見入っていた。
指先さえも思うように動かない。力の出処がわからない。まるで血液を半分程抜き取られたみたいに。
胸に何か当てられている感触がある。その下はヒリヒリと痛んでいる。火傷みたいなそんな感覚が。
徐々に理解し始める状況。ここは病院、それくらいはわかった。点滴を繋がれ自由が効かない中で、レグルスは集めていた。散らばった記憶を断片を、必死に。
父さんが、怪我をした。血が出てた。
何でかリゲルの叔父さんと戦っていて…
怖い顔をした叔父さんがこっちに向かって、魔力を…
「母さん…」
乾いた唇でレグルスは問いかけた。弱々しくもはっきり、父さんは?と。
泣いていたアルヘナがぴたりと止まった。ねぇ…。レグルスはまた聞いた。途切れ途切れな声で。
「父さんは…どうした、の…?」
その問いの後の動きにレグルスは驚いた。急に顔を伏せた母、何かを押し戻すみたいに口元を押さえ肩を震わしている。
……!
言葉にならない悲鳴が、聞こえる。
「母さん…?」
発作に苦しむような激しい息遣いの母をレグルスは心配そうに見つめた。
大丈夫よ、レグルス。やがて帰ってきた。芯の太さを感じさせる厳格な母の声が。
「お父さんはね、別の部屋で休んでいるの」
すぐ、治るって。
彼女は言う。その顔がようやく上がって息子を見た。彼にとっては見慣れた品の良い凛とした笑顔。
そっか…
湿った息と共にレグルスはこぼした。
「父さん…勝ったんだね」
良かった、とまた繰り返す。自らの胸のざわつきが治まっていないことに気付きながらも安堵したように、笑った。
ただこのときは母の言葉を真に受けたかった。信じたかった。
大丈夫、大丈夫、とうわ言のように繰り返している母は壊れた絡繰人形みたいで全く大丈夫には見えないけれど、それが自然であるかのように自身へと言い聞かす。
あの勇敢で強い父が負けるはずがない、あり得ない。ましてや死ぬだなんて……
そう信じていないと息さえも出来ないと思った。
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ーー空が赤く染まり始めている。いずれ迎える暗い静けさの前、名残惜しむみたいに熱を帯びて、照らす。
温室近くの裏庭。身体を預けた小さな椅子の上、上体を反らしたセレスはふぅ、と冷たい息を天へ吹きかける。熱っぽい夕の空を冷ますみたいに。
あんな酸素の薄い密室にいつまでも居る訳にもいかず場所を移していた。まだ少し頭が痛い。そして瞼も。
背後で扉の動く気配がした。誰だかは想像がついている。特に振り返る必要も感じずそのままでいたときだった。
突如首筋に当てがわれた冷感。ぺた、と張り付く湿った感覚に思わずひゃっ!と声を上げた。しかめた顔でセレスは振り返った。
「ほら、これで目ぇ冷やせ」
濡れたタオルを差し出すレグルスはしてやったりとでもいうような意地悪な笑みを浮かべている。む、とセレスは唇を尖らせる。
「…普通に渡しなさいよ」
そう吐きながら受け取った。座ったままの低い視界に映ったものにふと目を止めた。
短いベストの下から覗いた腹。細くとも割れている硬そうな腹筋の波。表情も変えずそこへ触れた。濡れたタオルごしに。
ぺた
うわっ!!
不意を突かれたレグルスが大きくのけぞった。ふざけんなよ、と言って睨む彼ににんまりと笑い返してやる。
「先にふざけたのはあなたでしょう?」
そう言って見上げた。自分から悪戯しておきながら憮然としている…子どもか、と言いたくなる。
トン、と音を立てて白いテーブルの上に置かれたものを見た。結露した緑色の小ぶりな瓶だった。
「やる」
「あなたのは?」
「これしかねぇよ」
ぶっきらぼうな返事にそう、と呟いて手に取った。蓋を捻る音にしゅう、とこぼれる音が混じる。半透明の瓶の中、小さく泡立っていることから炭酸だとわかった。
「じゃあ遠慮なく」
開けた瓶の中身をあおった。喉の詰まる感覚としつこくない甘さ…レモネードだろうか。鼻先をくすぐるほのかなレモンの香りがやはり、と確信させる。ぼやけた意識を覚ましてくれる。
俺は…
隣の彼の声がした。
「親父の意思を継いで親衛隊に入ることを決めた。それで16のときにここへ…」
乾いた空気に潤ったばかりの喉の水分が奪われる。セレスは瓶を差し出した。少し驚いたように見下ろす彼に、ん、と促した。
彼は瓶を受け取った。伸びた手の動きは少しためらっているように見えた。何故か。
こく、と一口飲み下したレグルスが遠くへ視線を投げた。赤から紫に変わり始めているグラデーションの空へ。
ーー16年前…
風になびく銀の髪に彼の表情が遮られた。どんな表情をしているのかもわからない、彼の声が言った。
「あの日、俺は結局スピカには会えなかった。親衛隊に入隊するまでただの一度も、だ」
だけど…
大きく動く肩。深呼吸のような音がした。重い口調が続いた。
「初めて会ったときのスピカの顔は何故かすごく嬉しそうで…泣きそうだった」
俺を、知っているみたいだった。
セレスは思い返した。さっき彼から聞いたばかりの話を。考えられるとしたらこれくらいか、そう思いながら。
「お父さんから聞いていた、とかじゃなくて?」
揺らぐ銀色の隙間からやっとその顔が見えた。息を止めた。こちらへ向けられた何処か怯えたような心細い眼差しに見入った。
「俺も最初はそう思った。だけどアイツと親しくなるうちに気付いたんだ。やっぱり、噛み合ってなかったことに」
「噛み合って…ない?」
セレスは首を傾げる。陰った表情の彼が次を言う。
「あれは竜魔族の谷がルナティック・ヘブンに襲われた後。クー・シーを保護して帰ってきたとき…」
心を閉ざした少年。痩せ細り傷付いた身体。そんな彼を憐れんだスピカが涙ながらに訴えたという。
靄のような謎を解き明かす一言を。
ーーレグルス、どうかこの子の傷を…!ーー
思考が一瞬、停止した。自身の中の数々の記憶が紐付くまで時間がかかったような気がした、と。
「破壊と再生を司るガルシア一族に治癒の力は確かに、ある。だけど違うんだ」
うつむいたレグルスの顔がまた銀に覆われた。小さくかぶりを振った彼が言った。
その力を持っていたのは…俺じゃない。
「そう…」
セレスは小さくこぼす。青の瞳が揺れた。脳裏にあの言葉が蘇った。
ーースピカ様を見たことがあると言ってたんです。ーー
詳細など聞かずとも察した。あの日聞いたミラの言葉はきっと間違いなくここを指し示している、と。
「…それで、あなたはどうするの?」
やっと問いかけることができた。口をつぐんだままの彼を見据えながら。いつもより細い枝のように見える。2月の冷たさに吹かれるその姿は今にも枯れて飛ばされそう。
無防備に垂れた片手を掴んだ。小さく息を飲む音が風に混じって聞こえた。
レグルス。
セレスは言った。さっきまでの厚かましささなど木枯らしに剥ぎ取られ、奪われてしまったようなその姿に。
「16年前、彼女に会ったのはあなたじゃない。よく似た別の人だった。だけどここへ来てから今までの間、彼女の傍にいて誰よりも彼女を知ることができたのは…きっと、あなたよ」
「セレス…」
ようやく彼の呟きが返ってきた。銀の隙間から揺れた赤が見てくる。セレスも見つめ返す。唇は固く結んで握る手には力を込める。
どれくらいの間かそうしていた。
…セレス?レグルス?
そのとき一つの声が呼んだ。後ろから。どちらからともなく手を離して同時に振り返った。セレスは目を見開いた。
「メイサ…!」
そこには彼女がいた。普段の見慣れた姿とは違う黒のボディースーツ。ほどかれた長い漆黒の髪が宙を踊っている。
何してんだアンタら、と驚いた顔の彼女が問う。レグルスが一歩そちらへ向かう。
「昔の話だよ。それより…」
アンタは大丈夫なのか、と彼は言う。セレスも見入っていた。
別に平気だし、と返すメイサの表情はいつもと変わらないカラッとした笑顔に見える。だけど今やもう知っている。こんな彼女が抱えているもの…そこへ踏み込むなどきっと容易ではないと。
後は飲んでいいぞ、そう言ってレグルスがまだ少し重さのある瓶を預けてきた。それを受け取った。メイサの表情がはた、と動きを止めたことには気付かず。
なぁ、レグルス…
彼女が彼の腕を引く。何か耳打ちしている。はぁ!?そこから声が上がった。レグルスのものだった。
アンタ何言って…
妙に上ずった声。彼の視線はわずかに宙を彷徨っているよう。こそこそと何を話しているのだろう?
覗き見るもわからないままだった。やがてガラス戸へ歩き出したレグルスとメイサが顔だけで振り返った。
「落ち着いたら食堂来いよ、セレス」
「いやその前に風呂に付き合えよ、セレス」
身体が冷えてしょうがねぇ。
大丈夫かよ。
遠のいていく。二人の自然な会話と何事もなかったような顔が。
静かに閉じた扉。二人の姿が見えなくなる頃、セレスは円形のテーブルに置かれたままの瓶を手に取った。
レモンの香りが漂うそれにそっと唇を宛てがい流し込む。再び空へ視線を送る。
やっぱり…そうなのかも知れない。
だけど、何か違う。
一人呟いた。冷ます必要などない、すっかり冷めたような藍色に染まり始めている空をしばらく見ていた。




