3.悲鳴〜Scream〜
放課後、夕焼けに赤く染まる校門前。
「……お待たせ、美咲」
伊津美が弱々しく呼ぶなり、待っていた美咲がわぁ! と大きな声を上げて飛び上がった。学校の七不思議がやってきたとでも思ったのだろうか。
それ程までに驚かれる自分は一体どんな顔をしているというのだろうと思いつつも、容易に想像できる気もした。
「伊津美フラフラしてるよ。大丈夫?」
「5人……だからね」
虚ろな目つきのまま伊津美はやっと返す。美咲は困ったような笑顔を浮かべる。
「そりゃお疲れさん」
行こ、と言って伊津美の肩に腕を回す。美咲はいつだって何処か男前だ。2月の寒さ、そして心細さにこのぬくもりはありがたい。感謝の思いをどれだけ伝えたかっただろう。
だけど上手く言葉に出来ない。どんなに周囲から持て囃されようと、対人コミュニケーションが極端に苦手である事実は変わらない。更に恋人の行方はわからないのに休む暇も無い。適切な判断力も建前も、もうとっくに見失った。
「うぅ〜〜っ、寒! やだやだ、冬は苦手だよ」
密かに罪悪感を覚えていることに気付いているのか否か、美咲はカラカラと笑いながら半ば強引に伊津美の身体を前へと導いた。
◇
「断られるってわかってるのに、みんなよくやるよね」
組んだ肩を時折ポンポンと叩きながら美咲が言う。伊津美はフッ、と乾いた息を零す。
「ヤケになっているんでしょう。一人が始めたら自分も……って、人間の性よね」
「伊津美さん? 何かやさぐれてる?」
美咲が恐る恐る覗き込む。大丈夫よ、と伊津美は軽くあしらった。顔色悪くやつれた声で、これで説得力があったのかどうかは怪しいが。
「ところで今朝のツインテール、なんだって?」
胸がまた嫌な軋みを覚える。伊津美はすぐに合点がいった。
「優輝のこと、何かわかったか……だって」
ふぅん、と素っ気ない声で呟く美咲。その顔を横目で伺うと嫌悪感そのものといった形だ。ただでさえ同性ウケが悪い1年生のあんな態度を目の当たりにしたのでは無理もない。
「っていうかさぁ、1年の神崎乃愛でしょ? なんなのさ、あの子」
ほら、やっぱり美咲も知っていた。やっぱりあの子もなかなかの有名人なんだ。そう納得する伊津美の隣で美咲は未だにぶつくさと不満を吐き出し続けている。ちょっと言葉を交わしただけでもあの空気。相性最悪なんてもんじゃなかったらしい。
やがて伊津美は彼女に教えてあげた。苦笑を浮かべて、力なく。
「あの子は、優輝が好きなのよ」
特に驚いたようでもない静かな視線がこちらを向く。それ以上この話題が続くことはなかった。
そして自分から話す気もない。伊津美は自らに限界を感じていた。
◇
美咲と別れてから間もなくして家に着いた伊津美は、もそもそと気怠い手つきで取り出した鍵を鍵穴にねじ込む。
キィィ……と、啜り泣くような音が鳴る。今日、母親はパートの日だ。
誰もいない静まり返った家の中、階段を登って自室に向かった。すでに半開きになっていた部屋のドアを更に開いた伊津美は、しばらくその場に立ち尽くす。
今、伊津美の虚ろな視線の先には、勉強机に乗った写真立てがある。入学式の時に撮ったものだ。
桜の咲き誇る校門をバックに写っているのはピースサインをつくった二人。
まだぎこちない固い笑みの伊津美。その肩に腕を絡ませた優輝は嬉しそうなくしゃくしゃの笑顔を咲かせている。彼らしい表情が前面に表れたこの一枚は伊津美にとってのお気に入りだった。
「…………っ」
抑えきれない感情が突き上げる。
伊津美の手からカバンが滑り落ちてドサ、と音を立てた。開きっぱなしの大きな口の中からペンケースやポーチ、教科書が無造作に散らばる。
ついに伊津美は倒れるようにして膝から崩れ落ちた。声にならない悲鳴が漏れる。
学校ではこれが溢れ出さないように、ひたすら心を殻で覆って隠してきたつもりだった。だけどもう限界だった。
膨らんでいく絶望が殻を内側から崩し、むき出しの中身が激しく揺れる。
明日またバラバラになった心の殻を拾って、組み立てて、学校に行くのだ。何事もなかったかのように、涼しい顔の仮面を被って。
……そんなのもう、無理。
――桜庭先輩は人気者ですもんね――
あの凍てつくように冷たい声が脳裏に蘇る。伊津美は反射的に、落ちているペンケースを拾い上げて壁に投げつけた。ガシャ! と内部のペンが音を立てた。
制服の袖を捲ると、炎症を起こしている訳でもない腕を激しく掻き毟る。呼吸が浅く、苦しくなった。綺麗に手入れしてきた長い髪もぐしゃぐしゃにしてしまいたい衝動。物理的な痛みでも与えなければ生きている実感が得られない程。
そもそもなんの為に、メイクをしたり髪を整えたり微笑みを貼り付けたりなどしているのだろうと疑問が湧いてくる。彼の居ないこんな世で何を努力する必要があるのだろうと。
彼が居るから楽しかったのだ。イマドキの女子高生らしくお洒落を楽しむ気になれたのだ。彼にとっての可愛い彼女でいたかっただけ。愛想の無い自分に出来る精一杯の努力だと思っていた。
それが何故、何故こんなことに。沢山の賞賛や羨望なんて要らない。今、欲しいのはただ一つだけ。
あの太陽のような笑顔にもう一度触れたい……!!
もはや感情のコントロールさえ効かなくなった伊津美の内心が淀んでいく。誰にも届かない思いを内側で響かせる。
褒め言葉の裏にあるものなんてわかっているわ。みんなが思っている以上に知っているわ! 特に神崎乃愛はこんな自分を軽蔑しているのよ。これ程までに壊れかけていることなど知る由もない。
「勝手なこと、言わないでよ」
伊津美は肩を上下させて荒く息を切らした。
「何も知らないくせに……ッ!!」
室内に響く自分の声を獣の唸り声のようだと思った。乃愛のことを言えない、誰にも聞かせられない醜い声。
そして答えてくれる者は居ない。ただ恐ろしい程の“無”を実感するだけ。
虚しさが伊津美の目の奥を容赦なく貫いた。乾いた肌に染みる塩辛い欠片がいくつもそこから零れた。
伊津美は上体を折るようにして、カーペットの上に倒れ込む。横向きになり、胎児のように身体を丸めて瞼を閉じた。
眠ってしまえ、このまま。
夢で彼に逢えたなら、もう戻れなくてもいい。
虚無の中で一刻も早く、意識が薄れてくれるのを願っていた。