19.スピカ〜Spica〜
一歩そこへ踏み入った瞬間、迎える人々が時を止めた。
驚きによって締まりのなくなった顔。向けられる無数の視線はそう、好奇以外の何ものでもない。
静けさから一転、何処からか始まったどよめきがみるみるうちに広がっていく。席に着いてからもそれは続いた。
……ねぇ、
居心地の悪さと恥ずかしさでつい表情が渋くなってしまう。
「何とかならないのかしら、これ。」
低く小さな声でこぼした。
目立つのが常だったフィジカルの日常からしばらく離れていた為か、それともあのときのものとは段違いの規模な為か、いずれにしても慣れるのは容易ではなさそうだ。
桜庭伊津美…いや、今はセレスか、と自ら訂正してみる。
2000年の時を超えようがただの一人の女でしかない私を、この場の皆が例外なく知っているとは実に難儀なこと。
「何たって女帝セレスタイトだもん、みんな見ちゃうよね。」
そう相槌を打ってくれるクー・シーの目はテーブルの上のカレーライスに釘付けだ。キラキラと眩しいくらいに輝く円らな朱の瞳。好物なのだろうと一目で察しがつく。
「みんな悪気はないんですよ。むしろ見惚れているはずです。」
セレスはすごく綺麗だもの…と、せっせと人数分の水を運びながらミラが言う。
「…落ち着いて食べられないわ。」
元伊津美ことセレスはスプーンを咥えながらぼやいた。みんなの気遣いは重々承知の上だが、どうしても不満が漏れてしまう。
昨夜以来、やけに素直になっている自分に気付く。良くも悪くも、だが。
でも良かったじゃん、セレス!
クー・シーの明朗な声が立った。口の周りにごはん粒をいっぱい付けた彼が言った。
「大きい身体に戻ったからお腹いっぱい食べられるね!」
ぶふっ…!
思わず吹き出してしまった。不覚だったという程に。
笑ったぞ!と何処からか声が上がったけれど、それすら気にしている余裕がない程に腹筋が苦しく治まらない痙攣を続けている。
ミラも同じように笑いを堪えて震えている。当のクー・シーはまるでわかっていない様子で、えっ、えっ、と言いながら笑う二人を交互に見ている。きっとそのハムスターみたいなまん丸な頬が一層笑いを誘っているとも知らず。
「そ、そうね。」
「もぉ、クー・シーったら…」
色々と突っ込みたい気持ちを抑えつつ、ミラと揃って彼へ返す。クー・シーがほんのり頬を染めてへへっ、と照れ笑いをこぼした。きっとわかっていない。
やんわりと和む空気の中でセレスは時折視線を上げた。
この食堂に新たな人が入って来る気配を感じる度に。
しかし思い描いた姿がいつまで経っても現れない。ただ馴染みのない王宮従事者の驚く顔が次々と現れるだけ。
今日は来ないのかな…
料理を口に運びながらそんなことを思った。
身も心も消耗したあの騒動から一夜明けてまだ昼を迎えたばかり。
一日顔を合わせていないだけで…いや、顔を合わせていない日などなかったではないかと今更のように気付く。ここへ身を置いてからただの一度も、と。
だけど単に頻度だけの問題ではない。妙に引っかかった。
レグルスたちに助けられた昨夜、別れ際に目にしたあの表情のせいなのだろうか?
あれはやっぱり気のせいなどでは…
「…セレス?」
一つの幼い声に引き戻された。不思議そうな顔をしたクー・シーが覗き込みながらどうしたの?と問う。
ううん、
セレスは返した。心配をかけまいとできるだけ、笑顔で。
だけど口にしてしまった。それ程に頭から離れなかった。ただ…と切り出した。
晴れない靄に導かれるように、彼女の名を。
「メイサ…まだ来ないのかなって。」
ああ!と納得したような声が上がった。クー・シーだった。彼は何か知っている。声と丸く見開かれた目が示している。
だけどもう一つ、感じ取ったものがあった。見逃さなかった。
彼の隣にいるミラの表情に落ちた一抹の、陰。
「メイサなら今日からしばらく休暇を取るって言ってたよ!」
クー・シーが言う。いいなぁ、とこぼす彼の双眼は羨望に潤っている。
「何処か行くのかなぁ。僕も大人だったら一人でもお出かけできるのに…」
その言葉を受けて何か、悟った。未だ隣でうつむいているミラの表情を見てなおのこと。
「大丈夫よ、クー・シーもすぐに大人になるわ。」
微笑んでそう答えると彼は照れ臭そうに身をよじさせた。ふとミラへ視線を送った。
こちらに気付いていない、物憂げな表情を下へ落としたまま。
ミラはきっと知っている、と感じた。例え幼い少女に見えようとも、彼女はれっきとした大人の女性なのだから、と。
でもそんな彼女が秘めるものをクー・シーが聞かされていない以上、この話は広げるべきではないのだろう。少なくともこの場では…
伊津美的思考がそう忠告してくるのだ。
ん…?
やがて気が付いて目を凝らした。
食堂に入ってきた何人かのうちの一人がひらひらと軽く手を振っている。前を歩いていた人、立ち話をしていた人たちが一斉に道を開け、こうべを垂れている。
ほんの数人とはさながら友達のような気さくな挨拶を交わしているように見える。
空いた空間を歩く独立した全体像。遠目からでもすぐにわかる目立ち過ぎる外見がこちら側へ向かってくる。
「レグルフひゃん!!」
頬を膨らませたクー・シーがぱっと笑顔の花を咲かせた。口を開いた拍子にごはん粒が一つポロリと落ちて、セレスはまた吹き出しそうになるのをこらえた。
「カレーかぁ、いいな。」
「レグルスさんもカレー好きだよね?」
「ああ、好きだよ。」
クー・シーと言葉を交わすレグルスは優しげに目を細めている。昨夜目の当たりにした表情とよく似ている。
彼はそのまま席の横を通り過ぎ、カウンターからカレーライスの乗ったトレーを受け取ると、ごく自然にセレスの隣に落ち着いた。
「ーー驚いた。」
隣を見ながらセレスは言った。彼がん、と呟きを返す。
「何がだ?」
「普通にここで食事をするのね。」
一瞬丸く見開かれた赤い目。それからははは…と大音量の笑い声が上がった。
何かおかしなことを言っただろうか、そう思っていたところへ笑い混じりの彼が言う。
「アンタがここで食事をしていることの方がよっぽど珍しいだろ!」
「まぁそれはそうだけど…」
ちょっぴり恥ずかしくなって口ごもった。やっぱりまだ慣れない。
レグルスの口調はすっかり砕けたものに変わっている。彼の二人称は男女問わず“アンタ”らしい。そういえば初めて会ったときもいきなりそう呼ばれたな、と思い出す。
こうして聞くとメイサとよく似た話し方だ。偶然なのかそれともどっちかがどっちかに影響を受けたのか…まぁそれはいい。問題はこんな彼が王女のフィアンセだということだ。
黙っていればなかなか絵になるのに一度口を開くと品格が半減する。彼はこれで大丈夫なのだろうかと心配にさえなってくる。
だけどきっと大丈夫なのだろうと思い直した。不思議と居心地の悪さはないし、何より自分がこの人となりに救われている…悔しいが認めざるを得ないだろう、と。
ーーセレス。
ふと横から呼ばれた。クー・シー、ミラと雑談を交わしていたレグルスがいつの間にかこちらを見ていた。彼は言った。
「アンタに会わせたい人がいるんだ。食事の後、一緒に来てくれないか?」
「会わせたい…人?」
小さく繰り返したとき向かい側からわぁ!と声が上がった。クー・シーだった。
「レグルスさん、いよいよだね!」
待ってましたと言わんばかりに目を輝かせている。隣のミラと顔を合わせてふふ、とくすぐったげに笑い合っている。
何だろう…セレスは自身の中で呟く。こんな光景を何処かで見たことがあると。
そしてすぐに思い出した。これはサプライズを仕掛けるとき、そう気付くなり流れるように思考が動き出す。
王宮従事者でまだ顔を合わせていない人なんていくらでもいるだろうが、おそらくは今後関わりを持っていくべき人物。もったいぶったようなみんなの反応…
「もしかして、王女様?」
ぴたり、と静まった。セレスは目を見開いた。
この感覚もまた知っている。そう、“スベった”ときであると。
「え、違った?」
「う、ううん、違くないけど…」
答えたクー・シーの顔に戸惑いのようなものが浮かぶ。これは何だと目を見張る。
外してはいない。だけど何か別のところで外した感覚が否めない。
そしてすぐに知ることなった。続いた彼らとのやり取りによって。
「あーあ、セレスもう気付いちゃったよ…」
「しょうがないわよ、クー・シー。本当はびっくりさせたかったけれど…」
え、え??
悲しげなクー・シーと困ったように笑うミラの顔を交互に見ていた。隣からの視線に気が付いた。
暖色の赤でありながら冷めた質感の目をしたレグルスが、追い撃ちをかけた。
「…アンタは勘が良過ぎて時々つまんねぇな。」
「え、ちょっと待って、」
唖然として呟いた。
「私が悪いの?それ…」
ショックだ。そしてやるせない。
まさか勘の良さを否定される日が来ようとは。
仲間とは優しく温かい。だけど難しい。
やっぱりまだ慣れない、とセレスは胸の内で唸った。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
おい、セレス。
長い廊下の途中、時折小さく振り返る。前を進む彼が呼ぶ。
「いい加減機嫌直せよ。」
「………。」
この男、簡単に言ってくれる。
セレスは押し黙ったまま後を付いていく。憮然とした自らの表情に気付きつつも簡単に切り替えるなどできそうにない。
そもそも傍にいるのが彼だからかも知れないが。
はぁ、と前からため息がした。やれやれとでも言いたげな気だるい声の混じった音。そして同じ声が言う。
「アンタはもうちょいノリってもんを覚えたほうがいいぜ。」
カチン。脳天でそんな音が鳴り響いた気がした。セレスは目の前の背中を睨みつけた。
「…考えてみなさい、レグルス。」
「あ?」
低く呼びかけると不意を突かれたように彼が振り返った。訝しげな顔、わかっていない様子のそちらに教えてやった。
「落胆した少年と少女の顔がどれ程私の心を痛めつけるかを…!」
「知らねぇよ!そこまで俺のせいにすんな!!」
負けじと声を荒げるレグルス。立ち止まった彼の身体が完全にこちらを向く。
見るからに勝ち気な眼光鋭い目が呆れたみたいに見下ろしてくる。簡単に折れはしないのだろうとわかる。
こんな彼についていくつか分析をしてみた。度々見かける顎を突き上げるような仕草は自分を大きく見せようという気持ちの表れ、これは実にわかりやすい。こうすることで相手に威圧感を与えられると知っている。
きっとエベレスト並みにプライドが高く自分の否を認めるのが苦手なのであろうと。
だけど無論こちらだって引く気はない。一度はなりふり構わず感情をぶちまけた相手。今更取り繕ったって無駄だし遠慮などいらないと更に身を乗り出し声を上げる。
「よっく言うわ!追い撃ちをかけたのはあなたじゃない!」
ひく、と彼の口元が引きつる。その足元から地響きが起こるような錯覚を感じる。
いいわ、来るなら来なさい。そんな風に身構えた。彼がしたのと同じように見下ろすような視線を送って言った。
「傷を隠していたのを知ったときはいい人だと思ったけれど、買いかぶりだったようね!」
「あれはただ無様な姿を見せたくなかっただけだ!アンタの為じゃねぇ!」
「何ですって…!」
突き合わさりそうな程に迫ったセレスとレグルスの紅潮した顔。両者はますますヒートアップしていく。
そこへふわりと漂った香り。甘くそれでいて品の良い、そう百合の花のような…
「感謝していた私が馬鹿みたいじゃない!」
「だーかーらーっ!」
過ぎ去った香りとヒタヒタと遠ざかる足音。
何か言いかけていたであろうレグルスの表情が固まった。彼の視線はこちらを通り過ぎたもっと奥で止まっている。セレスもそこへ振り返る。
揃って同じ方へ見入った。その先の“彼女”が、ん、と何とも可愛らしい呟きと共に振り返った。
まだそれ程離れていないことからはっきり見て取れた姿。
栗色のくせ毛っぽいショートヘアに、大きなエメラルドのような宝石の付いたティアラ。同じ色をした二つの円らな瞳が日を集めた湖のよう。
オフショルダーの七分袖のトップスに裾がゆったりとふくらんだパンツ、歩きやすそうなフラットシューズを履いている。
そして何より見過ごせないものが…
「スッ…!」
す?
何か冒頭だけ口にしかけたレグルスが素早く彼女の元へ駆け寄った。
慌てた様子でこそこそと耳打ちしている。当の彼女はぽかん、とあどけない表情のまま頷いている。少し戸惑っているように見える。
怪訝に眉をひそめて立ち尽くすセレスをよそに、そそくさと遠ざかっていく二人の姿が突き当たりの曲がり角に消えた。
数分後にレグルスだけが戻ってきた。何を急いだのかかすかに息を切らしながら。
「わ、悪ぃ、あともう少しで着く。」
「は、はぁ…」
動揺した顔を隠すみたいに元の方向へスタスタと足早に歩き出す彼に続いた。しばらく行った突き当たりを曲がったところでそれは現れた。
眩い程の白が視界を埋めた。繊細な文様の入った観音開きの大きな扉、高くそびえ立つ両の柱に圧倒されてしまう。
教会を彷彿とさせる荘厳な外観のそこには執事と思われる装いの若い紳士が両端に一人ずつ立っていた。音もなく、レグルスが頷いた。それが合図だったのだろう、二人の紳士が同時に扉に手をかけた。
薄暗い廊下に射し込む、光。セレスは目を細めた。
次第に慣れ始めた瞳孔が目の前に広がる輪郭を徐々に細かに捉えていく。
様々な色を放つステンドグラス、複数の巨大な筒の群れはパイプオルガンだろうか?
まさに教会以外の何ものでもない、そう思い始めていたとき気が付いた。ひたすら広い空間の中、ぽつりと佇む華奢なシルエットに。
目を凝らした。そして、見えた。
栗色のくせ毛っぽいショートヘアに大きなエメラルドのような宝石が付いたティアラ。同じ色をした円らな瞳。オフショルダーの薄紫色のドレス…
………
「………」
ちらり、と隣に視線を送った。誇らしげな顔をしたレグルスの横顔に言ってやりたいことがすでに浮かんではいるものの、あまりにもわかり切った答えをわざわざ口にする気にもなれない。
「見よ、セレス!」
見たこともない程、輝かしい彼の顔がこちらを向いた。セレスは悟った。まさかとは思ったがどうやら言うつもりのようだ、と。
冷めた視線に気付いているのかいないのか彼が語り出した。イキイキとした口調、やはり気付いていないのか。
「このお方こそが、アストラルの王女にして最も女神に近き存在…!」
【プリンセス・スピカ】だ!!
でしょうね、と返したくなる。一応従うように前へ視線を送る。
あんぐりと口が半開きになった。頬を両手で包み込んだその人が言った。
「嫌だわ、レグルスったら……」
恥じらうような……いや、むしろこちらが恥ずかしくなるような甘い声。
あどけない乙女みたいな容姿と声を持つこの人がアストラルの王女、名はスピカ。よく似合っているわ、その名前……などと思ってみる。
あのー。
遠慮がちながらセレスは切り出した。得意の冷ややかさを声に乗せて
。
「わざわざセッティングし直さなくても……」
言っておくがこれは空気を読まなかった訳ではない。交わり合う二つの熱っぽい視線によって瞬く間に薄桃色へと染め上げられた空間、こうでもしなければとても居られない。
止むを得ずの対処であったのだ、と。